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2010年8月20日 (金)

九州俳句誌159号より

   かささぎの旗(その七)
              

         姫野恭子

 二月だったか、「俳句界」という総合誌から
「俳句に賭けた男と女の物語」というテーマ
で山本健吉と石橋秀野を書いてほしいと依頼
された。瀧春樹先生の『樹』で秀野ノートを
書かせてもらっていたのは十年以上前の事だ。
秀野の評伝は西田元次氏のものと秀野の遺児
安見さん監修のものと二冊出ているし、さほど
書き加える事もなく、興味は失いかけていた。
案の定、筆が進まない。それでも締切間際に
なんとか仕上げた。載せてくださった。

 だが気になるところが二箇所ほどあった。
一つは、文化学院時代、学監の与謝野晶子
と生徒の藪秀野とをめぐるエピソードにつ
いて。昔、文化財保護委員長で山本健吉の
血縁の外縁におられる洋画家の杉山洋氏か
ら聞いた話では、秀野の同級生だった人か
らの回顧談として、口紅がはみだしている
ことを先生に指摘したら、晶子は無視、一
日中そのはみだし口のままでいた、という。
しかし、これは杉山氏から口頭で伺った話、
校正締切前日、杉山洋先生のところへ確認に
行く。すると、実際はその逆だったことが判
った。負けず嫌いな私は、編集者へ、このま
ま行ってください。杉山先生はその書簡を見
せて下さらなかったし、ご高齢だから、記憶
が間違ってらっしゃるかもしれません。と、
突っ張ってしまった。だが、冷静に考えると
学監晶子が生徒秀野の服装を注意し、それに
反抗した秀野、というのが常識の話だと判る。
全く情けない。自分の不徳の致す所存である。

次に昭和十四年の次の石田波郷句の読み。

冬日宙少女鼓隊に母となる日    波郷

ふゆひそら。しょうじょこたいにははとな
るひ。と私は読んだ。しかし、秀野論を書い
ている「鶴」の波郷の弟子であった山田みづ
え氏の紹介本には、ふゆびちゅうとある。意
味が鮮明に伝わりにくいこともそうであるが
はっきり申し上げて、語呂がわるい。難解句
の極北みたいな句、が抗いがたい魅力がある。
                ◇
 秀野は高浜虚子から俳句の骨法を伝授された。
ホトトギスの句は客観写生の有季定型だと決
まっているが、それを忠実に誤解していたら
みな星野椿の句のようになってしまうだろう。
虚子は罪作りな俳人である。自分では、この
ような句を作っている。

 玉椿吹矢當りて日数哉   虚子

文化学院中学部卒業アルバム、こくりこから。
前年、関東大震災があった。そのことを暗喩
という西洋詩の手法で詠み、少女たちにエー
ルを贈っている。なにが客観写生だろうか。
ところでこの奇妙な、というより、突拍子も
ない吹矢の当たった玉椿の句だが、星野椿氏
に、やっと一句が読めたとき、書簡で質した
ことがあった。虚子の孫になるお方であるが
このようなお手紙をいただいた。
 人騒がせな虚子の書です。わたしどもにも
読めませんでした。しかし、だれかが句集か
ら探し出してきて、それを発見しました・・。
 
 秀野が旧制松江高校で俳句を教えていたとき、
生徒であった世故諏訪氏は、秀野先生はしき
りに虚子を批判していた。と証言された。具
体的には、年寄りくさい句を詠むな。という
ことに収斂されていく。若いんだからおさま
りのいい座布団に正座句を作っていてはだめ。
と若者達を叱咤激励したという。

▼共鳴抄    永田タヱ子・選・文

菜の花や花粉症の猫といる   赤星文明
冷蔵庫二度寝の妻の象の足  宇田蓋男
靴紐を結び直すや花の中    海蔵由喜子
不整脉と相談している花の下
  瀬川泰之
青嵐や漁りしものに国家論    篠原信久
肉(しし)垂るむ従う子なきおぼろの夜 玉木節花
遠くで地震(ない)冬のトマトの赤すぎる  寺井すみえ
木の実降る言はざるもあり言ふもあり   中尾和夫
はらわたを見尽くされいし春日傘     野田遊三
不動明王女われゐてはる真午      姫野恭子
いぬふぐり蒼き地球の水を買ひ     藤林伸岳
街灯は雨にて春を排卵す         星永文夫
真夜中の吹雪をのぞく男かな       前川弘明
戦争はやめた馬を洗いに行く      宮部鱒太
伝言を残したままに春の駅        夢野はる香

 宮崎は今口蹄疫で明け暮れ、非常事態が起きている。
牛や豚の悲鳴がそこに聞こえてきそうです。人間には伝染しないと明言されているが、ミクロの不気味な不安が募る。その不安はなかなか拭うことも出来ず、ウイルスの伝染経路もしかり不明のようで、あゝじゃなかろうか?いやそうじゃないと噂は噂を呼んでいます。
 今まで始末された頭数は十四万頭を越し、子供のように飼育して来られた飼主の心痛は如何ばかりか、断腸の思いがあります。悲鳴が耳から離れないと飼主は叫ばれています。想像を絶する出口の見えない事態に、手も足も出ないでいます。
 俳句を作る者にとっては、牛や豚は抜群の素材であります。その素材は余りにも悲しいものになりつゝあります。自然と時事の風姿を風刺の形として伝言し、伝承されている皆様の御句の中から、個性豊かな俳句を勉強させていたゞきながら選ばせていただきました。
 

【九州俳句】159号 平成22年8月15日発行
編集発行  八幡西区  福本弘明
印刷所    若松区   山福印刷

▼かささぎ、白昼堂々、句をぬすむ。のまき。

永田タエ子さん、

かささぎの句も採ってくださって、嬉しいような、泣きたいような、複雑な心境であります。自分の言葉は、「はる」のほかどこにもありませんでしたから。

不動明王女(をみな)われゐて秋まひる  石橋秀野 昭和15年
不動明王女われゐてはる真午        かささぎパロディ

有名な句ですから、きっとご存知であられると思います。
原句、はじめて読んだときからかささぎの心をとらえました。
作者はどんな思いをこの不動明王にこめたのだろう。
それを折に触れて考えていました。
マイナスの感情を晴らすために、不動明王が必要だったのだろうか。
たとえば、嫉妬。
かささぎ句では、秋がはるに、秀野句ではまひると平仮名の時が真午と漢字になっています。盗むということを白昼堂々とやってみたかった。
この句を詠んだときの石橋秀野は31歳、対する姫野は55歳です。
秀野は秋の真昼のなかに、不動明王に対座している女身である「わたし」を置いている。じっさいに句を詠んだのが秋だったからなのですけれどもね。
では、もしこの句が春であれば、どんなふうに印象はかわるだろうか。
というのが、そもそもの姫野の問いかけでした。
秋のほうが、厳しくてよく響く。
春だと緩む。どうしようもなく。

ということを、かささぎは実際やってみて、痛感しました。
(かなり図々しいですよね。ほんとうに、すみません。)

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コメント

モノカキは「盗作」を疑われるのに常に怯えています。モノカキ生命が絶たれてしまうから。
本歌取りは盗作に非ず。
ただし、それは本歌が広く知れ渡っている場合に限る。
不動明王、セーフ、でしょうか。

何がこんなにこの秀野句にひきつけるのだろうか。とずっと気になっていて、それを検証したかった。
秀野さんは高浜虚子を表面上は批判してたのですが、じっさいは全く同じ精神で俳諧を行じていた、とかささぎは思います。作品をよめばよくわかります。
しかし、この頃の句には少し異質ななにかがあって、それは表記の上にもあらわれている。
まひる。真昼とかいて済まさなかった。
それがとても目につく。まひるなら、はるだろう。となぜかささぎはおもったのか。秋の真昼であることが。

>玉椿吹矢當りて日数哉   虚子

文化学院中学部卒業アルバム、こくりこから。
前年、関東大震災があった。そのことを暗喩
という西洋詩の手法で詠み、少女たちにエー
ルを贈っている。なにが客観写生だろうか。

とここには書いています。簡単に書いていますが、実際はそれは事実とはかなり違います。
ふしぎなはなしなんです。
「石橋秀野ノート」にいきさつをかいておりますので、それをここに、思いついた今、引用しておきます。

玉椿吹矢當りて日数哉   虚子

(平成九年に)解読できたというものの実はベテランの古文書研究家も書家も読めなかったのである。偶然にも松江市在住の書家である曽田稔氏に依頼した分だけが成功した。何という縁か。
曽田氏の知人の高校教師の方が明治の文学全集『高濱虚子・河東碧梧桐』の中で見つけて下さったとの事だ。私も昨日苺の出荷帰りに図書館で探した所、確かにあった!大正四年に出た『虚子句集』の中の作だ。前書に「鎌倉高松寺」とある句の数句後に出てくる。
玉椿の句は私が調べた限りでは、もう一句昭和三十四年ころにあるのみで、これはとても珍しい作品であるとおもえる。しかし、卒業記念誌に載せるほどの名句とは思えない。であれば、何かメッセージのこもったもの、教え子たちには読んですぐ意の通じるものである筈だ。
ここですぐ関東大震災の記憶が蘇る。与謝野晶子は火の海となった都のうたを残しているが、虚子にはそれがないのだ。ただ、震災後には句数が少なくなってはいる。だが平常通りの強情な自然詠ばかりなのだ。まさにここに虚子の俳句観が表出している。
虚子が秀野ら年若き教え子たちに贈った言葉は、震災の傷にもめげずに花を咲かせよ、という願いのこもった玉椿のこの句だった。日数だけが傷を癒せるのだと。こんな風に考えれば、吹矢とは地震の喩だと思えてくる。震災から一年半しか経っていないのだから、虚子という明治人の、寡黙ではあるが慈愛に満ちたまなざしが、この句から悪戯っぽく覗いている。

「長女の真砂子が明治三十一年の三月に生まれました。私もいつまでも零細な稿料をかき集めてゐるくらゐではやりきれなくなりましたので、一つ生計のために雑誌を発行してみようと思ひたちまして、まず一番に子規の協力を求めました。子規は柳原極堂が松山で出してゐる「ホトトギス」といふ雑誌が、二十号出たばかりでいま経営難を訴へてゐるところであるから、それを引き受けてやつてみてはどうかといふ意見でありました。ではさうしようといふことになりまして、故郷の長兄から僅かばかりの資本を出して貰ひまして、東京で「ホトトギス」第二巻第一号といふ名義で、私が出す雑誌の初号を発行することになりました。それが明治三十一年の十月のことでありました。」(『虚子翁自伝』)

で、考察しなければならない。
虚子が少女たちの卒業に贈った句は、関東大震災が起きるよりずっと前に詠まれたものでした。私は、西洋詩の方法で詠まれた句と書いてしまいましたが、こと虚子に限ってそのようなことをしたとは思えません。おそらく、句に詠み止められたように、玉椿に吹き矢が当たった行事があったのだろう。と思います。そして、それを客観写生でよんだものでしょう。
ヒントはないだろうか。
鎌倉高松寺というものをしらべてみると、それは尼寺で、震災で全壊しています。ただ山門だけが残って、鎌倉山の蕎麦屋に移されて残っている。
高松寺ははずして考えていいでしょう。
そもそも前書きがあったのは、この句ではありませんでしたし。
一応、吹き矢で検索をかけますと、鎌倉に集中してヒットします。スポーツ吹き矢というのが今もあるらしくて。でも、歴史まではみえません。

と、さがしました。
弓道とおなじ武道として、ありました。ここです。↓
どなたか、虚子と吹き矢についてご存知のかたがあれば、姫野に教えてください。

なぜ唐突に虚子のことが気になりだしたか。
それは横山康夫氏が下さった『円錐』46号に載っていた今泉康弘氏の『花鳥諷詠とは何か』という考察を読んだからです。
かささぎは連句を俳句と平行して学んできましたので、その目で見ますと、まさに今泉さんのおっしゃるとおりだと思います。これは面白い論考なので全文引用したいと思います。
え?著作権があるからいけない?そんなら。
手っ取り早くまとめますと。
虚子という人は、落ちぶれた俳誌の経営をしゃきっと再編して大ヒットさせた一流の経営者でした。
そのために仕掛けた言葉が、花鳥諷詠、客観写生。しかし文学の流れを知っているものの目からみるその理屈は、道理にまったくあいません。
伝統といいつつ、じつは季語の本意を俳諧が否定した和歌の時点まで遡行させるようなことをやって、それが俳諧の伝統だと無知な大衆に開陳した。けれども、本来荒木田守武や芭蕉やらは和歌の歌ったものへの固定観念=季語の本意ともいいますが、たとえば、時雨はわびしい、寂しい、などの事を指します。=を覆して予定調和をくつがえそうとした。パロディとしようとした。これが本来の俳諧の意味であったのですが、それを誤って伝えたがために、妙なことになってしまった・・・。
と、超あらっぽいまとめ方をしますと、こんな論です。

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