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2010年8月19日 (木)

戦争の話(5) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 8 月 19 日 戦争の話(5)

<橋爪一郎従軍記>
 到着・・・・・四月八日(おしゃかさまの日)、満州、牡丹江(ボタンコウ)省、第三〇六部隊、第五中隊三田隊荒川隊入隊・・・(東寧(トウネイ)のすぐ近くです。)
 はじめて見た朝鮮は、家の形、住んでいる人の服装、くわえている長いきせる、店のかまえなど、日本内地とは全くかわっていました。何もかも珍しく、キョロキョロしながら、半日間を釜山で過ごした私たちは、昼食頃から動き始めて、朝鮮の汽車に乗りこみました。汽車は日本海の方を、闇の中をあまり速くもない速さで通って行きます。時々、がたごと音を立てると、疲れ切った私たちは、あくびをしながら、沈む心配の代りに、脱線のことなど話し合っていました。脱線した方が良いと言う者もいます。私はどうなっても良いような気持ちでした。どうせ死に行きよるような気がするのです。一晩、うつらうつら眠っている中に、汽車は元山を過ぎて、清津(今の羅津?)につき、日は高々と上っています。窓から見渡す山々は、どこもまっ白の雪、いよいよ満州との国境に到着、一時下車した時は、駅までまっ白でした。久留米でやっとこさ、寒い冬に別れを告げて来た私たちは、満州の入り口で、同じ年に二度目の冬を迎えたのです。朝鮮の北端から、宮城と、故郷の八女郡に、お別れの捧げ銃(ささげつつ)をすまして、再び汽車へ、そして満州へと進みました。どこかで汽車を降りた時、その地満州の第一歩は氷るような寒さ、何も見えない雪の銀世界でした。
夕暮れに、待つはきびしい我が兵舎。

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの連句的資料

ボタン江(現中国黒龍江省牡丹江市、旧満州牡丹江省)
西牟田靖的視線で資料をさがしますと、一つ発見。

牡丹江神社の資料;http://www.himoji.jp/jp/publication/pdf/seika/302s/095-105.pdf#search='旧満州牡丹江(ボタンコウ)'

コメント

回ごとに1月づつ経っています。
いろんなことがあったであろうに、その1月の中で1つだけエピソードを拾い上げるとしたら、自分だったら何を拾うだろう。
この出発の日の模様は、他の年(昭和33年)の「学級通信」にも少し詳しく書いてありました。(後で書きます。)

ところで、自分の「お気に入り」に登録している「人生のセイムスケール」では、もうすぐヒットラーと並びます。
    ↓
http://art-random.main.jp/samescale/056-1.html

橋爪一郎先生のこの戦記、少しもおもくるしくありませんね。
サービス精神、ご人徳だろうと思います。
こないだの上津の池での訓練も、寒い日のとてつもない訓練なのに、戯画的に描かれていました。
ことば、おもしろいです。方言のその音の転写も。
朝鮮は朝せんと、こども向けの表記をされていますが、敵のせん水艦、むずかしい艦の字はそのままです。当時の中学生にはそういう用語は当然読めるとの認識がおありだったのでしょうね。

辺春中学校学級通信(2の1)昭和33年度。
縦書きです。第一号には、生徒35人の名前がずらっと並び、それぞれの名前の下に半円が七つずつ。それぞれの半円が小1から中1までの1年ずつを意味しています。
「小学校時代から一しょに勉強したことのある人たちを上の半円にぬりつぶして見て下さい。色々な思い出が浮かんでくることと思います。」
この学級通信のコラム欄にも従軍記がありました。
学長ブログの行間を読む参考まで。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
皆さんが生まれたのは昭和十九年からのようですね。皆さんが生れる一年以上も前の十八年一月十日は、私がはじめて日本帝国の「兵隊さん」二等兵になった日です。・・・(中略)・・・負けてホリョになって、それでも尚、靴の敷皮の下にふみこんできた戦争の日記を頼りに、・・・(中略)・・・新兵さんの三ヶ月はきたわれてきたわれて、へとへとになるまできたわれる三ヶ月です。夜も昼も、死んだ方がましぐらいのはげしいけいこで、久留米の高良台を何度かけずり廻ったか知れません。苦しかった三ヶ月もようやく過ぎて、日増しに暖かくなってきた四月四日の真夜中、午前一時は、何となく身ぶるいを感じながら小声で並んだ、久留米四十八部隊最後の集合でした。靴の音だけがザクザクと静まりかえった久留米の道を汽車の駅まで歩いた事を今もはっきりおぼえます。電燈もうすあかりの久留米のプラットホームで、お母さん「さようなら」と涙ぐんだ私は、朝の間に小倉に着きました。・・・(中略)・・・目の前の黒船は、私たちを乗せて日本海峡を朝鮮に渡る輸送船です。いつ、船の橫腹を敵の水雷にドカンとやられて、ブクブク沈んでしまうかわからない私たちの船なのです。
「気ヲツケ、セイトン、右ヘナラヘ」隊長の号令で、一斉に東方に向って最敬礼(一番りっぱな礼の仕方です)、天皇陛下にお別れをつげました。
「いよいよ我々は乗船するが、乗船したからには、いつ敵船にやられないとも限らん。たとえ、船は海中深く沈んだにしても、お前たちは銃を手ばなしてはならん、死んでも銃を手からはなしてはいかん。お前たちが沈む時には、銃を高く両手でさし上げて、足の方から沈んで行け、わかったか」「ハイッ」「よいかッ」「ハイッ」・・・(中略)・・・生まれて初めて乗った大きな船でしたが、嬉しいどころか、みんな悲しそうな顔ばかりして、さわぐ者もおりません。大人のくせにもう死んだような顔をしている者もいます。「おい!!もう死んだか。」「うん。きさまも死んでるようだな、手がだいぶん冷たいぞ。」なんて、人間など、案外いくじなしのへこたれです。ドカンとやられて、この舟が沈んでも、「おれは死なんぞ。」など大きな事を言っていた者ほど、いざ乗ってしまうと、まだ動いてもいない時に、死んだ時のことばかり考えているものです。

上津の山中。上津という地は低い山が連なっていて、迷い込んだら自衛隊基地の立ち入り禁止区域に何度も遭遇しました。八女から向かうときは三号線か藤山線しか通りませんから迷いませんが、筑後経由の今日などは、早道をしようとして迷い込みます。一般車は通行不可、とあるのを見て軍隊の地なんだな。と突きつけられる。久留米はめちゃくちゃ軍都だと思わせられる瞬間です。
上津小学校近くの池は「瞳が池」というきれいな名前のようです。ハザードマップにはそうありました。西にもあり、「松葉すわ池」という名前でした。

本文中、昭和十七年一月十日、というのは、他のところの年代とも矛盾するし、戦況としても変です。どうも昭和十八年の間違いみたいなので学長ブログも昭和十八年に修正しました。
それでも、
>その時二十一才
は数え年で、満年齢はまだ二十才です。

まだハタチのころの記憶なのですね。
書かれているときのお年は何歳くらいでしょう。
文章が今風だと感じるのはなぜでしょうか。

私は昭和17年といったら、石橋秀野スケールでものを思う癖がついているので、ついそうしますと、昭和17年1月20日には淀橋の病院で安見さんを出産しています。33歳です。昭和9年、25歳で最初の子を出産したけど育たなかったらしく。その年は左翼活動で拘置所に入った年でもあり、。

ところで、個人的に興味がある、我が家の兵隊おっちゃんも陸軍歩兵だったと思うのです、おなじ部隊ではなかったのだろうか。うーん、なんにもばあちゃんに聞いてこなかったことが今ごろになって悔やまれます。

私の高校生時代の担任の先生は海軍軍人だったことはおくびにも出さず教育をされました。
何十年もたってからそのことを知りました。
戦後すぐは軍人だったというだけで石を投げられたりした時代もありました。
軍隊経験を明るくおおらかに学年通信に書かれたなんてユニークな先生だったのではないでしょうか?
続きが楽しみです。

時代背景がよくわかりました。
昭和18年生まれの私は昭和33年ころは中学2、3年です。
まさに橋爪一郎先生は私の中学時代の先生の年代ですね。
そのころの先生の顔が次々浮かびます。
戦後たった13年だったのに戦争の痕跡は微塵もなかった、みんな口をつぐんでいたから。

投稿: さくら | 2010年8月19日 (木) 07時34分

そうでしたか。さくらさんより11年遅い私たちの中学2・3年生は昭和44・45年です。
戦後四半世紀たっていましたが、戦争の痕跡は気づかないけどたくさんあったのでしょう。ところで、きのうのゲゲゲ、戦地ではしげるさんが絶体絶命の目に遭っていた。日本では就寝中の母が虫の報せでそれを察知、父も揺り起こして、二人で「しげる死ぬな」の大合唱で祈っていました。竹下景子、風間杜夫、いい味だしていますよね。と思うのは同年齢だからでありましょうね。

投稿: ひめの| 2010年8月19日 (木) 08時20分

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