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2010年9月 7日 (火)

戦争の話(24) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 7 日 戦争の話(24)

<橋爪一郎従軍記>

1963年度の「学級通信」に一年間連載された「戦争の話」は終わりましたが、その数年前の1959年度の「学級だより」(辺春中学校一年二組)にも、戦地中国に関するエッセイが連載されていましたので、その中からいくつかをピックアップして掲載します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

   お早よう。の巻

 ニン、チ、ラ、ファン、ラ、マ(あなたは、ごはんは食べましたか?)

 日本では、「今日(コンニチ)は。よか天気になりましたの。」とか、「くもりました。」「ふりそうですね。」「寒(カン)がしますのー。」など、朝の挨拶は天気予報一点ばりです。支那では、いきなり「飯は食うたか。」が「お早う。」です。日本の昔の侍の子供が、腹がへっても「ひもじゅうない。」と言わされていた事とくらべて、支那の人が、食べることに、どんなに気をくばっていたかがわかります。(自分ばかりいいものを食べないで、食べていない人には分けてやる位の気持ちは持ちたいものです。)食事は、一家、家中そろって家の前(日本なら玄関の所)で、立ったり、坐ったり、いかにも楽しそうに食べます。(みんな腹一ぱい食べた時、これがお早う。朝から天気の心配をしている私たちより、ちょっとほほえましい所がありそうですね。)

1959年八女郡辺春(へばる)中学校『学級だより』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

コメント

おはようございます。
写真>>あれを撮った場所はもうありませんね。※
この世で最後の1枚・・。
今は神棚の下に掛けていますが不思議にマッチしています。

※古代の河口と思しき場所から見はるかす矢部川

投稿: エメ | 2010年9月 6日 (月) 07時06分

えっつ。もうない!?それはどういうことです。

橋が撤去されたって事です。
またあっちに行くときに寄ってみます。
古代の風景にもどったともいえますね。

矢部村に伝わる民謡です。(↓)

http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/7geinou/minyou.html

春祭の歌詞(ヤーエ節)
  一、こちの座敷はヤーエ祝いの座敷
    鶴と亀との舞い遊ぶ
  二、鶴と亀とはヤーエ何して遊ぶ
    末は繁昌と舞い遊ぶ
  三、とどけとどけヤーエ末までとどけ
    末は鶴亀五葉の松

ヤーエ、はヤーヴェと同じく、絶対神の呼び名。
そして、これまた日ユ同祖説でしばしば出てくる「かごめかごめ」の歌詞(鶴と亀が滑った)と響き合う歌詞が伝承されています。

鶴と亀とが舞い遊ぶ歌詞は全国いたるところにあるようですね。矢部村の特色は、ヤーエのあいの手がはいるところ。
神社検索では、星野村には神社は1つしかないというのに、矢部村には34もあります。矢部村の古代史に何かがあったのでしょう。
「千人塚」が三か所あるという伝承もあるらしい。矢部村の人口を考えると、全滅に近い大虐殺が行われたかも。

わらったらいかんのやけど、わらいますよね。
常識のはなしをしますと、矢部というのは、弓矢を作る部族が住んでいたところですよね。
でも、そんなはなしはあまりきいたことありません。今朝、内弁、外弁というのを調べていたら「八女の手仕事」というブログにつながりました。そして、そこでは職人さんが弓矢をせっせと作っておられた。たしか、熊鷹の羽。絶滅危惧種だから、ほかの鳥のかもしれん。

http://yamekougei.exblog.jp/i25/

 撓り佳き八女の矢竹や初明り  恭子
八女の竹は特別だって何かでよみませんでしたか。エジソン、電球のフィラメント、むかしは竹だった。それも八女のじゃなきゃだめだったらしくて。どうしてかな。と、ずうっと疑問に思っていました。(これ、調べたら京都のマタケ、いわしみずはちまん)
次から次、こんなどうでもいいことがかけるものだわ。

投稿: かささぎ | 2010年9月 6日 (月) 22時31分

コメント

過ぎ越しの祭のとき、マナの粉と竈(かまど)を取り寄せてくれた日本人所長

http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb511.html

の八章にあります。マナイ神社奥にこのじんじゃがあります。かささこれは、しっていた。どこでよんでいたのかな。そうだ、最初は吉野裕子の『隠された神々』ででした。つぎに太田竜のユダヤ本。
ところで、この本ですが、「ユダヤ人、浜寺」で検索して、一番目に出たものです。トランベルドールの写真をみることができますので、ぜひごらんください。浜寺教会、捕虜収容所が生んだものではありませんでした。でも、浜寺、と出たとき、びっくりしました。

25年前に米谷よね子著「過越しの祭」を読みました。
ユダヤ人のご主人の家庭の風習など興味深く読みました。
あと自閉症の息子さんとの格闘の子育て「遠来の客」も秀逸です。
久しぶりに検索してみたらまだまだお元気で気迫があります。
youtubeに2009年のインタビューが載ってました。

あわてました。「米谷ふみ子」氏です(^^ゞ

「関東軍を日本の関東に本部がおかれてる軍隊だとばかりおもっていました(かささぎ)」って、こりゃ恥ずかしいことでも何でもないです。私より10歳ぐらい年上の人で、15年ぐらい前に同僚だった国語の先生もそれに近いことしか思ってなかったし~漢文で山海関とか函谷関とか出てくるのにね。おそらく戦中派だって知らない人多いと思いますよ。
それこそ私のほうが恥ずかしながら、この商売していながら30過ぎまで関東州とは、中国の関東地方かな?というぐらいで、あまり深く考えてませんでした。ある時ふと、中国に山海関というのがあるけど、その東という意味かなとひらめいた、そして調べたらその通りだったというお粗末。
そこで今度は、日本の関東・関西ってどこの関を基準に決めてるのだろうと疑問に思い、何でも考えかんでも知って…のケペル先生に習って調べてみました。そしたら関西は鈴鹿・不破・愛発の三関が区切り目になってるが、関東は時代によって違い、上記三関以東の時代から逢坂の関以東を指す時代、そして中世以降は箱根関以東を指すようになったらしい、いやはやまた一つ賢くなった。

上のコメント、名前入れ忘れました。ついでの追伸、「山海関」というお店、中華料理店でしょうか。私の錆びついた中国語が通じるかどうか、一度行ってみようかな、ついでに25年ぶりの岩戸山古墳にも、と思いました。
戸>私は昔柏戸のファンでした。あ、こりゃ無関係で失礼。

ろいりさんこんばんわ。
古墳のふもとの山海関は居酒屋さんみたいです。
たぶん日本語でOKだと思います^^
おおぐうぜん! 私も柏戸派。
わが家は大鵬派=祖父、伯母 VS 柏戸派=祖母、私で、
決戦勝負は大騒ぎでした☆彡

乙四郎先生のお徒歩番(馬を許されない下級武士)をずうっとしているかささぎです。つくづく妙な役回り。きっとでっかいぱんをふんだにちがいない。その償いをさせられているのだと思って眠たいときも身をコナにしてかんぱってるあるよ。出勤前、アクセス解析をなんとかまとめましたが、まだ見ていない。漫画家の方の新聞投稿を知らずにアップしていたのかな。
えめさん、米谷ふみ子、中城ふみ子。ぜんぜん違うのに、なんか似てる。ああそうか。なまえがおなじだ。っ(てそれだけじゃん。にてるの。)過ぎ越しの祭り。わたしも読んだみたい。芥川賞でしたね。中城さんは歌人でした。説明文をよんでいたら、「自分を装飾するために」なる言葉がプラスの意味で使われていました。それになんともいえないびっくり感を味わいました。いいんだ。じぶんを装飾してもいいんだ。と思って。なんかさ。日本人て妙にひげばかりするじゃない。卑下。かざったらだめ。みたいな。でも、いいんだね。飾っても。あれ。そういう意味じゃないのかな。↓

http://www.lib-obihiro.jp/nakajou/index.htm

はなし、ぜんぜん関係ないとこ、走ってる。

ろいりさん。どうしてかんこくのひと、濁音にがてあるか。理由、しってたらおしえてくたさい。
はこねのやまはてんかのけん。かんこくかんもままならず。←かんこくかん。韓国間ではなく函谷関という関所だったか。そうでしたか。

戦争の話、どうしてどんな風に戦ったのか、細かなことを知らなくて、橋爪一郎従軍記をよんでいますと、具体的なことが見えて、その上、生徒に伝えようと、というより自分で自分に忘れぬようにいいきかせるかのようで。戦争の記憶を書きつける筆の全身の思惑が微妙なタッチで伝わります。
書くまいとしていること。書こうと努めていること。
きっと一郎サンは今のわたしたち以上に、じぶんたちが所属していた関東軍という組織への疑問と怒りと理不尽さでいっぱいだったでしょう。でも、それをあからさまには書かれていません。なにか、明るい、たのしい、おかしいことでもあるかのように、書かれています。
こどもが特別な体験をわくわくと記すかのような書き方。
そうでもしなきゃ、やりきれなかったのでしょう。
それとも、時代が求めるものに答えたのだろうか。
なんとなく思います、先生は大切な戦記を学級便りの端っこに書いていた、でも、こどもたちはそんなの見ていなかったのではなかろうか。と。
でも、それでも、先生はきちんと書かれている。
そして、いまの私達がそれをきちんと読んでいる。
(これでいいのだ)。ですね、モリヤまさん。

投稿: かささぎ | 2010年9月 6日 (月) 21時55分

子供の好きな「巨人・大鵬・卵焼き」に対して、渋い大人好みの「西鉄・柏戸・フグ料理」、というのを昔「フクニチ・スポーツ」で読んだ覚えあります。私は「西鉄・柏戸・豚料理」でした。
で、「どうしてかんこくのひと、濁音にがてあるか」という質問への答えですが、まず濁音苦手なのは韓国・朝鮮人より中国人です。正確に言えば、中国語では日本語のように「濁音・清音」という区別がなく、そのかわりに「有声音・無声音」という区別があり、この無声音が濁音と清音の中間ぐらいの音なので、日本人には濁音に聞こえないわけです。欧米人が、どうして日本人は「R」と「L」の区別をつけきらんと、というようなものでしょうか~これはコリアンも区別しきらんが。
韓国・朝鮮人は語句の頭に来ると清音なのが途中に来ると濁音っぽくなる、でもそれは本人たちがそう意識してません。
例:釜山のアルファベット表示はちょっと前まで「pusan」だったけど今は「busan」と書くようになった。つまり日本的発音の「プ」と「ブ」の中間音で、語頭にくると「プ」に近く、途中に来ると「ブ」に近くなるけど、コリアン語には別に破裂音の「pu」があり…あ~ようするに外国語の発音ちゃ難しかちいうこと。
外国人に言わせれば(アジアン・欧米人問わず)、日本語の撥音「ん」には「m」「n」「ng」の三種類あって、これがなぜ同じ「ん」であらわされるか不思議らしい。促音の「っ」がまた難しく、洗濯機がなぜか「せんたっき」になる、これも日本語を習う人にとってわかりにくい~だから「チョト マテ クダサイ(クタサイ・クラサイ)」となる。
というわけで私の「日本語論」をまとめて紹介する機会がなかなか持てませんが、少なくとも、日本語だけが綺麗で美しい、あるいは奥ゆかしい言語と思っちゃいかんのですよ、あるいは昔の日本語は美しかったのに今の日本語は乱れていてウンヌンカンヌンというのにも反対、日本語は昔から「乱れ」つつ今の日本語が形成されてるのです。旧仮名遣いが正しいと思ってる人は、まず発音も旧仮名遣い風に発音してからそういいなさい、というのが私の主張です、と言いながら、「私は(を)」を「私わ(お)と」書くのにはやはり違和感を覚える。ようするに自分が使ってきた言葉に対しては保守的になるんですね、人間というものは。

ろいりさんは学校の授業でもこういったことをしゃべっているのかなーと、ニヤニヤしながら読みました。
それにしても、音楽の事やら映画のことやら、ようしっとんなさる。かんしんするわー。

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コメント

おはようございます。 台風遠いかと安心していたらけっこう吹いて来ましたね。
矢>>友人が昔内職者でした。
一般の内職よりお給金が高かったです。
かなり技術が必要のようでした☆

中国での「戦争」では、日本軍は誰を相手に戦っていたのか。一郎エッセイを読むとこんがらがってしまいます。エッセイではしばらく、日本の兵隊さんの南支那での中国人との交流の様子が綴られますが、これがあの「南京」周辺地域での実態でしょうか。反日感情が渦巻いているようには思えません。
Wikipediaの下の記述が、一郎エッセイの背景理解に役立ちました。日本軍は、どこかの「軍」と戦ってたけど、そこに住んでいる「中国人」と戦っていたのではないようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
当時の中国大陸では、日本軍・南京中華民国政府軍・蒋介石国民革命軍・共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊や抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。その中で各地で暮らしていた中国人達は翻弄され、農業や商業、工業、運輸などの生活基盤を破壊されると共に各勢力の戦闘やゲリラ戦に巻き込まれ命を落としたり、戦闘継続の中で各勢力に食糧を徴発され、飢餓に陥る人も大勢いた。また日本人をはじめ在留外国人も戦闘に巻き込まれた。

では乙四郎の期待にこたえて幾つか食べるからご紹介しましょう。なに。期待しとらんてや。
ほんとは、『戦艦大和と塩不足』、ってのを一番ひきたい(最下級の罐カマ部の兵士の目から書かれているから。だけど、あれですよ、日本て国はすんばらすい。底辺だろうが何だろうが、みな一様に識字率高いです)。

輜重兵に塩を求める少年
      茂原市 金子哲郎(無職・79歳)
日中戦争で輜重兵(しちょうへい)特務兵として召集され、馬のくつわをつかまえて、中国南部の平原を連日、チャカチャカ、チャカチャカ、馬の金具の音を立て、土煙を上げて行軍した。
ある日、激しく行進する車の列に、おずおずと小学校高学年くらいの男児が近寄って来た。ちょうど自分の馬の所で「塩」と墨書したハンカチ大の紙片をかざす。ははあ、これがいつか古兵の言っていた「塩をくれ」ということかと合点。
まずイイ公(持ち馬の愛称。うれしい時、長い顔を上げてイイイと鳴く)に「前の車に付いて行くんだ。ええか」と言って、手綱をくらに結びつける。子供に合図して車馬の横を走り、塩を積んだ車両に達する。揺れ動く車輪に疲労の体を巻き込まれないよう用心しつつ、塩の俵に手を突っ込み、ようやっと十数握り、抜き取ることに成功、子供の袋に入れてやる。
子供は「シアシア(感謝のシャ?)」とか言って、提げて来たかごの鶏卵十数個を手渡し、早々に背丈もあるカヤのかなたに消えうせた。
交通が途絶え、避難している大陸の人々は塩を欠く。そして馬を伴う部隊は、必ず塩を持っていることを知っている。馬のえさにはその都度、塩を混ぜる。そこで、男の子を使いによこす。これが当時、塩を手に入れる一番危なくない方法だった。
塩がいかに人、馬、生き物に重要、欠くべからざる物であるかを今更ながら感ずる。(1990・10・31)

備考;しちょうへい今で言う輸送兵。
当時の主力輸送車は、さんきゅうしきしちょうしゃ↓。馬一頭でひく大八車みたいな。


戦艦大和と塩不足
  
  岐阜市 青木幹夫(無職68歳)

世に言うレイテ沖海戦に私は、戦艦「大和」罐(かま)部の最下級の兵士として参加した。
戦況のことなど何も知らされないまま、文字通り汗と油にまみれて戦った。「大和」は冷暖房完備の新鋭機と言われていたが、クーラーは士官の部屋や病室にあったのみである。我々兵員室には、上甲板の巨大な通風筒からファンによって送られてくる空気によって、幾分、冷房効果はあったので、他の艦船より居住性は確かに良かったようである。
その通風装置も、一度、戦闘となると、毒ガス防御のために一切が止められてしまう。レイテ沖の場合も同様であった。ただでさえ暑い機関室である。室温は摂氏57度まで上がった。
異常な発汗によって、脱水状態になった上、塩分の極端な不足を起こして、熱射病患者が続出した。医学的には熱射病とはどう定義されているか知らないが、私の体験したところでは、身体のすべての関節にけいれんが起こり、やがて、立っていることが出来なくなり、その場に倒れてしまうという症状であった。
そんな時、上層部の配慮か、薄く塩味のついた重湯と梅干し数個が、戦闘服に身を固めた主計兵によって配られた。これによって、少なくとも私の場合、軽い症状を覚えながらも何とか持ちこたえることが出来た。
人間にとって、塩分の不足がどんなに恐ろしいことであるか、身をもって体験した私は、グルメとか減塩とかいわれる現在を見て、感無量の思いで当時を振り返っている。(1990・8・24 朝日新聞投稿記事)


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