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2010年3月22日 (月)

高良山十景歌 古賀音火子さんが送ってくださった資料より

かささぎには時間がない。そこでこういう手段をとります。
資料を打ちこみ、手で考える方式です。
せっかく写しを送って下さった古賀音彦さんの心を無にしないためにも。

『校訂筑後志巻之五』より引用いたします。
(S40    杉山正仲    小川正格 共著)
原著は伊藤常足、江戸時代http://www1.bbiq.jp/iwamiya/yu1/kemuri1_002.htm

  ○    歌枕名寄(實方)

おぼつかな我ことづてん杜鵑
 はやみの里にいかに啼くらん

●山本の里  山本郡にあり。耳納山の山麓にありて前に原野連って筑後川を遠望し、嶺巒松柏鬱蒼(れいらん・しょうはく・うっそう)として楓樹色を交へ、秋陽錦綉を織るが如くその風景賞観すべし。

  ○     万葉集 巻之三 高市連黒人
旅にしてもの恋しきに山本の
 あけのそぼ船沖にこぐ見ゆ

(上は高良山とは関係ないようでありますが、山本という地名は高良山の東北の麓の里ではあり、ついでに引用しました。途中からのコピーでありまして、前後の脈絡がいまひとつわかりません。すみません。いずれ図書館でさがしてみます。)

●不濡山 一名青山、或は高牟礼山、御井郡にあり。
これはすなわち高良山の一称なり。不濡山(ぬれせぬやま)の名義、先輩の説一ならず。けだしことごとく臆説に出で、信ずるに足らず。山形孤立して四方を眺望し、四時の佳景、列記すべからず。
元和中、座主寂源、当山の勝地十境を撰んで、十名所と号じ、帝都に至り、竹園公卿及び明師雅友の詩歌に名ある人に就いて、その詠題を請ひ、輯(あつ)めて巻帙(かんちつ)となす。そのことばにいわく。(ここから漢文、しかも超なが!てきとうにすっとばします。超意訳。)
高良山のあるじ、寂源僧正は天台宗の僧にして、当代きってのインテリなり。
子があったかどうか、かつて見たものもなく、一日叩き、奇行を隠し、喧凉を叙し、ついにこういう。わたしはこの良山に住んで二十年になるが、この山の形勝は筑州一にして、是に勝るところがほかにあろうか。けれどもここは僻遠の地で上都を隔てること千里、だれも詩人や行楽客は訪れてはくれず、詩賦歌頌(しふかじゅ=ほめる詩歌、称える詩歌)を胎すものもいない。われ、この山の霊のためにこれを惜しむ、ゆえに二三の莫逆(ばくぎゃく、親友)と山中の名所をえらび、西湖の十景にならって十の題を決めた。

竹楼の春望、吉見の満華、御手洗蛍、朝妻清泉、青天の秋月、中谷紅葉、不濡山の時雨(雨冠に衆の一字、変換不能)、鷹尾*の素雪、高隆の晩鐘*、玉垂の古松、すなわち躬(身、みず*)からこの十題を齎(もっ)て洛に趣き、王、公卿、太夫など詩歌の妙手二十名に吟詠を依頼し、これを得た。
(つかれたので、ここまで。この項つづきます)。

▼かささぎの旗の独り言:
いきなり高良山十景歌へ入ったのはまずかったと悔いる。
事前知識がなければ、よみは成り立ちません。無理してはしくじります。
さいわい、これがかささぎのもって生まれた幸運というやつでして、俳縁の友、東妙寺らんの婚約者の古賀音彦氏(やまなみ短歌会所属歌人であり、連句会亜の会に片足つっこんでいる連句人)は久留米市役所文化財課勤務(これでいいですか?なにしろ課のなまえは沢山あってわからないんで)です。ほしいときにグッタイミングでほしい資料をどさっとくれました。ありがたし、ありがたし。ほくほく。(にか~よりやや上品な笑)
ゆっくり進めますので、どうぞみなさま、お付き合いのほど。
今日のところ、一箇所めんどうですっとばした箇所あり。
「佚遊漂寓」あそびをのがれ、
あちこちさすらう。っておかしいなあ。あそびくらす、きままに浮遊する。ん。こっちのほうがぴたっときますね。これは、どこに入ったのかな。だれも詩人や行楽客、つまりきままに遊び暮らすようなやからはこない。と、ここに入るのだ。

今から350年ほどの昔、芭蕉の時代、そんな「行楽客」なんてことばはなく、王侯貴族か、お公家さんか太夫でもなければ、旅や娯楽は滅相もない時代だったんだね。ということがよくわかります。
それと大事なことがわかりました。
*鷹が峰って寂源が久留米の高良山から京都へ帰ったとき住みついた地名です。
徳川家康に仕えた本阿弥光悦が家康に拝領した地で有名です。
高良山にもおなじ嶺のなまえをつけたのは、寂源であったのでしょう。
なにか光悦によほどの思い入れがあったのでしょうか。いつか詳しくこのところを調べてみたいものです。

*晩鐘について。この時代の鐘の音には、かささぎもひとしおの思い入れがあります。
それは芭蕉の冬の日歌仙の鐘の音(杜国の句だったかな)から始まっています。一度、れぎおんにも書かせていただきました。昭和の天文学者で戦後すぐの山口誓子俳句との『星恋』という共著がある野尻抱影の解説文を読まねば、決してきづくことなど出来なかった、むかしの人々の晩鐘に寄せるあつい慕情が、いま、かささぎにはよくわかります。ですから、ここに寂源が挙げている晩鐘には、とっても共感できます。
野尻ほうえい:http://fkoktts.hp.infoseek.co.jp/NOJIRI.1.html

*躬(身、みず*)から、と勝手によみくだしましたが、自らは身づから、と書くのかもしれませんね。ただ、身という一字すら、むかしの人は、たくさんの漢字を使い分けたのかもしれなくて。わたしには、この「躬」は、浄瑠璃作家の若竹笛躬(わかたけてっきゅう。または、ふえみ。ふえみとよむ式は、杉山洋先生の文章で知りました。八女燈篭人形夜話で。竹が三つもある名)のなまえを連想させます。
石橋秀野の随想や俳句に出てくるからだという字は、骨が豊かと書きます。體。
それとおなじで、身ひとつにも、いろんな概念をこめた。それがよくわかります。

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