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2010年4月 2日 (金)

七枝刀人形で有名なこうやの宮で河童さまに遇うの記

先週の日曜日、連句会の前に瀬高町太神(おおが)鬼木栗の内地区にある「こうやの宮」を参拝しました。
じつは、かささぎがかささぎとして竹橋乙四郎にこうまで入れ込んでいる理由のひとつに、これがあったことはみなさんご存じないと思います。あんまり書いてこなかったですから。
この二年「かささぎの旗」は保健医療経営大学の出先機関みたいな風を呈していますが、その理由はほぼここに書いております。興味のある方はどうぞ。

保健医療経営大学への道 乙四郎語録1

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4612.html
保健医療経営大学への道 その2
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-da74.html

かささぎを連句、すなわち本物の俳諧へと引き入れてくださった方は、札幌の俳諧師窪田薫先生でしたが、その窪田先生が入っておられたのが、古田武彦先生の古代史の会でした。わたしは遠巻きにみているだけでしたが、それでも古田武彦という異端の学者がどんな説を唱えている人かはだいたいわかりました。九州古代王朝説です。

奈良の大和朝廷がはじまるずっと以前に、九州では倭国が国をまとめて王朝を築いていた。倭国と日本とはべつの国だった、と。

乙四郎大学のすぐ近くに、七支刀をもつ兵士の人形ほか五体のふしぎな人形を祀るこうやの宮がある。という事実を知ったのも、その古田学派の一人である荒金卓也という人の本からだった。学校の教科書では習わなかった豊饒たる古代が広がっている気がして、夢中になった。そのころ、ちょうと石橋秀野(奈良の天理生まれの俳人)と山本健吉という二大霊人とであったことも、わたしのこののめりこみに拍車をかけた。すなわち、地と血がどういう顕現をするか。という問いにこたえてくれるのである。

ことばで書けば、長くなるから、書かないだけだ。

邪馬台国九州説をとる安本美典氏のことも以前一度言及したことがある。
この先生は統計学を駆使しつつ、九州説を支持され、朝倉に邪馬台国があったとされる。

昨日つながった香川のジャンヌダルク先生といい、どのお方も、ここぞ邪馬台国っていう熱い思い込みがあって、楽しいですよね。
そんな楽しさ、ふしぎさ、のなかに、この七支刀を持つ兵士を含む五体の人形を祀る「こうやの宮」はあったんです。

はるか古代メソポタミア文明に起源をもつ七枝樹をかたどった刀。
西洋と日本との邂逅は16世紀というけど、もっと昔から出会っていたに違いなく、文献がないだけだ。ことばや文化は、わからぬままにとけこんでいるにちがいなく、。

わからないから、おもしろいのです。

あの日、こうやの宮の鍵をあけてくださったお世話人のお方は、軽トラックに乗って軽快においでくださり、帰り際、こうやの宮がビデオになったものを二本われわれにお貸しくださって、また軽快に去っていかれました。やっと、それを今日やっとみました。

日比野克彦がレポーターになった秘境探検風のテレビ録画には、今のように新しくなる前のあばら屋のままのこうやの宮が映っていましたが、その後には、中津江村村長や星野村有志の援助も受けて、無事、再建されたこうやの宮の、再建までの村民の働きぶりが映っていました。そう、あのお宮は小さいですが、地元のかたがたが自分たちの手で再建されたものです。

ビデオを見てわかったのですが、あの人形はやきものなのですね。木彫りではない。
いつごろできたものか、には、番組中では触れられません。
ただ、代々受け継がれてきた、とだけです。そこが弱いといえば弱いですかね。

ただ、海に近いところです。
昔からもっとも大陸(中国)や半島(朝鮮)に近い地であったわけですから。
奈良なんかよりもずうっと古い交流の文化があってしかるべきでしょう。

ながくなりましたが、こうやの宮の人形のなかにいた、赤黒い肌の土人はどうみても「河童」でした。こんなところで河童にあうとは・・・!やっぱりまたまた藪秀野とつながっている。
きょうは、連句的にこの河童の一句でしめくくります。

昭和16年牛久沼にて

菜種ぐもり河童天上つかうまつり   石橋秀野

菜種曇りの日、牛久沼にきている。河童さまは昇天しなさったのだろうか。
もう、いなくなってしまったのだろうか。「天上つかうまつり」は昇天なさった、の意味の謙譲語。文法:仕る。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/129100/m0u/

解説)牛久沼には画家・小川芋銭(おがわ・うせん。慶応四年生れ昭和十三年没)の河童の像がある。
それほど、河童と牛久沼とは芋銭によって有名である。
昭和16年7月、創元社から斎藤隆三の『大痴芋銭』という評伝が出た。
(再版は昭和22年1月同社刊)

その芋銭のことばをひいておきます。

「昔素朴な人間の頭脳は天地自然の不可思議に対して必ず妖精的存在を描き出すものだが、河童は水辺に生活した我々の先祖にとって無視すべからざる微妙な関係にあった。牛久の近所には沼や河が随分たんとあるので、河童の話はいくらでもある。随って土民の生活を描こうとすると必ずこの河童に打つ突かる。」(『小川芋銭展』東京国立近代美術館編集の図譜より引用、著作権者は同館と日本経済新聞社)・・・(この本は平成五年六月十一日に岐阜の俳人川柳人詩人の斧田千晴氏より譲り受ける。元気かな?介護施設で働いているのじゃなかったかな。お寺のむすめオノダは。)

山下整子がこうやの宮の人形の写真、当日の簡潔な報告をしている記事。
http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fa84.html

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コメント

海人がいっぱい
   ↓

カッパ
   ↓

七支刀
   ↓


最初の資料の乙的超要約。

679年12月、筑前・筑後に大地震。(「日本書紀」)
当時の筑後の国には十二郡があったが、筑後川の河口のすぐ南の沖端川を挟む河南郡、河北郡の二郡(現在の久留米市、大川市、柳川市、三瀦郡、山門郡の一帯が該当)がこの大地震によって海に没した。(鷹尾神社古文書)
重大事件でありながら、この二郡についての記録が歴史から抹消されている。

679年12月に筑後の二群が壊滅・・・
おいおい、百済が滅んだのは680年だってば。

679年末に筑後2群が壊滅し、680年には百済が滅亡。
これは歴史改竄のまたとないチャンス!
天武天皇は681年、川島皇子らに国史編纂を命じています(未完成→720年の「日本書紀」につながる)。編集が進まないため、稗田阿礼を相手に天皇の考えに基づいて編述(未完成→712年の「古事記」につながる)

おつしろう。整骨院の先生ってみょうだな。
一種独特の気が流れているよな。
ことばとは又べつ体系の。
ご紹介のページをあちこち眺めました。古代地図はよかったです。七枝樹、生命の木、湯具どら汁。これにつながっていくんだなあ。じゃ、もしやこれもけ?そういえば、そうかもしれない。にている。
杉山洋おんじいの↓

吉野裕子。
河童の考察by陰陽五行。
河童は体つきが猿で顔が鼠、ここで五行の行者はすぐ「子の三合」「水の三合」を連想する。(らしい)
水の三合は申(さる)子(鼠)辰(竜)。
三合は、生・旺・墓の三支のうち、旺気をふくむ二支でも成立する。水の三合の旺気は子だから、河童は水の精ということができる。中国の思想で北を守る玄武は、亀と蛇、甲羅をしょってる河童は合致。あたまのお皿の水がいのちを左右する道理も合致。
対中の理と相克の理を導入して考えると、馬と争い必ず勝つには理由があって、子の対中が馬(午)だから。「河童駒引図」はこれ。六月土用に河童祭が行われるのは「土剋水」の理でこどもを水難から守るおまじないだろうと思われる。(吉野裕子の本)

検索サイト Yahoo  検索ワード こうやの宮

6位

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