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2010年7月21日 (水)

浜寺俘虜収容所のロシア兵             あるユダヤ人捕虜と日本

歴史ノンフィクション

「浜寺俘虜収容所のロシア兵」

    
竹橋乙四郎

一、
19世紀末、ヨーロッパ諸国を深刻な金融不安が襲いました。この頃、ヨーロッパの金融界を牛耳っていたのはユダヤ人でした。

悲劇は音楽の都ウィーンから始まりました。
カール・ルエーガーという弁舌巧みな美男子がウィーン市長選に臨みました。ルエーガーは、ロスチャイルド家などのユダヤ資本への市民の反感に乗じ、反ユダヤ主義を煽り、大衆の圧倒的な支持を得て1897年4月20日にウィーン市長となりました。
市長に就任してからのルエーガーは、反ユダヤ主義を市政に貫徹したわけではなく、ユダヤ人の貧困層を救済するなど民族融和の善政を重ねました。ルエーガーの業績を称え、ウィーンには「ドクター・カール・ルエーガー広場」などルエーガーの名のついた
広場や通りがあります。ルエーガーの反ユダヤ煽動は選挙戦術にすぎなかったのでした。
 しかし、ルエーガーが大きな感化を与えた男がいました。その男は、ルエーガーを「わが人生の師」のひとりだと言っています。若きアドルフ・ヒトラーでした。

二、
1872年のある日、横浜港に降り立った16歳の少年がいました。彼の名はマーカス・サミュエル。サミュエルはロンドンの貧しい行商人の子として生まれたイギリス系ユダヤ人でした。サミュエルは日本の貝殻をボタンや小物玩具に加工してイギリスへ輸出して成功し、多くの富を得ました。1894年7月に開戦した日清戦争に際し、貿易商サミュエルは食料や軍需物資の調達と輸送で日本軍を支援し、日本の勝利に貢献しました。
1895年3月、朝鮮半島の独立を大義として日本が宣戦した日清戦争が終結しました。日本の安全保障上、朝鮮半島を独立させ半島にロシアや西洋列強を軍事進出させないことが重要でした。日本が勝利したことで、朝鮮半島は清の勢力圏から切り離されました。
サミュエルはインドネシアでの油田開拓にも成功し、1897年に横浜元町に石油会社を創設しました。貿易商としての成功の糸口となった貝殻にちなみ、サミュエルは会社名をシェルと命名しました。シェル社は後にロイヤル・ダッチ社と合併してロイヤル・ダッチ・シェルとなり、巨大石油資本に成長します。
サミュエルは、1897年に日本政府が銀本位制から金本位制に転換する際も、日本国債を売って資金調達に助力し、世界に日清戦争の勝者日本の存在を印象づけました。
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「黄禍」という言葉を用い、黄色人種による西欧文明への脅威を警告しました。
三、
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の忠告により、従兄弟のロシア皇帝ニコライ2世も「黄禍」を警戒しました。ロシアでは、ユダヤ人に対して「ツィード」という蔑称を使っていましたが、日本人へも同じ蔑称が使われました。
日本に対して、ロシアはドイツ・フランスとともに三国干渉を行い、1900年に全満洲を占領し、1903年には韓国領の竜岩浦を軍事占領しました。ロシアの南下に日本の安全は脅かされ、1904年2月、日本はロシアに宣戦布告しました。
ロシアとの開戦にあたり、日本は資金調達に行き詰まっていました。日清戦争直後で戦費に余裕はなく、外債で多額を調達しなければならなかったのですが、開戦とともに日本発行の外債は暴落し、まったく引き受け手が現れませんでした。世界中の投資家が、日本の敗北で資金が回収できないだろうと判断したためです。
このころロシアでは、ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐待・虐殺が行われており、ニコライ2世がこれを黙認していることに激怒したユダヤ人銀行家がいました。米国最大手の投資企業の代表ジェイコブ・H・シフです。シフは、日本発行の外債を大量に購入し、他の米国銀行にも掛け合って、その販売を助けました。ひとえにシフの尽力により、日本は勝利に必要な戦費を調達することができました。
1905年9月、日本は日露戦争に勝利し、翌年、シフは明治天皇から旭日章を授与されました。旭日章を授与された最初の外国人です。
四、
ウィーンで反ユダヤ主義が煽動されていた頃、日清戦争の頃、日露戦争の頃、世界各地からユダヤ人がイスラエルの地に移り住み、いくつもの小さな集落が形成されました。シオン(エルサレム市街の丘の名前)の地に帰る、という意のシオニズム運動の萌芽です。しかし、それらの集落は周辺のアラブ人からしばしば攻撃を受けました。二千年前にローマ軍に滅ぼされて以来、ユダヤ人は軍隊を保有していませんでしたので、アラブ人の攻撃に対しては無力でした。そこでユダヤ人の軍隊を再組織した兵士がいました。元ロシア兵のヨセフ・トルンペルドールです。トルンペルドールは北辺の集落テルハイに住み、アラブ人と戦いましたが、アラブ人過激派の反シオニズム暴動が始まり、テルハイ虐殺で1920年10月、トルンペルドールは死亡しました。トルンペルドールが具現した民族のために死ぬことの尊さは、死してなお、子供たちの教育を通じて語り継がれています。
五、
日露戦争の際、日本軍が携行した「軍隊用手帳」の最初のページは戦時国際法の条文でした。勇ましい軍人勅諭ではありません。「われわれは文明国人として捕虜と非戦闘員に接するように」と、捕虜と非戦闘員の取り扱いが詳細に記されています。
先の日清戦争では、旅順口を占領したときの日本軍の行為が国際的に非難されています。日本軍は戦闘員と非戦闘員を区別なく襲撃した、戦闘力を失った敵の兵士を殺戮した、民家から財貨を掠奪した、という報告が世界中に打電され、文明国の仲間入りを目指していた日本にとっては致命的な悪評が広がったのです。
もし、日露戦争においても同じような糾弾を浴びるようなことがあれば、たとえ戦争に勝ったとしても欧米列強を敵にまわしてしまいます。日露戦争の後にはロシアと利害が対立する国々との外交交渉が控えています。日本が残酷で野蛮な国であるという印象をどうしても払拭する必要がありました。
日露戦争の開戦直後、陸軍大臣は34ヵ条からなる「陸軍俘虜取扱規則」を制定しました。
「俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加ヘルヘカラス」
虐待はおろか、侮辱も加えてはならないとの先進的な規則でした。
「俘虜労役規則」、「俘虜収容所条令」、「俘虜自由散歩及民家居住規則」などの勅令や通達も発されました。「俘虜郵便規則及俘虜郵便為替規則」では、捕虜が母国へ送る郵便料金を無料と定めています。
六、
日露戦争においても、日本軍は戦時国際法を完全に遵守したというわけではありませんでした。戦争末期の頃には兵員が払底し、教育訓練レベルの劣る指揮官や兵卒を前線へ送らざるを得ませんでした。「戦争だから何をやってもいい」といった粗野な考えの兵士もいたことでしょう。樺太戦線での日本軍の一部の残虐な行為がロシア兵の手記に残されています。
しかし、そのような残念な例外があるにせよ、日露戦争においての日本は、戦時国際法を逸脱しないように最大限の努力をしました。とりわけ、内地に受け入れた捕虜の扱いについては、どこからも後ろ指をさされない万全の態勢で臨みました。
日露戦争では7万人を超えるロシア兵が日本各地の29か所に作られた俘虜収容所に収容されました。捕虜受け入れの各地では、受け入れ態勢を整えなければなりません。気がかりは、住民が捕虜を侮辱したり危害を加えたりしやしないかということでした。家族や友人を殺したかもしれない相手を受け入れるのです。各地の首長は住民の指導を徹底しました。ある受け入れ地では「戦争は国家と国家の公争にして個人間の私闘にあらざるは市民夙に熟知する処なり…苟くも凌辱箇間敷挙動に出てヽ国家の体面を傷くるが如きことなき様篤く注意せらるへし」という市民向け諭告を発しました。小中学生へは、捕虜に接する心構えが教育されました。
俘虜収容所のロシア兵は次のような厚遇を受けました。
① 捕虜は一等車で収容所入り
② 露国皇帝、フランス公使から贈り物
③ 皇后、知事、軍人から義肢、義眼の贈り物
④ 運動会、収容所講座、芝居などの主催や見物と県外旅行
⑤ 温泉地や料理屋へのほとんど自由な出入り
⑥ 充分な医療の提供
⑦ 逃亡者への穏便な処分
⑧ 死亡捕虜の丁重な埋葬
⑨ 大量の郵便物の受領と発送…
食事について、たとえば将校捕虜のある日の献立は、昼食が「イタリヤスープ(牛骨ダシ、マカロニ)、ロブスタフライ(海老、麦粉、玉子、コース)、菓子(カステラ)、果物(蜜柑)」、間食が「麦湯、日本菓子、果物」、夕食が「ヒンスポック(豚肉、腕豆)、和料理(天丼、鳥、豚、魚)、麦湯」でした。毎食、白パン半斤とバターと紅茶が付きます。下士卒の献立も、毎日、何らかの肉類または魚肉が出ています。
この厚遇は、遠来の客人を迎えるかのごときものでした。ある下士官の手記による捕虜の一日は次のようなものでした。
  午前中、洗面、祈祷、朝食、カルタ遊び、ロシア式野球、バーブキ遊び、兵舎内の徘徊、読書、読書と祈祷以外は喧騒、口論、日本人が収容所内に作った学校へ通う文盲たち(兵士の中に中学校生徒がいた)。午後、一部の者は横になり、大半の者は際限のない議論をはじめ、手風琴を弾く者、歌う者、踊る者もある。このようにして夕食・点呼までが過ぎる。夜、点呼後の祈祷、床に入ってから夜半まで、あるいはそれ以上続く涯しないおしゃべり。
七、
開戦間もない1904年3月18日、まず松山俘虜収容所が開設されました。気候が温暖で風光明媚で温泉があるなどの条件が整っており、当初から開設が準備されていた施設です。船着き場には歓迎のアーチが立てられ、町の人々は紋付き羽織で捕虜たちを出迎えました。
捕虜の圧倒的多数は下士兵卒ですが、松山俘虜収容所は、すべてにおいて後続の収容所の手本となりました。道後公園では捕虜と市民の自転車競走が催されました。集団で伊予鉄道に乗って砥部焼の見学にも行きました。捕虜が自発的に道路の清掃をしたり、市民の靴を作ったりと市民との交流も盛んでした。
捕虜のミハイル・サポーシニコフは母国で昆虫学の研究をしていましたが、松山でも、山野での昆虫採集が許され、夜はその整理に費やしました。
捕虜の中には位の高い将校もいますが、将校の捕虜は主として松山へ送られました。妻子を呼び寄せ、家族水入らずの生活を享受した将校もいました。更に位が高い将官は名古屋収容所へ送られました。
八、
捕虜たちは「俘虜自由散歩規則」により、脱走しないことを「宣誓の上之を許す」(第1条)という条件下で自由な散策が許されていました。しかし、捕虜の中には「身の分際も打ち忘れて市中を闊歩し、さらでも人もなげなる日ごろの振舞いはますます放埓の度を高めて、料理店さては妓楼に押し登り、中には芸妓を落籍さんなどの取り沙汰さえあり」と報じられる者もいました。
 松山では道後温泉の遊郭に登楼する捕虜もおり、「祖国の為に奮闘し、刀折れ矢尽きて降参せし者、精々武士道の慰籍を与へよとの仁愛なる聖旨なれば、優遇は大いに可なり、自由観劇も可なり、自由飲酒も可なれども、相愛しての真正の恋なれば兎に角、売春は不可なり、公許は絶対不可なり」、という苦情も寄せられています。
海軍軍人の水野廣徳は捕虜厚遇の行き過ぎを批判しています。
「露国俘虜に至りては、我が待遇の寛なるに依るか、将俘虜の鉄面皮なるに依るか、将校の如きは青衣紅帽、美服を纏うて、傲然狭き大道を闊歩し、或は白昼妓楼に登つて豪遊を極め、或は妾を囲うて自由居住を為し、或は妻子を招いて同棲し、人をして俘虜か、外賓かを疑はしむるばかりであつた。」
「抑々俘虜の待遇法に関しては、国際法上一定の規約ありて、猥に虐待、凌辱を許さない。併し決して国民性を害して迄も、之を優遇せよとは要求して居ないのである」
九、
29の俘虜収容所のひとつに久留米俘虜収容所があります。福岡県久留米では第48連隊の練兵場の中に収容所が新設されました。1905年4月19日、九州鉄道の京町停車場にロシア兵捕虜500名が降り立ち、そこから徒歩で三井郡国分村の収容所へ向かいました。その後も捕虜は続々と到着し、最終的に2800名余りのロシア兵(下士卒)が滞在しました。短い収容生活の間にも、地元の住民との交流がありました。1905年9月11日の筑後川水泳大会を伝える福岡日日新聞によれば、来賓の部で捕虜15、6名が競泳を始め、川向こうから泳ぎだしたが、予定の場所に着いたのは2、3名で、他は押し流されて下流に繋いだ筏に泳ぎ着き、1、2名は船で救い上げたとあります。
 久留米では、11月26日に、捕虜の放火と見られる火事も発生しています。バラック収容棟8棟、炊事場、物置などが焼失しました。福岡日日新聞によれば「数日前より俘虜の一部は待遇の不満を唱え居たれば、或は暴行を為すやも知れず」とのことでした。日本人兵士の倍額の食費をかけ、戦時下の牛肉不足の中でも新鮮な牛肉を調達するなど、いかに厚遇に努めても、日本式組織管理や居室の構造、洋食食材の品質など、異国の地で余儀なく暮らす捕虜たちには不満が鬱積していたのでしょう。
久留米俘虜収容所は短い期間しか使用されませんでしたが、この時の捕虜との交流経験が、十年後、ドイツ兵捕虜との深い交流につながり、久留米市の発展の礎となっています。
十、
第一次世界大戦で日本はドイツ軍と戦いました。1914年10月31日、日本は青島(チンタオ)のドイツ軍を攻撃しました。青島戦の日本軍の主力は、久留米の第18師団を中心に編成されました。この戦いで五千名弱のドイツ兵捕虜が久留米、坂東、松山、大阪、習志野などへ送られました。久留米俘虜収容所は、最大時、1315名の捕虜を収容しました。
収容所では、音楽、スポーツ、科学技術などの分野で、捕虜と地域住民との交流が行われました。日本で最初にベートーヴェンの交響曲「第九」を演奏したオーケストラは坂東俘虜収容所のドイツ人捕虜たちで1918年6月1日のことでしたが、「第五(運命)」を日本で初演したオーケストラは久留米俘虜収容所のドイツ人捕虜たちでした。1917年3月4日のことでした。
久留米俘虜収容所では、収容所楽団(Lager Kapelle、オットー・レーマン指揮)とシンフォニー・オーケストラ(Sinfonie Orchester、カール・フォクト指揮)の二つのオーケストラと、シンフォニー・オーケストラに付属した室内楽団(Kammer Musik)が結成されました。収容所では145回、音楽会が開かれましたが、そのうち31回はベートーベンの曲が演奏されています。
べートーベンの交響曲が久留米俘虜収容所で最初に演奏されたのは「第8交響曲」でした。1916年2月25日のことで日本初演です。
技術交流については、久留米の日本足袋製造会社がドイツ人将校捕虜のパウル・ヒルシュベルゲンから車のタイヤの製造技術を学び、日本足袋製造タイヤ部となり、後にブリジストン・タイヤになりました。
1920年3月12日、久留米俘虜収容所は閉鎖されました。
十一、
1905年1月、大阪の人口二千人の高石村にロシア兵俘虜収容所が設置されました。浜寺俘虜収容所です。ここにロシア兵二万七千人が収容されました。全国最大規模の俘虜収容所です。ロシア兵捕虜総数の三分の一以上が収容された収容所ですが、捕虜自身の手記はほとんどありません。浜寺俘虜収容所は下士兵卒の収容所でした。ロシア軍の兵卒には、文字の読み書きができなかったり、文字を綴る習慣のない者が多かったからかもしれません。
兵卒ばかりの浜寺では、捕虜同士のトラブルが日常茶飯事でした。浜寺俘虜収容所は、ロシア、ユダヤ、タタール、ポーランド、ドイツ等の異人種よりなる大集団でした。ロシア正教徒、カトリック教徒、プロテスタント、イスラム教徒、ユダヤ教徒が混在しており、様々な対立がありました。
この頃、ロシア本土では第一次ロシア革命が進行していました。1905年6月には戦艦ポチョムキン号の乗組員が蜂起しました。捕虜たちの多くも、祖国ロシアの現状に満足していませんでした。戦争が終わって解放されても、ロシアの官憲の横暴から自由になれないことへの不安がありました。収容所生活のほうが自由だともいえました。
浜寺俘虜収容所は共産主義者たちの政治工作の格好の標的となり、印刷物の配布や工作員の訪問による働きかけが盛んに行われました。結果、浜寺俘虜収容所では、民族対立、宗教対立に加え、革命派と皇帝派(反革命派)の対立も厳しくなりました。1905年11月、対立は暴動に発展し、数人が抗争で死亡しました。全国の収容所で亡くなった捕虜の数は373名ですが、その中には、このような捕虜同士の抗争による死亡が含まれています。
1906年2月21日、浜寺俘虜収容所は閉鎖されましたが、収容所で革命思想に目覚めた捕虜は、帰国後、革命に参加しました。
中に、革命派と皇帝派の対立を尻目に、解放後、ロシアへ帰る道を選ばなかった捕虜がいました。ヨセフ・トルンペルドールです。
十二、
ヨセフ・トルンペルドールは歯科医師でしたが、24歳の時に日露戦争が勃発したとき、志願してロシア軍に入隊しました。1904年の旅順での戦いで、日本軍の砲撃により左手を失いましたが、片腕でも戦えると戦列復帰を願い出ました。1905年1月、旅順陥落とともに日本軍の捕虜となり、浜寺俘虜収容所に送られました。トルンペルドールは収容所内で新聞発行を許されましたが、日本語学習を通じ、敵国捕虜を厚遇する武士道精神に感銘を受け、日本人の識字率の高さにも驚きました。
浜寺俘虜収容所では、自由にユダヤ教の礼拝を行い、ユダヤの習慣を守って暮らすことが許されていました。ロシアではそうではありませんでした。浜寺俘虜収容所での生活を通じ、トルンペルドールは、自分がユダヤ人であるとの自覚を強くしました。
収容所には500人のユダヤ人同胞がいました。1906年の解放時、トルンペルドールは同胞を組織し、イスラエルへ帰る運動を興しました。
小国日本が大国ロシアに勝利しただけでなく、捕虜厚遇の武士道精神が国際的に賞賛されていることは、小さくても正義が勝つ実証として、シオニズム運動にも火をつけました。
一三、
浜寺俘虜収容所のユダヤ人のすべてがトルンペルドールと行動を共にしたわけではありませんでした。ロシア革命の成功を夢見てロシアへ帰るユダヤ人も多くいました。他の収容所のユダヤ人も、多くがロシアへ帰還しました。帝政ロシアを打ち倒して労働者の権利を確立することができればボグロムをなくすことができると信じたのです。
共産主義を唱えたカール・マルクスはユダヤ人でした。レーニン、トロツキーはじめロシア革命の指導者の多くもユダヤ系でした。1918年1月に、ロシア共産党(ボルシェビキ)中央委員会ユダヤ部と人民委員会付属中央ユダヤ委員会が設置され、多数のユダヤ人が共産党員となりました。結果として、革命政府の委員会の委員のほとんどをユダヤ人が独占することになりました。第一次ロシア革命は、帝政ロシアからのユダヤ人解放運動でもあったのです。
1918年7月4日、レーニンは「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布し、次のような演説を行なっています。
「反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!」
資本家はボルシェビキの敵でしたが、ユダヤ革命ともいえる第一次ロシア革命へ多額の資金援助をした資本家がいました。アメリカ金融資本を牛耳るユダヤ人たちです。日露戦争で日本の戦費調達に尽力したジェイコブ・H・シフは全米ユダヤ人協会会長でもあり、トロツキーへ1200万ドルもの巨費を援助しています。
第一次ロシア革命には、日本の収容所での捕虜経験を通じ、日本の武士道に触れ、知日的となった元ロシア兵が大勢貢献しているはずです。とりわけボルシェビキ幹部となったユダヤ人たちにとっては、シフの援助で帝政ロシアと果敢に戦った日本は同志であり、今後、一戦を交えるようなことはないであろうことが期待されました。
しかし、1934年、スターリンによる大粛清が始まりました。スターリンは、トロツキーはじめ古参のボルシェヴィキを追放し、抹殺しました。スターリンは反ユダヤではありませんが、ユダヤ人を二分し、トルンペルドールと同じようなシオニズム思想を持つユダヤ人を排除しました。
一四、
スターリンは反ユダヤ主義を公式には明らかにしませんでしたが、シオニズムはソビエト体制を破壊するという強迫観念に囚われており、ソ連国内のユダヤ人全員を強制収容する計画をあたためていました。
スターリンが抵抗分子の大粛正に着手したその頃、ドイツではヒトラーが台頭しました。ヒトラーは頑固な反共産主義者でしたので、ロシア革命の分析を怠りませんでした。ヒトラーは、共産主義思想は否定しながらも、一党独裁制、秘密警察、強制収容所、宣伝手法、政敵の排除法など、革命を成功に導く実際的手法について、ボリシェビキから多くを学び取りました。
1935年9月15日、ヒトラーはニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「国家公民法」)を公布しました。ユダヤ人は市民権を否定され、公職から追放されました。1938年11月9日夜から10日未明、ナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店などを襲撃し、それ以降、ユダヤ人への組織的な迫害が強められてゆきました。
一五、
1907年に原子爆弾の基本原理である質量はエネルギーに転換する(E=mc²)という式を発表したアルベルト・アインシュタインは、1921年以降、エルサレムにヘブライ大学を創立する建設資金を集めるために、世界各国を訪問しました。アメリカ、イギリス、フランスの訪問の後、1922年11月17日、アインシュタインは日本を訪れ43日間滞在しました。アインシュタインは日本がすっかり好きになり、多くの友人を得ました。日本を出国後はエルサレム、スペインを訪問し、ドイツへと戻りました。
1932年、アインシュタインはアメリカ訪問のためドイツを発ち、二度とドイツへは戻りませんでした。1933年、ナチスはアインシュタインを国家反逆者としました。
1939年7月、ナチスから逃れてきたレオ・シラードらが、アインシュタインにある情報をもたらしました。ナチスが原子力エネルギーの制御に成功したというのです。ナチスが原子爆弾を開発して世界を制覇するようなことになれば、ユダヤ人弾圧が世界中に広がってしまいます。なんとしてもアメリカが先に原爆を開発しなければ、ユダヤ人は生き残れません。
1939年8月、アインシュタインはルーズベルト大統領へ手紙をしたためました。
「確信は持てませんが、非常に強大な新型の爆弾が作られることが、十分に考えられます。この爆弾1つだけでも、船で運んで爆発させれば、港全体ばかりかその周辺部も壊すことができるほどの威力を持っています」
原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始しました。
リーダーに選ばれたのはユダヤ人のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーでした。主要メンバーにもレオ・シラードはじめ多くのユダヤの頭脳が集められました。
一六、
1919年、国際連盟の創設にあたり、日本政府は人種平等条項を入れるように提案しました。この提案はアメリカの拒否によって受け入れられませんでしたが、当時の日本は有色人種の先頭に立って、人種平等を訴えていました。ナチスの迫害により大量のユダヤ人難民が発生すると、日本政府は1939年12月に「猶太(ユダヤ)人対策要綱」を決定しました。ユダヤ人排斥は日本の人種平等の精神と合致しません。要綱には次の3つの方針が記されています。
①現在居住するユダヤ人は他国人と同様公正に扱い排斥しない。
②新たに来るユダヤ人は入国取締規則の範囲内で公正に対処する。
③ユダヤ人を積極的に招致はしないが、資本家、技術者など利用価値のある者はその限りではない。
当時、日本軍占領下の上海は、ビザなしの渡航者を受け入れる世界で唯一の都市でした。ビザのないユダヤ難民は満州ハルピンを経由して上海を目指しました。当時の上海には、2万7千人を超すユダヤ人難民が滞在していました。
1938年1月15日、ハルピン商工倶楽部で、極東ユダヤ人大会が開催され、約2千人のユダヤ人が集まりました。大会の開催を許可したハルピン特務機関長・樋口季一郎少将は、大会に招待され、次のような来賓挨拶をしました。
「ヨーロッパのある一国は、ユダヤ人を好ましからざる分子として、法律上同胞であるべき人々を追放するという。いったい、どこへ追放しようというのか。追放せんとするならば、その行先をちゃんと明示し、あらかじめそれを準備すべきである。当然とるべき処置を怠って、追放しようとするのは刃をくわえざる、虐殺にひとしい行為と、断じなければならない。私は個人として、このような行為に怒りを覚え、心から憎まずにはいられない。ユダヤ人を追放するまえに、彼らに土地をあたえよ! 安住の地をあたえよ! そしてまた、祖国をあたえなければならないのだ。」
大会終了後、ハルピン駐在の各国特派員が樋口を包囲しました。
「少将の演説は、日独伊の三国の友好関係にあきらかに水をさすような内容である。そこから波及する結果を承知して、あのようなことを口にしたのか。」
樋口は答えました。
「日独関係は、あくまでもコミンテルンとの戦いであって、ユダヤ人問題とは切りはなして考えるべきである。祖国のないユダヤ民族に同情的であるということは、日本人の古来からの精神である。日本人はむかしから、義をもって、弱きを助ける気質を持っている。今日、ドイツは血の純血運動ということを叫んでいる。しかし、それだからといって、ユダヤ人を憎み、迫害することを、容認することはできない。世界の先進国が祖国のないユダヤ民族の幸福を真剣に考えてやらない限り、この問題は解決しないだろう。」
樋口の談話は、各国の新聞に掲載されました。関東軍司令部からは、特務機関長の権限から逸脱した言動だとの批判があがりましたが、懲罰までには至りませんでした。
樋口は、ハルピン着任時にも、部下へ次のような訓示をしています。
「満洲国は日本の属国ではないのだ。だから満洲国、および、満洲国人民の主権を尊重し、よけいな内部干渉をさけ、満人の庇護に極力努めるようにしてほしい。」
一七、
1938年3月8日、満洲国と国境を接したソ連領のオトポールに約二万人のユダヤ難民が、立往生していました。彼らは満洲国を経由して上海へ脱出しようとして、オトポールまでたどりついたのですが、満州国外務部がナチスの横槍を恐れて入国を拒んだのです。
ハルピン特務機関長・樋口少将は、満洲国外務部を飛び越え、満鉄本社の松岡総裁を呼び出して列車を手配し、オトポールの難民全員をハルピンで受け入れることを表明しました。明らかな職務権限の逸脱でした。
樋口のユダヤ難民保護に対して、ドイツから強硬な抗議が来ました。
リッべントロップ独外相は、オットー駐日大使を通じて次のような抗議書を送ってきました。
「満洲国にある貴国のある重要任務にあたる某ゼネラルは、わがドイツの国策を批判するのみか、ドイツ国家および、ヒトラー総統の計画と理想を、妨害する行為におよんだのである。かかる要人の行為は、盟邦の誓いもあらたな、日独共同の目的を侵害するばかりか、今後の友好関係に影響をおよぼすこと甚大である。この要人について速やかに、貴国における善処を希望している。」
樋口は、出頭を命じた関東軍司令部参謀長・東条英機に次のように述べました。
「もし、ドイツの国策なるものが、オトポールにおいて、追放したユダヤ民族を進退両難におとしいれることにあったとすれば、それは恐るべき人道上の敵ともいうべき国策ではないか。そしてまた、日満両国が、かかる非人道的なドイツの国策に協力すべきものであるとするならば、これまた、驚くべき軽侮であり、人倫の道にそむくものであるといわねばならないでしょう。私は、日独間の国交親善と友好は希望するが、日本はドイツの属国ではないし、満洲国もまた、日本の属国ではないと信じている。東条参謀長!ヒトラーのおさき棒をかついで、弱い者いじめをすることを、正しいとお思いになりますか」
数か月後、樋口へ異動の命令が下りました。参謀本部第2部長への栄転でした。これがドイツからの「善処」要求に対する日本政府の回答でした。

一八(最終回)、
1945年3月、ドイツの降伏は目前でした。
ユダヤ人科学者たちが原子爆弾開発を急いだのは、ナチスドイツの暴走を制止し、ユダヤ人同胞を救いたいとの一心でしたので、原子爆弾を日本へ投下する計画があることを知ったユダヤ人科学者たちは慌てました。
日本は人種差別的なイデオロギーを戒め、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人たちを助けた国です。
3月25日、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙を書いて、日本に対して原爆を使わないよう要請しました。しかし、ルーズベルトは病床にあり、手紙を読まないままに、4月12日に没しました。
5月にドイツは降伏しました。レオ・シラードはトルーマン大統領宛へ、日本に対する原爆使用の懸念を67人の科学者の署名を添えて請願しました。
しかしトルーマンは、日本への原爆投下命令を、ポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行いました。トルーマンは日本へ計18発の原爆投下を承認していました。日本の武士道精神を知るユダヤ人たちの思いは届かず2発の原子爆弾が使用され、8月15日、第二次世界大戦が終結しました。

戦後の数年間、世界秩序は混沌としていました。大国間の冷戦が始まり、核開発競争が激化してゆきました。植民地の独立が相次ぎました。そんな中、1948年5月14日、イスラエルは建国宣言を行いました。国家の独立宣言は、国家として承認する国がなければ意味がありませんが、トルーマンは、国務長官らの反対を押し切り、建国宣言の10分後にイスラエルを国家承認しました。浜寺俘虜収容所のロシア兵、ヨセフ・トルンペルドールの夢はトルーマンによって結実したのです。

トルンペルドールはホロコーストもヒロシマもナガサキも知らずに、この日のためにアラブ人と戦って死にました。
1952年、イスラエル政府はアインシュタインに第2代大統領への就任を要請しましたが、アインシュタインはそれを辞退しました。
今日、イスラエルは核兵器を保持し、アラブ人との戦いが続いています。
トルンペルドールの末裔たちは、浜寺の日々に優る平和をイメージできているでしょうか。
参照、引用した文献です。
吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
http://blog.canpan.info/fukiura/category_12/
ドイツ人捕虜指揮者・オットー・レーマン
http://koki.o.oo7.jp/hoshi_tsuiki.htm

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連続歴史銀河大河ノンフィクション短期集中連載小説
「浜寺俘虜収容所のロシア兵」
一八(最終回)、
1945年3月、ドイツの降伏は目前でした。ユダヤ人科学者たちが原子爆弾開発を急いだのは、ナチスドイツの暴走を制止し、ユダヤ人同胞を救いたいとの一心でしたので、原子爆弾を日本へ投下する計画があることを知ったユダヤ人科学者たちは慌てました。
日本は人種差別的なイデオロギーを戒め、ナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人たちを助けた国です。
3月25日、アインシュタインはルーズベルト大統領に手紙を書いて、日本に対して原爆を使わないよう要請しました。しかし、ルーズベルトは病床にあり、手紙を読まないままに、4月12日に没しました。
5月にドイツは降伏しました。レオ・シラードはトルーマン大統領宛へ、日本に対する原爆使用の懸念を67人の科学者の署名を添えて請願しました。
しかしトルーマンは、日本への原爆投下命令を、ポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行いました。トルーマンは日本へ計18発の原爆投下を承認していました。日本の武士道精神を知るユダヤ人たちの思いは届かず2発の原子爆弾が使用され、8月15日、第二次世界大戦が終結しました。
戦後の数年間、世界秩序は混沌としていました。大国間の冷戦が始まり、核開発競争が激化してゆきました。植民地の独立が相次ぎました。そんな中、1948年5月14日、イスラエルは建国宣言を行いました。国家の独立宣言は、国家として承認する国がなければ意味がありませんが、トルーマンは、国務長官らの反対を押し切り、建国宣言の10分後にイスラエルを国家承認しました。浜寺俘虜収容所のロシア兵、ヨセフ・トルンペルドールの夢はトルーマンによって結実したのです。
トルンペルドールはホロコーストもヒロシマもナガサキも知らずに、この日のためにアラブ人と戦って死にました。
1952年、イスラエル政府はアインシュタインに第2代大統領への就任を要請しましたが、アインシュタインはそれを辞退しました。
今日、イスラエルは核兵器を保持し、アラブ人との戦いが続いています。
トルンペルドールの末裔たちは、浜寺の日々に優る平和をイメージできているでしょうか。

参照、引用した文献です。

吹浦忠正(ユーラシア21研究所理事長)の新・徒然草
http://blog.canpan.info/fukiura/category_12/


国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm

小説、といいながら、あらすじ風の「詳説」でした。
これに、会話だとか恋だとかフィクションの味付けをすれば大河小説らしくなるかもしれません。
それにしても無謀な挑戦でした。
日清戦争と日露戦争とロシア革命とナチスドイツと第一次世界大戦と第二次世界大戦とイスラエル建国とパレスチナ紛争を、ひとつの武士道物語にまとめるなんて・・・

ですよね。でも時間考えたらすごいですよ。
色気ってだいじだなあ。とかささぎはあらためて思ったよ。
よしこさんもきにされているような気がする。医者になるような人たちは、概して色気不足。だって思春期にお勉強ばっかりしていたんだものね。
『ザ・ヴァイオリン』に結ばれないクラウスとアルルの恋(アルルの片思い)、それからハンナとレオの恋がもう少し濃く描かれていたらと、それが少し残念でした。

さらっとして私はあれでよかったと思う。
充分伝わったから。

一個人の力でもハリウッド映画界まで動かすことができるんだなぁと思った。
題材が「アウシュビッツ」だからなんだ。
ハリウッド映画界の成り立ちを知ればわかる。

さくらさん、ナイスふぉろう。そうかもしれません。ちゃんと伝わっているといわれれば、たしかに伝わっています。ふしぎ。
お勉強ばかりしていたから、というくだりは、よしこさんご自身のブログで読んだものでした。ごめんなさいまし。照れ隠しだったのかもね。ぺこぺこり。
さくらさんにいわれて、にわか勉強しました。
ハリウッドとユダヤ人↓。
ワーナーブラザーズもパラマウントもユニバーサルもコロンビアもフォックスも、全部全部ユダヤ移民の映画会社でありました。びっくりです。

今朝これを編集するとき、時間がかかったわりに、字の大きさの制御ができず、こまりました。コメント編集時のネックは、欄外のネームとタイム欄の間に一本の線がひかれていることです。めんどうだったので、一回で済ませようと、長い長いこぴいをとり、それから一つ一つ、線と名前時間をけしたのですが、どこかがまずかったのか、残りました。線が。
線が残るということは字の大きさが小になるということなんですよね。なぜかしら。暇なときにやり直す。

今朝、やり直しました。
編集作業がうまくいかない、字体の大きさが制御できないし色もときにぬける、などなどそれはなぜかわかりませんが、困りました。でも、なんとかできました。これでご勘弁ください。
これは、すごい仕事です。
たった二日でこんなものを書く竹橋乙四郎、おそるべし。かささぎは、まだ読んでいないんだよ。しらなかったろ。今からぼちぼち読むけん感想まっとってね。
たぶん、みなさんもそうでしょう。
しばらく巻頭に起きます。
日本にはすごい霊人たちが沢山いるってことです。
かささぎは読んでもいないんだけど、読む前から、これがどんなに大切な内容を書いているか、わかります。
その触媒に、香川宜子先生の『ザ・ヴァイオリン』が必要だったということとともに。
お二人とのご縁にあらためて感謝を捧げます。

>しばらく巻頭に起きます。

こんな長いのが巻頭にあると、迷惑千万だと思う。
皆さん、読まれたら、ちょこっとでもご感想を。
モノカキとしてのささやかな願いです。
「ザ・ヴァイオリン七章」のほうもよろしく。こちらはフィクションですが、フィクションのほうが自分の性に合っていることを、このたびしっかりと自覚しました。

今朝のNHKで柔道の山下選手がイスラエルとパレスチナのこどもたちを一緒に柔道指導している模様が流れていました。
日本人は、今日も、民族融和のために頑張っています。
私がセミパラチンスク(旧ソ連核実験場)の医療支援の話し合いのために出張した時、同行していただいた先生のひとりは山下選手の近いご親戚の方でした。

ふうん。
乙四郎学長。あなたの学校の生徒であるわが長男は、家では(も)不器用で、がられてばかりいますが、かわったやつで、さっき、「これ、学長もよまれたすごい本だから、あんたも読んでん」と『ザヴァイオリン』を渡したところ、たったの30分で読み終えました。
はひ?もうよんだと?!と、内容をあれこれテストしてみたら、確かに頭に入っています。
速読って本当にあるんだね。あいつがああいうことばかりやっているのはしっていたが、ほんとにできるとは。ひやあ、びっくりこいた。家ではでくのぼうのようにおもわれているのです。てか、うどのたいぼく。役立たず。でも、学長への信頼、あつし。私がちょっとでも学長の悪口をいうと、かばいます。これはなんなんでしょうね。

「屋根の上のヴァイオリン弾き」超あらすじ
ユダヤ教の戒律を厳格に守るテヴィエ。
その次女ホーデルは共産革命を夢見る学生闘士パーチックを追ってシベリアへ。
三女はロシア青年と駆け落ち。
ユダヤ人の国外追放が始まり、テヴィエ一家は着の身着のまま追放される。
イスラエルの地へ帰還する(原作)/ニューヨークに向かう(ミュージカル)。

『屋根の上のバイオリン弾き』の題名の由来。
ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げまどう群衆の中で、ひとり屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事。ユダヤ人の不屈の魂の象徴。

物語はすべて読みました。
いいこともよいことも両論併記なところがとてもいいと思います。いいことは隠し悪いことだけが強調されてきたことが日本人を卑屈にしてきた原因です。

最後はユダヤ人の開発した原爆投下により第二次世界大戦の終結で終えられていますが、トルーマンの下命により、アメリカからテニアン島まで原爆を運んだ巡洋艦インディアナポリスは、原爆をおろしての帰り、日本の回天特攻隊から放たれた魚雷により沈没しました。
これが原爆搭載の行きの船であったなら広島長崎の運命は違っています。

間違った!
いいことも悪いことも・・・ですね。

まだ全部よんでいません。ぼちぼちよんでいる。
で、捕虜取り扱いのところの条文にある「苟くも凌辱箇間敷挙動に出てヽ」のりょうじょくがましききょどう、という文の「かましき」が目について、っていうのも、漢文表記、目に付きます、で、この部分のみで検索かけたら、ただ一つのブログがヒットしました。これがとっても面白いブログで、いくつかよみふけりました。↓
ろいりさん。きっとよんじゃいまいが。
おきてください。きっとねていようが。
父島、母島に原爆があったんですって。小笠原。
神津島の近くじゃありませんか。
これ、さくらさんのコメントとも微妙にからんでくる。
それから、鳩山家独占のロシア外交を苦々しく思う外交官の話や、あれこれおしえてもらって、帰還。

乙四郎の文章ってそっけないけど、あちこち気になるところがあって、寄り道読みさせられる。
ロシアにツイードとともに呼ばれたユダヤ人と日本人。で、ツイードってなんて意味なんだろうね?冬服の素材にツイードがありますが。それかいな。
八女弁で叱られるは「がられる」、っていいますが、この「がられる」は、常に受身のことば、ところが「がる」という能動態のかたちはありません。おいおい関係ないだろ。はい。ですが、急に今横からわりこみで思い出したものですから。きになることついでにめもりました。

さくらさん。おきていらっしゃいますか。
ここ、よんでください。↓
この方、社会福祉法人の方でいらっしゃいますよ。きのう、学長にならったばかり、社会福祉ほうじん。
プロフィールをよみました。んで、5月23日、杉並公会堂で交声曲「大いなる秋田」に出演。あれれ。もうおわっていますね。ざんねん。お近くでしたのに。

乙四郎先生。
ヨセフ、という名前。聖書から取った名前。イエスの義父で第九じゃなかった大工。マリアの夫。
このユダヤ系ロシア人をはじめて登場させたのは、4章、そこでこのヨセフのなしたことを概略紹介していますが、つぎにこの人の名前がでるのは、11章のおわりがけ。そのときにはもうこのヨセフがユダヤ人だったことなど忘れていたので、もう一回四章まで戻りましたよ。だけど、12章へ進めば、ちゃんとまたヨセフの詳しいユダヤ人としての紹介も出てきたので、わかりましたが。構成としてはどうなのよ。題名にとった人物にせまるには、量的にもっと書かねばならないような気がします。
とりあえず、今日よんだので知ったのは、1905年大阪の浜寺捕虜収容所のあった地の住民はわずか2千人だったのに、ロシア人捕虜たちは2万7千人もいて、ほとんどが下士官だったので暴動がおきやすかった。内、ユダヤ人は5百人。ってとこまで。

わたしは速読はぜったいできないな。いきつもどりつして読むタイプです。まだ途中まで。ゆっくり読みますので、今日はここまで。
よせふ。いさふって最近あった。なんだったかな。いそほ物語ってのもあって。伊曾保物語。いそっぷ。

ザヴァイオリン。
小説としては、違う題名で書かれたのがまずあって、次にラジオドラマ化され、最終的にザヴァイオリンとなったようです。内容がそれぞれかわっています。より詳細になっていってます。脚本、どうかわるでしょうね。

私は1回読んだくらいでは意味がぜんぜん読みとれていなかったり人物の関係がぜんぜん理解できていなかったりで、2回目を読んでも初めて読むような感動受けたり、あーこうだったんだ!の連続です。
従ってヴァイオリン2回読みました。
今日から3回目を読みます。
2回目はかなり泣けました。
日本は安らぎをもたらす母親のような国だ・・・のところ。

さくらさん。自分のむすこが速読というものをして、語ってくれたあらすじで、ちゃんと要点をおさえていたことに驚きました。たとえば、アルル・ビゼーが高熱で倒れたこと、なくなったこと、そのタクトには敬愛の念をこめて喪章のりぼんが結ばれた。というところ。この部分は、たしかにラジオドラマでも耳に強く残るところではありましたが。(さくらさんにもcdお貸ししますから、お楽しみに)それと、アヴェマリアヴァイオリンの持ち主ハンナが好きだった楽団員の若きレオはすべてがおわったあと、アメリカにわたって名前をかえた、そのレオがこの物語をあすかに語った、ということまで。
速読、こないだテレビでおばさまたちが実験し、訓練によって身に付くものだとわかった。といっている番組をみたことがありました。でも、自分はできないなあ。と思ってみたのです。
どんなふうにしてよむの、と息子にたずねたら、まるで絵巻物みたいに目の前に文字がヴィジョンとなってたち現れてくるのだ。そうです。はぁ~

さくらさんの読み方がただしいとおもいますl。
よしこさんの文章は俳文みたいですよね。
省略がきいてい、だいじなことはくどくは書かない、さらっと。ただ一行の恋だったりしますよね。お!これ、いいっすね。

竹橋乙四郎先生。
巻頭におかず、どうやってすぐこの頁をとりだせるか思案した結果、ノンフィクションのカテゴリーを新設しました。
それで、いまごろ、やっときづきました。
早朝つながったのは、欄外に参照として記載された方のサイトでありましたね。なるほどです。笑。
文中、ボグロムという言葉がぽんとでてきましたが、意味を知りませんでした。ですので、調べて勝手に括弧書きで意味をつけましたことをお許しください。

ボグロムは「三、」で既出ですよ。

失礼しました。

「迎撃ミサイル、第三国輸出容認へ」
(7月25日西日本新聞ほか)
複数の日米外交筋が24日、明らかにした、のだそうです。
官房長官談話でも、第三国への輸出について(1)日米安保体制の効果的な運用に寄与する(2)日本の安全保障に資する―との観点から「厳格な管理を行う前提で武器輸出三原則によらない」とした。この談話に沿い三原則の例外とする方向だ、だそうです。

本気でこの国を戦争へと導こうとしている人たちがいるようです。

それ、よみました。
そこまでゆるくなっていたとは!と驚きました。
かつての日本はどこにもなくなりましたね。

(きょう、この欄へ見えた方々がいます。)

ところで、じゃんぬだるくさんのご本、ご職業であるおいしゃさんの夢診察室の本、面白いです。わたしはまだ三章しかよんでいなくて、次男がもっていってしまったけど。ハリウッドへ実際に送った生徒がいらしゃるのですね、よしこさんは。その話がすばらしいのです。
自分の夢をはっきりと生徒たちに自覚させる方法。
びっくりの効果的なやりかたかもしれません。

乙四郎のここ、まだかささぎは途中までしか読んでおらず。
まっててください。きちんとよみます。
おやたちのもりでほしの、くるめ、はいぬづかと二往復はさすがにくたびれました。

>アルベルト・アインシュタインは、1921年以降、エルサレムにヘブライ大学を創立する建設資金を集めるために、世界各国を訪問しました。アメリカ、イギリス、フランスの訪問の後、1922年11月17日、アインシュタインは日本を訪れ43日間滞在しました。
このとき語ったことばが有名でした。そのことばに突き動かされて、天皇制のもうひとつの見方をするようになった。だけど、アインシュタイン(ドイツ語で「一個の石」)がなぜ日本へきたのかを知りませんでした。ヘブライ大学への寄付をつのりにきてた。そうでしたか。初めて知りました。

昼、えめさんが院へ持ってきてくださったものです。
内容が『ザ・ヴァイオリン』と『浜寺俘虜収容所のロシア兵』二編と響きあっていて、ふしぎとここに置かざるを得ないものでした。
ですから、まるごと引用しますことを、甲四郎先生、どうぞお許し下さい。(書かれたのは平成14年ころのようです。)

光のなぞ(3)
二十世紀の天才物理学者アインシュタインへの回顧


高 橋 甲四郎

 アメリカ政府は、アインシュタインが思考実験によって考え出したE=mc2 が正しいかどうかを確かめるために、一九四五年七月十五日にマンハッタン計画の中心施設のあるニューメキシコ州で実験をした。
 実験は成功した。
 わずかなウラン「物質」が、特殊な操作を加えられることによって、強烈な熱風と光線の「エネルギー」に、瞬時にして転換したのである。アインシュタインが予言したE=mc2 (エネルギー=物質)は、間違いがないことを確認したアメリカ政府は、それから一ヶ月も経たないうちにこのウラン原子爆弾を、こともあろうに日本の広島に投下して多数の民間人を殺傷したのである。戦争を終結するためならこの一発で済んだはずである。ところが当時のアメリカ政府は、まだ未実験のプルトニウムによる原子爆弾もまたE=mc2 の法則に従うかどうかを「実験的に」長崎に投下した可能性が強い。

 かつて、日本の美と心を広く世界に紹介したイギリスの文学者ラフカディオハーン(小泉八雲)の著書を読み、日本の民族性と風土を知ったアインシュタインは、「人情味豊かな、桜の花咲くあこがれの国、日本の自然美にこころゆくまで浸りたい」という想いに駆られていた。
 一九一六年に、一般相対性理論を発表したアインシュタインは、世界各国からの招きもあったが、最も心を躍らせたのは日本からの招待であった。
 マルセイユから日本郵船の「北野丸」に乗船し、シンガポール、香港、上海などを経由して日本に向かう船上で、彼はノーベル賞を授賞するという、彼にとってはまさに絶頂期の来日であった。
 一九二二年十一月十七日午後四時過ぎ、神戸港の第三堤防に横付けされた北野丸からゆっくりと下船したアインシュタイン夫妻は、神戸のオリエンタル・ホテルで小休憩したあと京都に向い、ぼんぼりのともっている都ホテルで一夜を過ごし、翌十八日東京へと向った。
 東京では、十二月一日まで連日の講演を行ったあとは、名古屋、仙台、京都、大阪、広島で講演し、最後に福岡市の「大博劇場」で講演をした。
 講演を終えたアインシュタインは、日本式の和風旅館「栄屋旅館」(現在の中央区天神町)に宿泊した。最後まで日本情緒を味わいたいと、ベットで寝起きしていた彼は、畳の上に布団を敷いてやすみ、日本料理を好んで食べ、とくに味噌汁が大変気に入ったという。
 気が向けば「アベマリア」をバイオリンで弾いて楽しんだ。
 当時の新聞記者のインタビューに対しては、次のように答えている。
「もし、事情が許すならば、日本に永住してもよいと思っている」
 こうしてアインシュタインは、当初日本滞在一ヶ月の予定だったのを二週間も延長し、四十三日間を、こころおきなく日本で過ごしたのである。

 それから二十三年後の一九四五年八月に、アメリカ政府が日本の広島、次いで長崎へと原爆投下をしたことをニュースで知った日、みどり豊かな桜の花咲く日本をこよなく愛し、世界平和を信条としていた彼は、ドイツ語で「オー、ヴェー O Whe!(何と痛ましいことか)」とつぶやいたきり、長い間口を開かなかったという。

(おわり)


【あとがき】晩年になったアインシュタインは次ぎのように述懐している。
「光は私を七十四年間悩ましつづけてきました。『光の本性』を追求することによって私は「光量子説」を、そして『光の速度』を思考することによって『相対性理論』を構築してきました。しかし、これからも光は私を悩ましつづけるでしょう。光は私にとって、いや人類にとっても、『永遠のなぞ』です。」

(八女市大字津ノ江)

>気が向けば「アベマリア」をバイオリンで弾いて楽しんだ。

これは!!
ユダヤ人がアベマリアを弾く謎は謎のまま。

こんな文を拾ってきました。
~~~~~~~~~~~~
アインシュタインがそれまでの物理に根本的な変革をもたらす最初の着想をえたのは、16歳のときだったという。それについてアインシュタインは、
「わたしはこの問題(運動体の光学)を直感で気づいた。この直感の原動力は音楽だ。わたしは6歳のときから、親にヴァイオリンを習わせてもらった。わたしの新しい発見は、この音楽の世界の勘のおかげである。」

そうだったんだ!
へー。
へー。
アガサクリスティをかささぎは尊敬しているのだが、彼女も最初は音楽家になりたかったとかいていました。音楽はことばを持たない神への直接の通路であるのでしょう。響き振動という点においてです。

NHKでだいぶ昔に放映されたラフカディオハーンの日本滞在中の生活振りを描いたドラマみませんでした?
これ、最高に素晴らしかったですよ。
オハーンは熊本でも暮らしたんです。
オハーン役はジョージチャキリス、奥さんは檀ふみさんでした。
ほんとうに美しいドラマでした。再放送して欲しいドラマのひとつです。

東京の友人さん。オハーン、っていうとですか?
あたしゃてっきり、らふかでぃお・はーんとおもいよりましたが。じゃっどんオハーンなら、鹿児島弁のオハンみたいで、たのしかですね。笑
檀ふみさん。たしか同世代。
えめさんから借りてみたビデオ(男ありけり)、以前リアルタイムで一度みたことがあったとハタと思い出したのが、そのふみさんが涙をはらはらと流される場面にさしかかったときでした。きれいかひとです。

いいえ、私が間違っています。

正しくは
パトリック・ラフカディオ・ハーン
です。

この役をあのウエストサイドストーリーのチャキリスさんが演じてぴったりだったんですよ。

かささぎさんには是非「シンドラーのリスト」を見て欲しいな。
ザ・ヴァイオリンの描写がこれでぴったりと浮かび上がります。

ではみます。
夫がみていた、ずいぶん前に一人で、その後、次男も見ていた、最近、一人で。でも、わたしはまだみていませんでした。

このニュース、びっくりした。
    ↓

アニメになる。そりゃあよかった。
竹橋乙四郎のこれを読むまで、まったく知らなかったです。

今、KBCの「羅針盤」で、ベートーベン第9の日本初演は久留米でドイツ兵捕虜によるということを壇ふみさんが解説していました。

(おつしろう。壇ちがう、檀。まゆみです。かつて瀬高の寺の案内板がずうっと壇一雄と間違っていましたが、いまはちゃんと檀と訂正されています。↓まゆみの木)
でも、その件は、乙四郎(ロシア語訳でBしろう。甲四郎ならAしろう)のこれではじめてしりましたよ。

先日のアクセス解析で、このサイトをロシア語訳で読んでいる方がいらして、珍しかったので貼り付けようとしたのですが、どうしてもできませんでした。

きのうは、「八女農高みらい館で出会った三年生女子」への一万件をこえるアクセスがあり、訪問者は八千人近くにのぼった。
アクセス解析の生ログは一色の中にうずもれた。

やっとこさ香川先生のザ・ヴァイオリン読みはじめました。
何かに似ていると「屋根の上のヴァイオリン弾き」・・う~ん、どっかで聞いたような。。と考えていたら以前にミュージカルで見ていました。

うたまるさん
あけましておめでとうございます

りっぱな俳句を写真につけてくださって、ありがとう。ことしは俳句連句をがんばるっていうことの決意表明みたいにおもえました。コメントつけずにごめん。

本、よまれたのですか。ふうん。あなたはすごいよ。
いや、前から浮世離れしておられるなあとはかんじておったのですけどね。(ちょっとちょっと。こらこら)

香川先生の御本、独特で、さらさらと書かれているわりに細部に目配りされているといいますか、しろうとっぽいのに実はうんと先までみている、といいますか。そんなちぐはぐなみょうなところがある。

忘年会で、映画好きな中山そらんという人がですね、二番煎じみたいだ、っていいやがりました。
何かに似ている部分ってのがあるらしくて。きっとうたまるさんとおなじものをいっていたのかな。
でも、幸いにもかささぎはそのような先立つものを知らず、ただ、ちいさなこともがドイツ兵にみつかってしまい一家が連行されるところだけは、既視感があった。アンネの日記をじっさいによんだわけではないのに、少女のころ、まんがで知っていて、それが強烈にのこっていたからかもしれまん。
ユダヤ迫害ものがたりとしては以前なんども物語られたものかもしれない、でも私はそのあとに付けられた梵天の国日本での捕虜暮らしのものがたりが、知らなかったのもあってとても目をひきました。
日本とユダヤとを結びつけ、強い刻印を残す、それは物語の過酷な時代を生きるユダヤ人少女のヒロインと、日本のいま現在を生きる少女とが、バイオリンを接点として、深いところで結びついている。というのがわかるし、仏教のえにしということばの実写みたいにかんじられもする。声高には書かれていませんが、実話にもとづいているらしく、尊いとおもいます。きっと自分が少女のころにこのお話を読んだら、とても身近に受け止めるに違いないと思った。もし女の子を将来さずかることがあれば、この本をよませたいと強くおもいましたよ。
あすかの武士道、夢診察室は大繁盛、の二冊もよんだかささぎとしては、この作家は恬淡としててとてもユニークな、「書くことを宿命づけられている人」と思えました。
なにより、われらが亜の会の竹橋乙四郎とつながっている。そのかささぎの旗への登場の仕方も、つきあってくださった連句の付け句も、とても魅力的な女医さん。また機会があれば、連句へおさそいしたい。(このひとは最初から自分の目をもっておられました。ああ小説家なんだな。とかんじた。)

こんばんわ
先日シャガール展で印象に残った絵に、ロシアのユダヤ人の村(シャガールの出身地)がありました。
屋根の上でヴァイオリンを弾いている男が小さく描かれていて、そのミュージカルを思い出しました。
いくつかの絵にもヴァイオリンを弾く人を見ました。
この村も人々もナチスに全滅させられたとかを何かで読みました。
シャガールの一族も、とか・・。
その悲しい思いを絵の中で、屋根の上の人に奏でさせているのでしょうかね~☆
おまけで聞いたクリスマスコンサートのヴァイオリンの音色がお借りした本とリンクして不思議な時間でした。

ヱ目さん(わう。この字)、今日もとても寒かったですね。こんなに寒い正月は何年ぶりでしょう。雪がまだ残ってますしさっきのニュースじゃ雪の重みで舟が沈んでいた.。そんなのはじめてきいた。
シャガールはユダヤ人でしたね。キスリングもそう。屋根の上のヴァイオリン弾き。もりしげさんもしんじゃって、そこはかとなくさみしい。
展覧会みにいかれたのですか。今ゴッホがきてるってかいてありますね、新聞に。それと富裕ロシア人が大挙して福岡久留米に医療ツアーに来てるって。

今日のアクセス解析から、久留米俘虜収容所検索でここへお出でくださってます。そのおかげで、かささぎは久留米で亡くなったドイツ兵が、久留米競輪場の一角に埋葬されてお墓もあるということを知りました。浜寺収容所のロシア兵第二弾、久留米俘虜収容所のドイツ兵、ってのも書いたらどげでしょうか。
ここ。↓

写真記事もありますね。↓
あら、これは。
通勤路だった近く。

こんばんわ。
屋根の・・ミュージカルを観た当初は淡々と暗い展開のみで終わってしまうので「はて?・・」と思いましたが。あの世界観はあれで意味がありですね。
ちなみに当時観たのはこれ。
http://akenomusical.net/archive/fiddlerontheroof/

>富裕ロシア人が大挙して福岡久留米に医療ツアーに
新聞によると、聖マリア病院も噛んでる。
露語のできるスタッフの配置とか書いてあったけど、聖マリア関係者で露語ができる人は・・・

明けましておめでとうございます。

ロシア語ができる人は一人しか知らん。どちらもお得意の分野でしょう。頑張ってください。

乙四郎、きのうここへ見えた方が検索されていたのは、オットーれーまんだったとおもいます。オッヨーとなっている、それ、うちまちがいかもしれないので、ご確認ください。

ぽぽなさんちがピアニスト、うたまるさんが竜笛、利華さんがヴァイオリン、・・・いろいろそろってきましたね。

ロシア人兵士の捕虜 検索三位で何度もみえていました。

浜寺 ロシア兵
検索5,110件中1位

ドイツの収容所 ロシア兵
検索20万件ほどのうち1位

ロシア捕虜 ロシア語 日本兵

検索での何位だったっけ。4位?

ここへ朝おいでの方はチャイニーズでした。使用言語。
きのうの朝刊トップ、韓国が年に100便ほど日本を含む近海クルーズをやるというよなことだったね。いよいよ国境のどうのと野暮なことはとっぱらってしまう方向へいってほしいもの。。。。現実はどうあれ、そうなってほしい。
そうそう、使用言語のアクセス解析でいろんな国の方がみえているみたいではありますが、具体的にどんな頁をみているのかがわかりませんでした。ただロシア語のパソコンの方が先月は三人ほどたびたびみていて、それは学長のもんべつ訪問以来であったときづきました。

はい。韓国は隣近所みたいに近いです。
わが家来週から1カ月間、韓国学生さんを一人受け入れます(男子)

えめさん、
そういうお接待役がとってもお上手ですね。
感心します。
自然にそういうことができることってすばらしいです。うらやましいとおもうよ。

私は20数年前からの数度にわたる韓国旅行で、たくさんの親切を受けました。
観光地に忘れ物したのに気づいた時、片道20分も引き返してくれた現地ツアーのバスの運転手さん。格安航空券売ってるところを探していたら、日本語で話しかけて、自分の携帯で場所訊いて、そこに連れて行ってくれたアガシ(お嬢さん)。ガイドブックに載っている宿が見つからず途方にくれていた地方都市で、一緒に探してくれた挙句自分の家に泊めてくれたアジョシ(おじさん)。酷暑の中を江華島の1つの遺跡から次の遺跡へと歩いて行ってたら、車を停めて乗せてくれた40代ぐらいの人。数えあげればきりがありません。
2日にグリーンピア八女のロビーで、ハングルの本読んでた人に話しかけてみました。釜山からきた人で、日本語はほとんどわからないとのこと。こういう軽い会話を交わしただけでも、少しは日本に対する好印象を持ってくれたらと思ってます。

ろいりさん、こんばんわ。 と、あけましておめでとうございます。
私もそろそろまた韓国に行きたいです。 何か自分に合います・笑

今日は韓国の女子とうちの事務所でランチしたあとグーグルで彼女の自宅を空中から見学しました。便利な世の中ですよね。
かささぎさんも知ってる韓・男子は去年釜山で就職しましたが今度仁川に転勤です。毎晩9時頃まで働いていますが普通のことみたい。 頑張って欲しいなと思っています。 

呂伊利先生。えめさん。
どうもコメントありがとうございます。

えめさん、すていくんは頑張り屋さんですね。
無口な彼がじいっと辛抱している姿がうかんできます。負けずにがんばってねとはげましたくなります。
わたしもがんばります。無給時間がたとえ二時間三時間あろうが、それらはあんまり関係ないんだね。ひとのためはじぶんのためです。
娘もいっていました。
たとえば、早出が六時からとしても、間に合わないと思えば、管理人のおじさんに頼んで四時に厨房を開けてもらって仕事にかかることもあると。そうしないと、きもちがわるいからだと。
責任感の問題なのですね。

前田先生が、竹橋乙四郎の恋句、ブータン王のハネムーンの句について、しあはせ、という言葉は、にんべんにします、といわれたその意味を考えます。幸せ、ではなく、倖せ。人のための。です。

浜寺俘虜収容所

1位

こんなに長い作品を2日そこらで書き上げたなんて自分でも信じられない。何者かが憑依していたような気がします。

えったったの二日。
それはしらなかったよ。

ああごめん。わたしはここでこのブログで住信したにもかかわらず、時間の観念がまるでないんだ。そうだったんだ。へえ。すごか。

検索サイト Google  検索ワード 松山捕虜収容所
で見えてます
あれ?松山は愛媛っけ?

検索サイト Yahoo  検索ワード 坂東俘虜収容所

5位

日本がロシアの収容所を開放

検索で11位
1位はダッハウ強制収容所。

捕虜収容所 浜寺

1位

二番に出る
国際学どうでしょう
というのが読みたい
ブックマークコメです

こんなにのんびりとした連休は何年ぶりでしょう。


大阪 トルンベルトール

検索3位

1位はどうも映画のようです↓

検索サイト Google  検索ワード 久留米市イギリス軍捕虜収容所

3位

1位は、鳥飼研究室、2位はアウグストなんとかいうサイト、これを読まねば。

検索サイト Yahoo  検索ワード ユダヤ人捕虜
2位

最近、阿部重夫著にイラク建国があることを知りました。
今、有らざらんを読んでおりますが、とても面白いのだ。
底で繋がる。

検索サイト Yahoo  検索ワード 捕虜収容所 教育

検索サイト Yahoo  検索ワード ドイツ人 捕虜 子孫

2位

最近、久留米の捕虜収容所について何かを聞いた。
あれは、らんちゃんからだよ。音彦さんの仕事の話でした。
ほれ、つながってる。

このページ、いつもべすとてん入りしてますね

久しぶりに自作を読み返しました。
コメントにも書いてますが、
>それにしても無謀な挑戦でした。
>日清戦争と日露戦争とロシア革命とナチスドイツと第一次世界大戦と第二次世界大戦とイスラエル建国とパレスチナ紛争を、ひとつの武士道物語にまとめるなんて・・・

この小説は、ここを覗いてくださった方のみが読むことができ、拡散していません。
いつもベストテン入りしているのだったら、小説としてブラッシュアップすれば売れるかもしれませんね。
売れたら、次は映画化・・・ダメよ~ダメ、ダメ。

想像の翼が広がりますね。

一つ申し訳ないなあと思うのは、この小説の出方が早すぎて、かささぎの意識が付いていけず、こなれないままにまとめてアップしてしまったので、題ももっとつけようがあったのではないかと。
香川宜子氏の『ザ・ヴァイオリン』が触媒となったのは確かであると思われる。
いずれにしても、特異な才能、だれも書かないところを書いてくださった。

以下、連句的。
西日本新聞記事からコピペ。

▼南久留米駅舎天井に六芒星

福岡県久留米市にあるJR南久留米駅。駅舎入り口の天井に、印象的な星形の装飾がある。二つの正三角形を上下に重ねたデザインで、イスラエル国旗でも知られるダビデの星=六芒星(ろくぼうせい)=のマークだ。1928(昭和3)年に建てられた小さな木造駅は戦時中、兵士や兵器の輸送を担った。軍都として発展した久留米。この六芒星には、ある願いが込められていた。

 「旧陸軍が関係しているのでは」。六芒星について、地元にはうわさがある。駅周辺には陸軍第18師団司令部や兵器工場、予備士官学校などの軍事施設が林立していたからだ。だが、陸軍のマークは五芒星。マークの導入にはフランス軍の事例などを参考にしたというが、ユダヤ人との関係は浮かんでこない。

 ただ、陸軍も符号としては六芒星を使っていた。軍隊符号は、地図上に書くなどして戦術を練る記号として使う。17年発行の冊子「陸軍軍隊符号」によると、六芒星は旅団司令部を表す。久留米にはかつて歩兵第24旅団があった。

 しかし、その歴史を引き継ぐ陸上自衛隊久留米駐屯地は「符号は実際の建物に書くものではないし、司令部ではなく駅に六芒星を書く理由も説明がつかない」と判断。陸軍との関係には否定的だ。

 では、どんな意味があるのか。国鉄から駅を引き継いだJR九州には、当時の設計図や資料はなかったが、社内にこんな言い伝えが残っていた。「駅から出征した兵士が、久留米に無事戻って来られるよう施されたのではないか」

 歴史上の記号に詳しい大阪成蹊短大の岡田保造名誉教授(日本史)も「魔よけだろう。災難や魔物が近づかないよう、誰かが仕込んだ可能性が高い」と分析する。六芒星の形は、日本では古来、竹などで編んだ格子の目を「籠目(かごめ)」と呼び、魔よけに使っていた。

 六芒星は戦地からの生還を祈る「おまじない」だったのだろうか。戦後69年。時代が変わった今も、利用客は六芒星に見守られて目的地へと向かう。

=2014/07/26付 西日本新聞朝刊=

久留米での第九初演に関するニュース記事、平成19年10月☟

上津から久留米図書館へ行く途中、野中町の南久留米駅舎経由で走ったので、つい立ち寄る。
ふるいなあ。
ホームに入りキョロキョロしてると、事務室にいた駅員さんが黙って指差して教えてくれた。
駅に入ってすぐの屋根の天井部分にそれはあった。
うちの兵隊おっちゃんはどこから出征しただろう。
と六芒星を見上げて思った。

昨日の(もう一昨日か)新聞トップに、生体実験を捕虜のからだで行った日本の軍隊の記憶を後世に残すため、九大の医学資料館に正確な史料を保存し、展示するというニュースを見ました。
よくぞ決心なされた。

六ツ門図書館(くるめりあ六ツ門5階)で11月30日(日)まで
「ドイツ兵久留米俘虜収容所」企画展開催中だそうです。

最近よくTVで報道されていますね。

そっちかい。
やいこりゃぼん。
付けく、ださんかい。
それにしてもさ。
こどもたちにかんれきいわってもらうなんて、しあわせだね。かささぎはなんもないよ。でもまおやのときもなにもしてあげなかったからね。
こういうことがたぶん、とく、といわれるものの正体かもしれんね。
谷口慎也、枯野の冷蔵庫、無敵だ!

アインシュタイン 栄屋旅館

検索でひらかれていました。
その一位はしゅうゆうかんこうこう。
ここ↓アインシュタインの碑の真相

NHKスペシャル <新・映像の世紀> のひとらーのまきをきょうみました。ひっけんです。
でも、ちかいうちにけされるでしょう。
なまえにはりつけておきますので、どうかごらんください。
そうだったのか。どいつのあの偉大なるジョジョウフの首相は、ひとらーのむすめだったのか。
そういえばにている!
はらせつこもでてきます。↓

滞在時間 5分13秒 閲覧ページ数 2ページ 参照元 (不明)

腕豆と豌豆。
なぜ。
同じ。
👇
あのう。
夏豆の花つて、はつぱの脇下に咲きます。
ものすごく印象的。紫の色の花。
夏豆はそら豆で、えんどうは?
混乱中。

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