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2010年8月15日 (日)

戦争の話(1) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 8 月 15 日 戦争の話(1)

<橋爪一郎従軍記>

私の父、一郎は、私が小学生の頃、八女郡の辺春中学校の教員をしていました。

蝋紙に鉄筆を走らす音が私の子守唄でした。

当時(1963年)の、ガリ版刷りの「学年通信」の1年分(No.1~24)を保存しています。

そこに父の従軍記の連載があったからです。

父には、次の世代へ「戦争」を伝えねばならないという思いが強かったのだと思います。

今や私は、当時の父の年齢をはるかに上回っています。

さらに次の世代へと「戦争」を語り継ぐのが、父の子である私の役目です。

終戦記念日を迎えるにあたり、父の従軍記をしばらく連載したく思います。

父が本学3年生と同じ年の頃の物語です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

勝って来るぞと勇ましく

  負けて帰ったわたしの日記

・・・・・・・・・・・・・・

始めに。一年生を受け持って、御父兄の皆さん方にお会い出来るのも何かの縁に違いありません。私の従軍日記をお送りすることによって、紙上家庭訪問としゃれたいと思います。どうぞお笑いください。

・・・・・・・・・・・・・・

橋爪二等兵殿の巻

「昭和十七年一月十日 久留米歩兵四十八部隊第五中隊入隊 大日本帝国軍人陸軍二等兵となる。」これより下の位は一人もないので、掃除、洗たく、靴みがき、飯の用意から後始末まで休むひまなしの女中生活が始まるわけですが、その話はしばらく後廻しに致します。

 体が強くて、兵隊にならない方法、それは学校の先生になることでした。五人兄弟の末っ子の私に、先生への道をえらばしたのは、兵隊になしたくないばっかりの、父母の考えが強かったためでした。しかし、その甲斐もなく、若松市島郷第二小学校の先生々活二ヶ年間に別れをつげて、私は兵隊さんにならなければなりませんでした。

 その時二十一才、ハイカラ髪をいがぐり頭に刈り落した私の頭は青白くて、ひこくれていて、あちこちとんがって、おかしなかっこうでした。ただハゲのないのが何よりでした。

 先生の洋服をすっかり軍服に着替えた私は、心の中では兵隊を嫌いながらも、どうせやるなら早く位が上ったが得だと、がんばることに決心いたしました。

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

参照;
八女郡の辺春中学校→現在の八女市立花町立辺春中学校

若松市島郷第二小学校→現在の北九州市立江川小学校

用語参照;

「ひこくれていて」八女方言に「ひょこくれる」があります。
ひょこんと刳れている。えぐれていていびつという意味です。
さりながら。
かささぎの記憶のなかの橋爪一郎氏は、背が高くてすらっとしてらして、とてもハンサムでありました。

http://www.kita9.ed.jp/egawa-e/enkaku.htm

▼かささぎの独り言

年齢的にぎりぎりで戦争には駆り出されなかったかささぎの昭和四年生まれの父。
従軍体験があるとないでは、その生き方や思想にまったく異なるものがあるように思います。そしてそれは間接的にこどもにも影響が及びます。
同い年のともだちには、学長のように、従軍体験をもつ父上を持つ友達が多かったみたいですが、なかなか個人的にそのような話を聴くきっかけは訪れませんでした。
わたしは、原爆語り部の方々の話を聴くのも大切かもしれないけど、本当はまだご存命の、地域の方、従軍した記憶をもたれる方々に、直接その話を聴けたら、どんなに深く戦争を知ることができただろうか。と思っていました。思いがけずも学長のお父上の従軍の記録をこんなかたちで拝見できますことは、ありがたいことです。

コメント

ただいまTVQの懐メロ番組視聴中。
「里の秋」の歌詞に興味あり。
    ↓

http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/07/post_36eb.html

   ↑
ここのコメント欄から拾った幻の歌詞。

明るい明るい里の道
白木の箱の父さんを 
ああ母さんとただ二人 
迎えに行きます里の駅

たどっていくと元歌は軍歌であるものが多いですよね。
吾は海の子もそうです。

いで大船を乘出して
我は拾はん海の富。
いで軍艦に乘組みて
我は護らん海の國。 

この「里の秋」は童謡のなかでもわたしの好きな歌で子どものころからよくくちずさんだものです。いまでも、風呂場で歌うことがたびたびあります。
この歌は小学校の文部省唱歌として学校で習ったものではなかったでしょうか。ただし歌詞は二番までしかなかったと記憶しています。ものがなしさを子供心に感じたのは、二番の歌詞によって父親のいない母と子が田舎でむつまじく暮している風景を描いていたからであろうと思います。この歌が生まれたきっかけを知ってますますこの歌がわたしの十八番になりそうです。

ところで、コメントにあった乙さん紹介の歌詞。どうやら替え歌のようですが、切なくて元歌の歌詞よりぐっとくるものがありました。

里の秋、いい歌ですね。なぜか、この歌を聞くと、
すもももつこのみなはだかむし
って江戸時代の付け句をふしぎと思い出します。

戦地からの父親を待っている歌だったとは知りませんでした。
待つこころは、あたたかいものですね。だけど、そんなにして待っていたのに、白木の箱でかえってきた父さんもたくさんいたのですよね。こんなに澄み切った明るいメロディーで、こんな歌詞を歌われたら、なみだがでます。
小学校のころ、谷川陽子ちゃんという声のきれいな子がこの歌と、「みかんの花咲く丘」をなんどかみんなの前で歌ってくれました。とっても感動した思い出です。

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コメント

本文中、昭和十七年一月十日、というのは、他のところの年代とも矛盾するし、戦況としても変です。どうも昭和十八年の間違いみたいなので学長ブログも昭和十八年に修正しました。
それでも、
>その時二十一才
は数え年で、満年齢はまだ二十才です。

まだハタチのころの記憶なのですね。
書かれているときのお年は何歳くらいでしょう。
文章が今風だと感じるのはなぜでしょうか。

私は昭和17年といったら、石橋秀野スケールでものを思う癖がついているので、ついそうしますと、昭和17年1月20日には淀橋の病院で安見さんを出産しています。33歳です。昭和9年、25歳で最初の子を出産したけど育たなかったらしく。その年は左翼活動で拘置所に入った年でもあり、。

ところで、個人的に興味がある、我が家の兵隊おっちゃんも陸軍歩兵だったと思うのです、おなじ部隊ではなかったのだろうか。うーん、なんにもばあちゃんに聞いてこなかったことが今ごろになって悔やまれます。

私の高校生時代の担任の先生は海軍軍人だったことはおくびにも出さず教育をされました。
何十年もたってからそのことを知りました。
戦後すぐは軍人だったというだけで石を投げられたりした時代もありました。
軍隊経験を明るくおおらかに学年通信に書かれたなんてユニークな先生だったのではないでしょうか?
続きが楽しみです。

時代背景がよくわかりました。
昭和18年生まれの私は昭和33年ころは中学2、3年です。
まさに橋爪一郎先生は私の中学時代の先生の年代ですね。
そのころの先生の顔が次々浮かびます。
戦後たった18年だったのに戦争の痕跡は微塵もなかった、みんな口をつぐんでいたから。

おはようございます。
従軍記拝読しています。
小5、6年生の頃担任の女先生は30才位。
終戦の頃が私達の年齢だったと思い出話をしてくださいました。
先生は戦争末期を朝鮮半島で迎えられました。
戦況が悪化してきてどこの家族も日本へ帰る手はずをあれこれ苦心されていたようです。
先生の家族は運よく舟の確保ができたようでした。
荷物はほとんど持たず、着の身着のままで。
女の子の先生は頭を坊主に刈り衣服も粗末で目立たないように注意を払い、見た目男の子になって舟までたどり着き、数家族暗い海の上に息を潜めて身を寄せ・・運よく日本に帰ってこれた。と話してくださいました。
リアルに詳しく話してくださったのでとても印象が残っています☆

エメさん、私の周りではほとんどそんな話を聞いたことがありませんでした。
私が特に耳をふさいでいたということもあります。
船で帰国した人たちの中には門司港について、二日市に収容され、二日市には女性にとって過酷な施設があったようです。
頭を刈ったのは男の子に見せるようにそうしたんですよね。
年代によって聞いた話がいろいろなのですね。

えめさん、貴重な記憶を書いてくださったこと、ありがとうございます。
半島から引き揚げてきた人の話、わたしも聞いたことがありますが、そんなに小さいときではありませんでした。大人になってから。こどものころは、戦争の匂いなんてあんまり意識しませんでした。

追伸。せいこさんちの父上は行かれなかったのかな?きいてみたいが、まだ忙しいのだろうか。
一昨日、かささぎは高砂や歌仙の留め書きをまだかいていなかったことに気づき、あおくなったのでした。どうしよう。
そもそも、みんなから祝婚句をひとつずつ集め、それを最後に書くことにして書こう。と思っていたんです。でもぼんからとせいこさんからとそらんさんからの三人分が届いていませんでした。もういまさら依頼する間もなく、それで、せいこさんにとめがきを依頼。
一晩でかいてくれました。ありがたかったなあ。

ところで。今日、連句的を書いていてきづいた。
しらべうたまるさんからいただいていたおいわいの一句、こうでした。

音響く浴蘭月と祝酒  うたまる

音彦さんの音、らんちゃんのらん。を使って一句。
でも、わからなかった。浴蘭月ってなんだろう?
これは五月の異称でした。うたまるさんは異能の人ですね。

こうらさん十景歌の復習をしていたら、寂源、初代は59代宇多天皇の子孫。第八皇子である敦実親王の子、源雅信、源重信兄弟はいずれも左大臣となった。特に源雅信の子孫が栄え、公家としては堂上家5家を、武家として佐々木氏を輩出した。とかかれていました。源のまさのぶ。いわずとも陰陽師のあのひとです。笛の君。
これを読み、うたまるさんとどこか通じるな。とかささぎは思いましたよ。こうらさんの寂源はこの人ではありませんが、なまえがおなじだと通うものがあるのでしょうね。


まちがえました。
ひろまさ。とまさのぶ。名前が違います。

祝婚句・・・ちっともいいのが書けないまま時間だけが過ぎてしまい、すっかり忘れておりました。すまんこってす。

れぎおんに送るお金とか会費などは姫丼が負担しているのですか?一度聞いておこうと思いながら今になりました。きちんとお金とってくださいね。れぎおんの配達までしてもらっているし・・・それもお土産つきで。(ときどき)
今朝は起きた時から31度でした。今日も暑いぜ、元気だしていこう!

大正14年 この地に日本最初の戦車隊が誕生した
その後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた
世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる
     司馬遼太郎

戦車隊】

大正14年、駐屯地の東側に日本初の戦車部隊が誕生した。(第1戦車隊)
当初はフランスから購入したルノー戦車やイギリスのホイペット型戦車で訓練を開始した。
第1戦車隊が逐次整備され昭和8年、戦車第1連隊となり、これを母体として戦車第7連隊(第1大隊が発展したもの)や戦車第5連隊等が創設された。
戦車兵は全国規模で徴集され、優秀な兵士が選抜されていた。
作家の故、司馬遼太郎(本名 福田定一)氏も戦車兵として満州の戦車隊に入営(陸軍少尉)されたが、本土決戦に備え宇都宮へ転営し終戦を迎えた。
東門横にある「戦車の碑」の紹介文は、氏の草案によるものである。
戦車隊は中国各地の戦闘やマレー半島敵前上陸、シンガポール陥落等では大いにその威力を発揮した。
しかし、大戦後半に登場したM4戦車との戦闘では装甲、火力等において段違いの差があり、ビルマ中部平原やフィリピン島での戦車戦では殆どの砲が装甲を貫けず、まるで戦いにならなかった。

(陸自久留米駐屯地資料館展示パネルより)

これ、見つけてきました。

今日晩御飯をたべているとき、ふと思いついて、「へいたいおっちゃんはどこの部隊だったの」と尋ねてみた、母は知らないと答えましたが、父が搾り出すような声で「くるめ48れんたい」といいました。
うん?どこかできいたなあ。と思い、ここをさがしました。やはり。
当時はみな、ここらのへいたいさんたちはそうだったのでしょう。(そこからどういう経過でがだるかなるへいかされたのかはまだみえません。)

久留米歩兵第48連隊↓

昨日橋爪一郎氏ご逝去の由。
謹んでお悔やみ申し上げます。

この貴重な従軍記を転載させていただきました御縁にあらためて感謝もうしあげます。

葬儀会場の入り口に小冊子「戦争の話」:橋爪一郎氏手記がたくさん積んでありましたので一冊頂いてきました。
ご冥福をお祈り致します。

お坊様はは正福寺さんでした。

えめさん、今日の葬儀にはわたしも参列できました。仕事でお通夜にでれなかったから。
三人のかたの送る言葉、こころがこもっていて、一郎氏のご人徳をつよく印象づけられました。
お花とともに「戦争の話」と題した手作りの本も三冊いただいてきました。ごえんがあったさくらさんへも送ろうと思って。
ところで、いま、アクセスをみてたら、数年前に日食談義をしてた、その乙四郎の(ああごめんよ、つい呼び捨てしているのはかささぎのなんというかな、虚栄心?いやそうじゃないな、支配欲?そうかもしれんね、連句で仕切るノリの延長だろうとおもいます。すみませぬ)その乙四郎の書いているコメントのやけに詳しい知識の中に、昭和53年10月2日の記録があるのにまったく今まで気づきませんでした。
きょうどなたかが、昭和53年の部分日食について検索されていて、その一ページ目ででたらしいかささぎの旗の日食談義においでくださってましたので、それでやっと三十数年ぶりに気づいた次第です。
ほかのブログにもこうかかれている。
>小生の日食の記憶には、1978年(昭和53年) 10月2日の部分日食が最も鮮明に残っていて、当時は太陽を肉眼で見ていた。(☟の大牟田の日食という記事より引用)

橋爪一郎氏の命日が十月二日だったことにふしぎな縁を感じました。
おそらく、一郎氏はなにもかもみえていて、それで、ご挨拶をかささぎにまでなさっていかれたのだなあ。とうけとめました。ありがとうございました。
かささぎのひとりきりの弟は21のときに急逝したのですが、それは昭和53年の十月二日でした。
かささぎと弟は三つ違いで、いきていれば去年の同日になくなった沢都さんと、同い年でした。
昭和53年54年の世の中の記憶がまったくないのです。

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