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2010年5月 2日 (日)

父の祖里にて  「転法輪山明永寺の歴史」

叔母は母の次妹であり、また、父の嫂でもある。
その叔母に頼んで、分けて貰った祖先の資料に、明永寺の資料があった。
親鸞聖人七百回忌・明永寺開基四百五十年大法要を迎えるための本堂・庫裏修復計画書に付された修復の歴史一覧、昭和53年に手書きされたものである。おもしろい。

文書でみるそれは、いろんなことを気づかせてくれた。

まず、はっとした。

昭和53年の資料の明永寺の住職のお名前に、「調 紀」とある。
あれ?ここは去年横浜の調うたまるさんが連句が終わって訪ねられたお寺!
何で去年みょうえいじと聴いた時点ですぐわからなかったんだろう。
かささぎがほけ(ぼけとはちがう)なのは今に始まったことじゃないが。

説明によれば、今に残るお寺の本堂ができたのは貞享元年とある。
貞享元年といえば、芭蕉庵桃青が尾張で冬の日五歌仙を前年の陰暦十月に巻き井筒屋庄兵衛の板で出した記念すべき年じゃないか。
「おはりを始まりに繋ぐ水の祈念の歌仙」が芭蕉によって上梓された時だから。
そして昭和53年といえば、私事ながらおとうとが死んだ年であり、福岡が大渇水に見舞われた年でもあった。

なんだかすごく幾重にもシンクロしている。

これはこの資料をここに写せというサインだと解釈し、勝手ながら写させてもらいます。

父の祖里にて
  (写真:高塚の父の里にて)

【明永寺の沿革】

1 明永寺の開基

明永寺は西暦1526年(大永六年、今=脚注・昭和53年=から452年前)に第一世釈信空が中心となり、上妻郡長野村に創建されました。時は室町幕府の末期の頃です。今でも長野地区では“寺の下”という地名が伝えられており、当時をしのばせています。

2 福島に移転

1620年(元和六年)徳川時代に入って福島城が撤去せられ、その後福島町ができるに従って、明永寺も長野より現在地(八女市西宮野町=脚注:八女人は福島町と呼ぶ)に移り、改めて本堂を建立しています。
当時は草葺き造りの由、伝えられている。

3 本堂再建

1680年頃、大火災によって本堂庫裏とも焼失、すぐに門徒の総力をあつめて本堂庫裏の再建にとりかかる。
1684年(貞享元年)第九世釈了秀の時、完成をみる。それが現存する建物であります。

※当時の記録はこの火災ですべて焼失しました。

4 第一回本堂修復

1801年(享和元年)第十四世釈貫照の時、本堂の修復を行う。

5 山門修復

1825年(文政八年)第十六世釈融恵の時、山門(現存する山門)を修復。

6 第二回本堂修復

1839年(天保十年)第十七世釈信萃の時、本堂修復。

7 第三回本堂修復

1873年(明治五年)第十八世釈唯圓の時、本堂修復を行う。
棟札には「棟梁 稲富 伊藤 茂助 重昌 大工九人 木挽三人」と記されている。

8 第四回本堂内陣庫裏修復

1915年(大正四年)第十九世釈唯定の時、本堂内陣・庫裏を中心とした修復が行われている。そして翌大正五年この修復を終えて親鸞聖人六百五十回忌の第法要が門徒をあげて盛大に勤修されています。
なお、記録(棟札)には次の通り記されている。

奉 修繕本堂内陣塗替門鐘堂庫裏(外塀迄)
其他井戸水盤新築
修繕監査員 青木藤蔵 高橋熊次郎
        木下治郎  伊藤重太郎
長峰村吉田 大工 坂田茂太郎宗重
三河村高塚 左官 中島勝次郎
福島町 塗師 城後儀次郎

寄附檀家中

昭和53年1月15日

明永寺住職 調 紀

※これ以降の修復についてはかささぎは存じ上げませんが、かささぎの姫野の家のお寺(広川町)も浄財を募って修復ではなく、本堂建替えをする予定であることを思えば、おそらく同じくらい古い本堂をもつこの寺も、おなじではないでしょうか。そんな話を叔母から聞いたようにもおもう。ってことで、何かと物入りですね。いつの時代もそうではあったのでしょう。

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コメント

乙四郎コメントを読んで、ここを読み直したんですが、いろいろと個人的に示唆されることがあった。
まず、寺の下という長野の地名が明永寺があったということを示している、とある件。
長野ってところは八女とかかかれていなくても長野だけで通じるほど石工の産地として有名なんだな。と感じたことがあって、(久留米高良山の愛宕神社の馬の石碑をみてその後上津本山の神社の石の祠をみて)。
こないだ音彦さんがかささぎ院にみえたとき、こういう話になったので前から気になっていたことを聞いてみた。
音「寺田は昔からの地名だろうか?」
かささぎ「昔から。郵便物がくるのに覚えているのは、のうそなんて地名なしの上妻郡寺田村だった。寺田天満宮は納楚天満宮より古くなかったかなあと思うけど。たしか寛文十年ころの資料にあったような気がする。寺は今はないけど、昔はあったんだろうと思う、ところで、なぜ寛文十年って年に集中してたくさん資料があるんでしょうね?いろんなところで寛文十年って年号をみるから気になって」
音「その年は全国的にそういう記録を作成した年だからだよ」
ああなるほどねえ。国勢調査をやったみたいなもんかな。
らんちゃんが音彦さんと結婚するってきまったとき、らんちゃんがいうには、これからいろいろ知りたいことがあったら、うちのおとひこさんをつかってくれていいからね。ってことでした。すみません、早速教えてもらいましたよ。まあ、同業者ってことで、かささぎとしては、最も知りたかった八女の文化行政の最大の障害物となっていた(かささぎにはそうかんじられた)、えすさんとえいさんとの確執についてそれとなく第三者の音さんに聞いてみましたよ。えいさんは職をやめてかんこくへわたられた、とか。ええっ!?知らなかったです。
えいさんは痩せ仏、こと『南蛮仏』(中薗英助著)のなかに実名で案内人として登場されていることに本を読んでいて気づきました。
連句を通じてかかわったものとして、今後のご活躍をお祈りしています。

つぎに。
中島くらのすけ子孫のかたから聞いた話では、八女の高塚にはおなじ中島一族が大阪夏の陣以後おちのびた、と。それと父の祖里の中島家がつながっているのかどうか、少なくともこの明永寺の左官として記録のある家と父の実家とは兄弟筋であったらしく。よく叔母にきけば、祖父の三代前までずうっと左官だったそう。私が知りたいのは、八女の古い町並みの家のつくり、町家という、あれはりっぱな美意識の文化だと思うし、上方文化とつながっているとも思う、では先祖たちはどこでそういうものを学んでいたのだろうか、というのが、かささぎの疑問なのです。
なぜ高塚あたりを三河地区とよぶのでしょうね?どなたかちゃんとした理由をごぞんじですか。
矢部川と花宗川が流れてはいますが。もう一本川があるのかな。
勝手な空想、家紋のかたちは似ているけど、くらのすけさんちの中島本家とはちがう、だけどおなじように大阪夏の陣でおちのびてきた一族として見てみれば、あちらの文化をそのまま引き継ぐ形で八女の町つくりに継承できた、と考えることができます。

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