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2010年7月12日 (月)

歌仙『海の果』  脇をきめる

発句
落日を拾ひに行かむ海の果  檀 一雄


祭りのあとの港町過ぐ     
漂着物は外国の文字     雑
麦の波裂きガンダム走る
烏賊釣り船は波に漂ひ
浅葱斑蝶が坂を随きくる   (あさぎまだら)
ひがしなだりに夕菅の丘
蜻蛉がとまる助手席の窓   秋
イワシ焼く香に思ふ故郷   秋
紅輝(こうき)よ波間にわが身を照らせ  雑

脇句案を出してくださった方々、まことにありがとうございました。
脇句がどれであったとて味わい深い一巻が出来上がるでしょう。
それぞれに思いの深い脇であるとあらためて見直しています。

落日は厳密にいえば季語とはいえないのかもしれません。
しかし西日も夕焼けも夏の季語ですので、落日も夏としてすすめたいと思います。
落日は晩夏がいちばん美しい。
じっさいに檀さんがポルトガルのサンタクルスでこの句をよんだのは、冬だったかもしれません。晩秋だったかもしれません。詳しい背景を何も知らず、ただ「男ありけり」というビデオで出会った一句に惹かれ、それを発句に歌仙を巻きたいと思いました。

以下、じっさいにつけてみました。
秋の季語のぶんははずしました。
夏か雑です。

1落日を拾ひに行かむ海の果  
    祭りのあとの港町過ぐ  えめ

2落日を拾ひに行かむ海の果
  ひがしなだりに夕菅の丘   せいこ

3落日を拾ひに行かむ海の果 
  漂着物は外国の文字   ぼん

4落日を拾ひに行かむ海の果
  麦の波裂きガンダム走る   乙四郎

5落日を拾ひに行かむ海の果
  浅葱斑蝶が坂を随きくる   恭子

6 落日を拾ひに行かむ海の果
   紅輝(こうき)よ波間にわが身を照らせ  よし子

1えめさんの一句はすっと付いていて、しかも余情深いです。
ためらわずに差出された、もともとあった下の句という趣がある。

2せいこ句には、発句が内包する本然の翳りを打ち消すような無言の慈愛があると思う。
ゆうすげの黄色の花が東の斜面一面に咲いているのですね。
あれはいつでしたか、せいこ短歌にてなだりという古い言葉を知りましたが、思い起こせば、祝詞の中に、「・・さくなだりに落ち、たぎつはやかわの瀬にますせおりつひめといふかみ・・・」という一節があります。この脇句が脇句としてうまいなと思うのは、光景をそっと切り取って添えただけで、ゆうすげが咲く東の斜面がありますよ。とだけ言っていることです。
えめさんのとってもよく付いている脇句が、へたをすれば饒舌に思えるくらいによくわかるのに対し、この脇は添えているだけです。

3ぼんの漂着物のほう、とっても自然なつきかたといえます。
烏賊釣り船の句は初夏になるようですが、なぜか不安なかんじを与えます。
きっと「波に漂い」という宙ぶらりんのとめ方のせいかもしれません。

4乙四郎句のガンダムは、麦畑のなかを縦横無尽に刈り尽くすコンバインのことらしいのですが、発句より目立ってしまうのが難点です。着想は面白いし、発句にある稚気にぴたっと付いているのですけどね。

5恭子句、あさぎまだらは、きれいな蝶です。国蝶になりそこねたくらいの。
坂は海坂にも人生の坂にもかけたものでしょうが、やや深刻か。

6ところで、最後の紅輝の句ですが。
檀一雄句とあわせてよめば、ふしぎな景色がみえます。
夕日の真っ赤な波が「わたし」を包んでうねっているような。
わたしはその波間にうかぶ、一点の泡であるかのような。

すごいですね。
これは、なんと香川のジャンヌダルクさんがつけてくださったものです。
びっくりするでしょう。はじめてつけてくださった、その句、お上手です。
わたしは以前写真をアップした、青木繁の海の絵を思い出しました。

では。どの脇句にするか、みなさんのご意見をお聞かせください。

また、秋を出されたろいりさんや、そらんさん。
ほかに何かございましたら、出してくださって結構ですよ。

ゆっくりやりましょう。最近は老いて息切れがしますので。笑

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コメント

こうきをかんがえていました。よしこさんの脇句の。
紅輝。紅旗をたちまち連想しました。かいていた。ここです、ドラゴンアッシュ。みてください。次の日の記事でも書いており、「竜の灰、君が代と繋がる」というタイトルです。
こうき、は、じつに意味深なことばです。
こうきせいじゅう、わがことにあらず。といったのは定家でしたね。明月記、きのうのどなたかの川柳にもでました。でも、わたしは紅旗といえば、ジャンヌダルクのことを思いました。民衆を率いて戦う自由の女神。いっしょになっています。
檀一雄の文学は、わたしたちの教養では歯がたたないところがあって、漢文の素養とか、いまのわれわれにはありません。専門家以外、ない。それをおもうと、なんどかみついてもこなれないするめみたいに思えますし、よじのぼれない絶壁みたいにもおもえる。そういったことを全部つれてくるんです、この、よしこさんの脇は。
以上です。

あめんぼう土星の縁をおちちゃった

紫陽花の石垣の家解かれおり

あれま。そらんさん。
たけくらべになってるよ。
発句と同じ長句。

ありゃ。
気付かれたか。
まだ脇だったんね。

土星の淵を落ちるあめんぼ

すもものしたで石を積むひと

あじさい咲いて家は解かれる

きっちりと、言わば、つきすぎというくらいに発句についた、エメ句に一票を投じます。ガンダムも状況がよくわかって面白いと思ったけど、脇に据えるにはどうでしょう?裏向きの一句じゃない?これ。

で、よしこさんの句も捨てがたい。
こうき、ということばが斬新なイメージ。耳慣れない、目新しい語彙にはわけのわからない魅力があると思う。なにより、この命令形、わたし好みのスタイルです。笑

そらんさん。やり直しありがとう。
一回目よりいいよ。
一句目、土星がそらん風。が、表六句、しかもまずいことに発句にお日様、わきでも星をだしたら、きたるべき五句目で月が出せない。すもも、家解体よりこっちがいいか。家の解体は理におちる付け筋、といいますか、因果関係みたいな付け筋がみえる。これを脇句にしたら、檀にとても失礼な気がする、なぜかというと、発句のねがいをスルーしてしまうようなかんじの付けになるからです。発句とおなじおもいでおなじ場所から詠まなきゃ。でも、すももはあっさりしてとてもきれいだし、抽象的でかつ具象。詩的。だけど。どちらも脇のつけ方としてはどうなんだろう。いや、脇のつけ方はこれでもいいんだけど、発句の周辺をよむのだからね、でも。なにか軽すぎる気がしてならない。残りの太陽、その全力をふりしぼって一句をだす。という気迫が伝わらない。
その視点で選句をすると、かささぎの目には、よしこ句の強い紅輝の一点があたまから離れなくなる。
それはなぜだろうか。
まるですでにあの世の人の視点みたいだからだ。
姫野句があちらへ移動中の句であるとしたら、この人のこの一句は、すでに移動をおえて、天上からこの世を見下ろしているような、そんなイメージがあり、なおかつ、強い祈りの思いを感じます。自分にスポットライトをあててくれ。と叫びながら、その自分はといえば、波間に漂う小さな一点の泡でしかない。とでもいいたげな、そんな非力感がどこかにある。そこにとても打たれる。檀の句とかよう絶望感がひそかにしまってあるような句である。外面は威勢良く我を張りつつ、内実はその真逆とでもいうような、叫び。それをこの発句と脇のあいだに見出す。

わたしは、この人香川宜子さんのザヴァイオリンの紹介文をよんだとき、いまどき、なんでアウシュビッツなんだろう。といぶかしかったのだ。それはいまもずっと考えている。
檀のこの句、さらりとしているけど、思いの深い、人間のもつ根源的なあこがれ=死であり憧憬であり、詩そのもの=に同化したいとの切実な願いが吐露された句だとおもう。そして自分はもうすぐ死ぬんだ、仕事半ばなのに。との思いも濃くにじむ。
中山そらん句は、檀のその思いは受け損なってはいないけれども、檀と張り合うには、いや、支えるには文体が軽い。軽すぎる。そんなかんじが、私にはします。時代的なものだろうか。それとも、そらんさん個人のものか。

あと、しらべさんやさくらさん、たからさん、らんさん、音彦さんなどにも声かけたかったけど、忙しそうだし、これで締め切ります。
こんどのれぎおんに二巻だしていますが、できはいまひとつ。(8月初旬発送予定)
このネット上で緊張感をどう持続、維持できるか。ということに尽きる。
空中にかける蜘蛛の糸。せっせとたゆまなく。
いざ、ゆかむ。捌の意思は半分もない。みなさんの集合無意識と神のもたらす偶然の縁と。それが駒を動かす。

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