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2010年9月 3日 (金)

戦争の話(20) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 9 月 3 日 戦争の話(20)

<橋爪一郎従軍記>

   まっ白い兵隊さんの巻の(1)

 牡丹江(ボタンコウ)の原っぱでの一ヶ月はつらいものでした。0(レイ)下三十度の日もある二月の末で、土の上にごろね、家は布の天幕ですから夜はたまったものではありません。幸いに伍長ですから天幕のまん中の炭火のそばにねて、わりといばったものではありましたが。雨は絶対に降りませんので毎日が戦争のけいこばかり、歩けば寒いので、大てい走りまわります。疲れて帰えれば夕飯とねる事が楽しみ、風呂は全然ありません。ねると言っても、服のまま、時には靴のままですから誰もがよごれっぱなし、不衛生な話です。でも後で考えると、ほんとうの戦争そっくりの生活でしたので、ためになる一ヶ月だったわけです。

 三月にはいって、何もかもまっ白い服になってしまいました。帽子から靴から鉄砲まで、馬も馬車もまっ白い布をかぶって、完全白色です。はげ山では人も物も雪に見え、くぼみの雪山では何にも見えません。まっ白の兵隊の、まっ白い雪山を見つけての演習が何の目的であるか、さっぱりわかりません。そのうちに誰言うとなく、北海道へ行くげな、千島列島げな、樺(カラ)太げな、さてはシベリヤ突入だ、日本軍全滅のアツッ島うばい返しだと、うわさはいかにも本当らしくひそひそ話をしたものです。私はひそかによろこびました。「北の方はまちがいなし。」「北へ行くのに危い海を舟で行くはずなし。」すると「必ず日本を通って北の国のどこかへ行くはずである。」「よし、それなら手紙をうんと書いてためておこう。」(その頃、手紙は禁止されていました。)「もう一度、日本を見る事が出来るのだ、バンザイ。」その頃から、私と同じ考えらしく、こっそり何かを書いてはひとり笑いをする精神病見たいな者がふえました。

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学年通信』より

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

>でも後で考えると、ほんとうの戦争そっくりの生活でしたので、ためになる一ヶ月だったわけです。

いまの青年が同じ体験をしたら、。
「ためになる一ヶ月だった
」といえるだろうか。

コメント

引用した牡丹江ブログのあるじ、「時新電影倶楽部」という中国映画紹介サイトを運営しておられる三十台なかばの日本人であります。いや、すげ。いまの大陸に雄飛ってこんなんでしょうね。紹介したのは、プライベートを記すブログみたい。その中に、李紅旗という監督の「寒暇」という新作紹介があります。みたい。香川宜子さんの「紅輝よ波間にわが身を照らせ」からの連句的。
ほんじゃ。学長みないなことかいてはる↓この開学記念日のとこ。

http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/c/90606c836522b40e00597c84dd7caeda

あれ?はりつけたのにな。
もいっかい、やってみよう。
こんどはどうだ。ちがうのつけよう。
http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/c/9a08462d356e210e3ca01d06d5051443

こういうのをよみますと、大陸的というのも、いいなあ。と思います。いや、ほんと、いいなあ!

ご紹介のブログの「安徽省黄山」には登ったことがあります。まさに水墨画の世界が広がっていました。

笑っちゃいけないけど次どうなるんだろ?不謹慎ですがわくわくする日記ですね。

捕虜の時代日本人が作った道路の話が出てきますが、ウズベキスタンで日本人捕虜が作ったオペラ劇場が数年前の大地震でびくともしなかったという話がありますよ。
            ↓
http://d.hatena.ne.jp/baiksaja/20100407#1270656853

日本人は捕虜になっても立派な仕事を残し、捕虜を受け入れても誠実に対応しています。
どんな世の中でも一部には悪いことをする人は必ずいます。軍隊の中でも同じだと思います。
その一部の悪いところだけを取り上げて全体が悪かったように言うのはどうしても許せません。
投稿: さくら | 2010年9月 2日 (木) 16時14分

Wikipediaで大量虐殺の系譜を辿ると、紀元前に次の4つの大虐殺が記載してあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ユダヤ人による占領地カナンでの先住民虐殺
秦による長平の戦いにおける事後処理
項羽による新安での降伏した秦兵の虐殺
秦の始皇帝による坑儒
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
二番目の長平の戦いの事後処理というのは、紀元前260年に「秦」(白起)が「趙」の兵士ら40万人を生き埋めにしたというものです。
三番目は、紀元前232年に、「楚」(項羽)が「秦」の兵士ら20万人を谷穴へ落としたというものです。
四番目は、紀元前212年に秦の始皇帝が儒者を生き埋めにしたというものです。
「秦」氏はユダヤの「失われた十支族」のうちのダン族である、という説は有名ですが、その説が本当だとすると、紀元前の大虐殺にはすべてユダヤ人が関与しているということになります。(紀元後のポグロムもホロコーストも原爆も・・・)
三番目の虐殺と四番目の虐殺の間の紀元前219年、「秦」の始皇帝の命により徐福一行が来日します。「童男童女三千人と、護衛の兵、水夫ら数千人」の一万人近い移住プロジェクトだったようです。
徐福一行は、日本の大量虐殺の系譜の筆頭の地(大和による磐井制圧)、八女にも来ています。
「秦」兵を虐殺した「楚」は、9年後の紀元前223年に「秦」に占領され、安徽省で滅んでおり、徐福は人を「楚」の地域から集めています。移住プロジェクトの実行に際し、徐福は「楚」の人間を側近に重用しています。徐福一行は日本の「ハタ」氏のルーツだとされていますが、必ずしも秦氏ばかりが移住してきたわけではなさそうです。
(後に楚の人間である項羽や劉邦は秦を滅ぼします。)

ウズベキスタンのナヴォイ劇場、行きました。立派な建造物です。現地の人たちも、日本人が建設したということを知っていました。

数年前の春、上海→蘇州と汽車に乗り、無錫に寄って(尾形大作か!)、その他あちこち寄りつつ、南京にも寄って、「南京大虐殺記念館」にも恐る恐る行ったけど日本人だからと冷たい目でも見られず、却っていろいろ親切に教えてもらい、それからまた夜行列車で黄山に行きました。こりゃ登るのはきついですね、幸いロープウェイを適当に使って慣れぬ山歩き。白人のオネエチャンともブロークン英語でいろいろ話して仲良くなったり(といってもその場だけですよ、為念)、一人旅のよさを感じました。山頂で一泊すると、さらにいっそう水墨画の世界を楽しめたんだろうな、というのが心残り。さらにもう少し先に行くと、久留米と姉妹都市の合肥だったが、さすがにそこまで足延ばせなかった。
さくらさんの弁を借りれば、一部の中国人や、韓国人の悪いところを取り上げて、すべてが悪いように言われる昨今の風潮もどうかと思ってます。また現地で聞く彼らの日本人観(感)も決して悪いものではありません。中国でも韓国でも、いままでいかに無償の親切な行為を受けたことか。大上段に振りかぶった国際交流よりも、人間同士としての出会いが旅の楽しさ、感動の1つですね。ラバウルでもそう思いました。だから日本に来た、滞在している外国人にはなるべく気軽に、彼らの不安が解消できるように接するようしています~もちろんできないことはできないとはっきり言う必要はありますが。

黄山はロープウェイは使わずに車で登れるとこまで登り、あとは歩きで散策しました。当然、山頂で一泊です。早朝の霧靄の黄山は絶景でした。
下界での活動拠点は合肥市でした。一週間くらい滞在しました。
中国の人は、教育のせいか、党規律のせいか、画一的な行動パターンの印象がありますが、日本に県民性があるように、地域によって人柄は違います。安徽省の人たちとは、とても気持ちよく仕事ができました。

ところで、なぜ山頂で仕事?

先方が気を利かせてくれて、協議の会場を山頂のホテルに設定したためです。
こういうことは中国人同士でも一般的らしく、当時、中国政府は「会議費」の高騰が悩みの種だったようです。現在は、ずいぶん合理的に改善されてきているそうです。

岡部ろくやた追悼の記事にかささぎのことばをそのままコピペしてネットショッピングの宣伝してる。やってくれるじゃないの。
ところで、。
げげ。虐殺の記録、すべてゆだや関連すか?
3番はちがうのでは。楚。これは楚が佐渡の方で、突き落としたんでしょう、旗一族を。こんな黄山みたいな高い絶壁の山から谷底へ。でも20万人ていうたら、どのくらいの高さになるだろう。積み重ねていったら、山より高くならないんだろうか。おそろしくて考えられない。そして其の生き残った楚の人たちをつれて、じゃなかった生き残ったのは、えーどっち。とにかく、徐ふくさまご一行は、わがかみつやめの本拠地納楚へきた。とはだれもいうてないけど、そんなかんじ。すんまへん。かってに村の宣伝をしてもうた。

それが、この「しゅうせんいんらく」というかわったブログ名の牡丹江編二ページ目でも、偶然紅旗ということばをみつけました。(朝書き込んだのは、同ブログ映画の頁でみつけた李紅旗と言う名の新進監督だったけど)。かささぎは、こういうとき、妙にきになるとです。で、つい読んでみた。
親知らずが痛くてたまらなくなって、牡丹江のはいしゃさんへいったんだって。その医院が紅旗医院というのです。
そして、なんと中国の医療費は、医師によって値段が違うというシステムらしい。ほら、覚えているかな、おいしゃさんの妻のブログってのがありましたよね。そこに書かれていた愚痴のおおいなる一つが、なぜ経験値をいっさい考慮にいれない点数なのだ。というのでした。それ、一理も二理もありますんで。
http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/e/ae699ceaff19c9510d39790a58f8398c

とても面白し。
牡丹江編の6には八女投江という話がでてきました。
えっ八女?!と、八女市に住むものは驚く。

「林口という地名は、満鉄が駅を作った際に名付けたものだ。
2つの森林が交わる谷だったため、森林の口という意味でそう付いたらしい。
1939年にここに県が置かれ、開拓団の入植も行われた。
関東軍も駐屯しており、中国のいう抗日の英雄、日本のいう匪賊との対立も激しかった。
中国ではよく知られている八女投江があったのも、このあたりである。
八女投江とは、1938年に抗日聯軍の兵士たちが関東軍に追いつめられた際に、そのうちの女性兵士8人が関東軍の注意を引いて主力部隊を脱出させることに成功したものの、自分たちは川に追い込まれ、捕虜になるよりはと川に身投げして亡くなったという逸話である。
8人のうち、最年長は23才、最年少は13才だったという。

また、このあたりは終戦時にソ連軍が侵攻してきたために、日本の開拓農民の多くが殺されたり集団自決させられたりした所でもある。
関東軍は先にさっさと逃げてしまい、おまけに牡丹江に向かう線路の鉄橋を破壊してしまった。
避難民を乗せた列車は知らずに鉄橋に入り、そのまま落下し、無数の死者が出たといわれている。」

http://blog.goo.ne.jp/dashu_2005/e/7fa27a5856a2c8de33175da12c527178

すみません。面白し。などといっては罰があたりますね。
そうではなくて、どういえばいいか、初めて、あちら側から、客観的にものをみることができたような気分になれた。という意味です。
乙四郎父の文章に臨場感があり、時空間を一気にこえられたのは大きい収穫ですが、それを補って余りある、この「だーしゅー」さんの文章ではあります。どちらも、すばらしい。これまでにこんなの、よんだことなかった。勉強になります。有難うございます。

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コメント

>こっそり何かを書いてはひとり笑いをする精神病見たいな者がふえました。

実際は、戦地では精神疾患が増えていたのだと思います。イラクやアフガニスタンの米兵でも精神疾患の発症が多いようです。

アクセス解析。
一応毎晩する。ときにきつくてできない。
こうていえきもひどいもんですが、この検索用語でみえていた人がもっとも痛かった。いったい何をたしかめられたかったのでありましょう。

「満州国立農事試験場職員 自決」

↓。部分ぴっくあっぷ。
牡丹江省民-(ソ連軍飛行機・戦車-列車襲撃)100/940 ◆綏芬河街民-(ソ連軍)300
満洲国立農事試験場-職員家族全員自決-46(生存1歳児一人)
どうして集団自決。パニックからだろうか。

>何もかもまっ白い服になってしまいました。帽子>から靴から鉄砲まで、馬も馬車もまっ白い布をか>ぶって、完全白色です。

緑と灰色の迷彩服は常連ですが、雪の広野の中では白の迷彩服があるとは知りませんでした。
簡単な白い布をかけただけかも知れませんね。

ちなみに今年の夏は吉祥寺の古着屋で買った迷彩色のパンツをはいてすごしました。涼しかったので。
荒野で戦う気概はまったく持ち合わせておりません。

おはよう。あれさくらさん、わたしは比喩だと思ってよみましたがちがいましたか。零下二十度四十度なんて世界は想像するだけの世界です。雪原で黒いのがうごめいていたら直ぐ発見されるから、目を欺くために白い色をまとったのでしたか。ふうん。

ところで。きのう、えめさんが来院してくださったのですが、先生との治療中の会話をカルテ整理しながら聞いてた(きこえてきた)ら、なんとも霊的だった。
イワイ一族の墓がある丘の上にすんでいらっしゃる先生とその南ふもとに事務所をかまえておられるえめさんち。歯医者の、なまえに石のつく先生のことを魚釣りを話題に話しておられた。かささぎ、その歯医者の先生を知らなかったのですが、お二人が、あの先生はとてもじょうずだ、きっと日本でも屈指、福岡ではベストテンの上位に入るほどだ、でも欲がないし、それにあの汚さはすごい、でもそこがすきなんですけどね、とかなんとかいいあっていらっしゃる。
ちょうどここにだーしゅーさんの親知らずの紅旗医院の話を引用したばかりだったから、親知らずの話に耳がぴん。
終わられて、ついにたずねた、(先生と患者さんの話には口を挟まないのが鉄則です)、その歯医者さんはどこにありますかと。するとお堀の近くと。
あちゃ、するってえと。山本健吉の流れだ。一族だ。

何もかもが雪をかぶってすぐに真っ白になる・・、

私も比喩だと一瞬思いましたが、読み直してこう理解しました。
やっぱり比喩でしょうね。

「従軍記」検索116,000件中21位はりっぱです。

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