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2010年8月 8日 (日)

久光の看板がみえた

久光の看板がみえた

運転してくれた従兄は八女の秋祭り「あかりとちゃっぽんぽん」の三味線をひく人で、こどもたちにも教えています。とてもまじめで、謹厳実直を絵に描いたような元銀行家、でも、こどものころは五木寛之みたいに、家の作物を自転車に積んで、市場に売りに行ったりもしていたそうです。そういう時代だったのでしょうね。
鳥栖ジャンクションを長崎方面へ曲がってすぐ、久光製薬の看板が見えました。
ああさくらさんだ!と思って写真をとりましたよ。笑

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コメント

はい!さくらさんです。
相浦に行ったとですか。

昔、相浦海兵団というのがあって、今も海上自衛隊があると思いますが、戦死した父はそこで、新兵さんを軍人に育て上げる教員をしておりました。
そのころ父に教育を受けた人がこう言われました。
軍人としてより人として大事なことをあそこでしっかり教えられ戦後もそれが基本になっています・・・と。
教育を終えた兵隊さんをいよいよ戦場に送り出すときの送別会で父は決まって「誰か故郷を思わざる」を唄ったそうです。
その頃赤ん坊の私は父と母と3人で佐世保市山手町と言うところに住んでいましたが、山手町から相浦へ汽車で通勤していたようなことを聞いています。

私の分も佐世保に行ってきてもらったような気分です。
相浦に銀行家のいとこさんが住んでいらっしゃるなんて、これもひめのさん言うところの見事なシンクロですね。
海軍橋は見てこれなかったですか?

相浦のなくなった従姉は銀行員ではなく幼稚園の保母をしていました。父は以前戦記を引用した下條といい、母が私の父の長姉です。大正12年生まれ、父の6歳上、とても元気です。

さくらさんのその話は知り合ったころ、というよりりかさんから海軍橋、軍行橋について聞いた頃、伺ったと思うのですが、よく調べぬまま今にいたりました。今回食事をいただいたところが、調べてみたら、万松楼というホテル、そこを紐解く過程で相浦海軍の歴史を知りました。ばんしょうろう。伊藤博文の命名。海軍さんからは「山」の暗号でよばれていた、とか。
ホテルのホームページが物足りない。なぜもっと詳しく歴史を紹介しないんだろう。もったいないですよね。宣伝になるのになあ。それ、日比谷松本楼に見習うべきです。ぶつくさぶつくさ。
海軍橋、佐世保橋。みそびれました。
父が病床からおきだして、もうこれが姉に会う最後と思うというから、粗相をせぬよう、トイレのたびに早め早めに促す役、監視役としてついていき、無事なにごともなく帰ってこれました。その割りに父は元気で、ロビーでやめたはずのたばこをどこからか持ち出してぷか~とふかしてた。隠れて吸っていたとは高校生並みだ!怒。

年代物の車で連れて行ってくださったのが八女の元銀行員さんだったですね。ごめんごめん。

私がF銀行に行っていたころ、ひめのさんておんなさったよ。
今もう80代かな?

上品なお父上だこと、さすがかささぎの父だと思いました。

急に佐世保に行きたくなりました。
ふらっと行きたい。

あーさくらさん。父は上品ではありません。
ついさっきまで死のうかとしていたのに、
調子いいと、たばこ。あきれはてる。
家ではうそをついてた。もう吸っていないと。
ばつのわるそうな顔をしているのはそれ。
(今日も元気だたばこがうまいは真理。)
佐世保、長崎、観光地だなあって思います。
ここに親戚があってくれてよかった。って感じていました。

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