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2010年8月18日 (水)

戦争の話(4) 橋爪一郎従軍記

保健医療経営大学学長

 橋爪 章

2010 年 8 月 18 日 戦争の話(4)

<橋爪一郎従軍記>
   赤い夕日の満州への巻
 出発・・・・久留米での三ヶ月の教育を終って、四月六日朝三時、汽車の久留米駅プラットホームに集合、まるで夜逃げのようにこそこそと満州目ざして出発です。この頃は日本の戦争の負け始めで、家の者にも知らせず、バンザイの旗の波もなく、ほんとに哀れな出発でした。汽車は博多をすぎて門司へ到着、みんながシュンとしています。誰の心にも、生きて日本へ帰れそうな気がしないのです。ナムアミダブツ、ナンミョウホウレンゲキョウ、アーメン、なんと情ない日本の兵隊さん、二等兵の私たちです。腰抜け一丁拳銃の私たち約三百人は、六日の夕方、門司の港に待ちかまえている日本の黒船に乗り込みました。二等兵は一番下の船室で、海の魚の方が、よほど上の方を泳いでいるわけです。朝せん海峡には敵のせん水艦が出没しているという、そんなぶっそうな所を、夕闇せまる頃、船は音もなく進み始めました。一時間、二時間、船は次第に横ぶれ、前ぶれ、ぎっしり並んだ私たちは芋(いも)の子のようにごろごろと転がり始めました。
「おい、やい、しずみゃするめえか?」
「しずだりゃ、死ぬかも知れんな。」
「死んだら、魚に食わるりゃするめえか。」
「食わるッ時きゃ痛かろか?」
まるで子供じみた会話で時をかせいでいるうちに、船はま夜中に釜山(ふざん)に着きました。九州出る時、桜はほんのりと七分咲き、陽気の春を後にして。

(保健医療経営大学『学長のひとりごと』)

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コメント

回ごとに1月づつ経っています。
いろんなことがあったであろうに、その1月の中で1つだけエピソードを拾い上げるとしたら、自分だったら何を拾うだろう。
この出発の日の模様は、他の年(昭和33年)の「学級通信」にも少し詳しく書いてありました。(後で書きます。)

ところで、自分の「お気に入り」に登録している「人生のセイムスケール」では、もうすぐヒットラーと並びます。
    ↓

橋爪一郎先生のこの戦記、少しもおもくるしくありませんね。サービス精神、ご人徳だろうと思います。
こないだの上津の池での訓練も、寒い日のとてつもない訓練なのに、戯画的に描かれていました。
ことば、おもしろいです。方言のその音の転写も。
朝鮮は朝せんと、こども向けの表記をされていますが、敵のせん水艦、むずかしい艦の字はそのままです。当時の中学生にはそういう用語は当然読めるとの認識がおありだったのでしょうね。

辺春中学校学級通信(2の1)昭和33年度。
縦書きです。第一号には、生徒35人の名前がずらっと並び、それぞれの名前の下に半円が七つずつ。それぞれの半円が小1から中1までの1年ずつを意味しています。
「小学校時代から一しょに勉強したことのある人たちを上の半円にぬりつぶして見て下さい。色々な思い出が浮かんでくることと思います。」
この学級通信のコラム欄にも従軍記がありました。
学長ブログの行間を読む参考まで。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
皆さんが生まれたのは昭和十九年からのようですね。皆さんが生れる一年以上も前の十八年一月十日は、私がはじめて日本帝国の「兵隊さん」二等兵になった日です。・・・(中略)・・・負けてホリョになって、それでも尚、靴の敷皮の下にふみこんできた戦争の日記を頼りに、・・・(中略)・・・新兵さんの三ヶ月はきたわれてきたわれて、へとへとになるまできたわれる三ヶ月です。夜も昼も、死んだ方がましぐらいのはげしいけいこで、久留米の高良台を何度かけずり廻ったか知れません。苦しかった三ヶ月もようやく過ぎて、日増しに暖かくなってきた四月四日の真夜中、午前一時は、何となく身ぶるいを感じながら小声で並んだ、久留米四十八部隊最後の集合でした。靴の音だけがザクザクと静まりかえった久留米の道を汽車の駅まで歩いた事を今もはっきりおぼえます。電燈もうすあかりの久留米のプラットホームで、お母さん「さようなら」と涙ぐんだ私は、朝の間に小倉に着きました。・・・(中略)・・・目の前の黒船は、私たちを乗せて日本海峡を朝鮮に渡る輸送船です。いつ、船の橫腹を敵の水雷にドカンとやられて、ブクブク沈んでしまうかわからない私たちの船なのです。
「気ヲツケ、セイトン、右ヘナラヘ」隊長の号令で、一斉に東方に向って最敬礼(一番りっぱな礼の仕方です)、天皇陛下にお別れをつげました。
「いよいよ我々は乗船するが、乗船したからには、いつ敵船にやられないとも限らん。たとえ、船は海中深く沈んだにしても、お前たちは銃を手ばなしてはならん、死んでも銃を手からはなしてはいかん。お前たちが沈む時には、銃を高く両手でさし上げて、足の方から沈んで行け、わかったか」「ハイッ」「よいかッ」「ハイッ」・・・(中略)・・・生まれて初めて乗った大きな船でしたが、嬉しいどころか、みんな悲しそうな顔ばかりして、さわぐ者もおりません。大人のくせにもう死んだような顔をしている者もいます。「おい!!もう死んだか。」「うん。きさまも死んでるようだな、手がだいぶん冷たいぞ。」なんて、人間など、案外いくじなしのへこたれです。ドカンとやられて、この舟が沈んでも、「おれは死なんぞ。」など大きな事を言っていた者ほど、いざ乗ってしまうと、まだ動いてもいない時に、死んだ時のことばかり考えているものです。

上津の山中。上津という地は低い山が連なっていて、迷い込んだら自衛隊基地の立ち入り禁止区域に何度も遭遇しました。八女から向かうときは三号線か藤山線しか通りませんから迷いませんが、筑後経由の今日などは、早道をしようとして迷い込みます。一般車は通行不可、とあるのを見て軍隊の地なんだな。と突きつけられる。久留米はめちゃくちゃ軍都だと思わせられる瞬間です。
上津小学校近くの池は「瞳が池」というきれいな名前のようです。ハザードマップにはそうありました。東にもあり、そっちは「松葉すわ池」という名前でした。

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