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2010年8月28日 (土)

戦争の話(14) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 8 月 28 日 戦争の話(14)

<橋爪一郎従軍記>

   休戦ラッパ鳴りわたるの巻

 戦争開始で、私達は完全軍装(グンソウ)の油汗、冷汗。誰もがだまっているけれども、心の中では家のこと、親のことなど考えながら先へ先へと進んで行きました。私も『家に手紙を出しておけば良かった』『このまま死んでしまうのだろう』と胸の中は一ぱいでした。昼頃、広い野原までやって来ましたが、敵は静まりかえって何事もありません。『戦争はこんなに静かなものだろうか?』所が静かなはずです、はるか遠方よりラッパのひびき、そして私たちの部隊のラッパ手も大きな音で休戦のラッパを吹きならしました。私たちは完全にだまされていたのです。実戦通りのケイコだったわけです。ゆうべからふるえていたことがおかしくもあり、腹立たしくもあり、また、こんなにもまんまとだまされるものかと感心もし、兵隊という所がどこまで妙な所だろうかとつくづく思いました。

 実は、年に二、三回、こんなケイコがあるのですが、私は、二度目も完全にだまされ、その時も本当の戦争かと思いました。三度目は半信半ぎ、四度目は始めから、ウソだと思って、荷物は軽く、うまい食べものだけ、着物も下着の方は古物でいつもの通り、大事な品物はみんな兵舎においたままで出かけました。このことは又後で書くつもりですが、その四度目はケイコではなくてホンモノでした。昭和19年2月24日朝3時、四度目の非常呼集は忘れもしない満州三〇六部隊さようならの日だったわけです。しかしさようならの前に、もう一、二回だけ、この三〇六部隊での思い出をつづりたいと思います。休戦ラッパ後のかえり道の弾薬の重いこと、それも忘れられない思い出です。

1963年八女郡辺春(へばる)中学校『学年通信』より転載

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

▼かささぎの独り言

兵隊さんが普段何をしていたのか、国境の守りについていたときにも、実戦の訓練が行われていたんだな、というのがよくわかります。

以前は上官が下のものをぶん殴るなどの行為は、戦時の高揚したヒステリックな横暴であるとばかり思っていましたが、この橋爪一郎従軍記を読んでいますと、理由があることがわかります。ねぼすけはおいてけぼりにされ、死ぬしかなくなる、だからぶん殴って体と心を起こす、と、こういう図式のように思えます。夜中に何度も起こされた、というような訓練も、そりゃぐっすり眠っているのを起こされるほうはたまったものじゃないにしろ、起こすほうも又それ以上に大変です。いつねているの。って思うくらいに。

それにしても、昨日の記事。
背中に背負う背嚢のなかには、実弾120発、戦車砲が一つ、手りゅう弾のパイナップルが三つ・・・だったかな。火薬類だけでも、とんでもなく怖くて重そう。こんな物騒なものをしょって歩いていて、敵に遭遇して、撃たれたら。なにもしょってなければ大丈夫だったのに、火薬しょってたんで、死にました。ってこと、なかったんだろうか。

ああすみません。戦車砲ではなく、戦車地雷だと書かれています。

どう違うのだろう。

戦車砲:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E8%BB%8A%E7%A0%B2

戦車地雷:昔のをみつけることができず、。カンボジアでの例の。
大きさは洗面器大だってあります。そんなに大きいんですか。
http://www.kamiura.com/abc11.htm

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