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2010年3月18日 (木)

源稀典の書

源稀典の書

神田の古書店が正月におくってくれたカタログに載っていたものです。
高いか安いか、やすいような気がしますが、貧乏人は眺めるだけです。
はっきり写っていませんが、乃木将軍の軸のサイン、乃木ではなく「源 稀典」です。
これをみて、ここではたときづく。

歌をなさる方々には、源という一字を号にいただく慣わしがあったのでしょうか。
戦国百首和歌の源鑑述といい、寂源の号をさかさまにした表記、源寂といい。

乃木将軍。『静寂の声(しじまのこえ)』渡辺淳一著。
学習院の第十代院長だった根っからの軍人であります。
西南戦争のとき、薩軍に軍旗を奪われたことがのちの殉死につながった、と書かれている。↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8

いま六本木ヒルズのあるところで、乃木将軍はお生れになったとは。

写真ではよみとれないので、書き写します。
漢文、どなたか訳してください。

夫兵形象水水之形避高而趨下兵之形
避實而撃水因地而制流兵因敵而制
勝故兵無常勢水無常形能因敵変化而
取勝者之神    源 稀典 書

かささぎ注:霊の字は本当に霊か自信がありません。
謂の字も、稀典の字では胃ではなく田の下が日です。

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コメント

源氏と平氏
平安時代、博多を拠点とした宋との貿易による経済力を背景に、九州は平氏の支配下にありましたが、清和源氏の源頼朝が平氏に挑み、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏は終焉し、勝った源頼朝は、鎌倉に幕府を開き武家政権を確立しました。
ここで平氏滅亡ということになっていますが、実際は生き延びた平氏がいます。
建礼門院徳子(安徳天皇の母、平清盛と二位尼の子)と守貞親王は救助され、後に出家。
生け捕りにされたのは、平宗盛、平清宗、平時忠、按察使局など。
平宗盛(宗清)・清宗の親子は、身投げしようとしなかったので部下に突き落とされ、海を泳ぎ廻っているところを源氏側に捕えられます。
平時忠は流罪となり、そこで死亡。平宗盛親子は鎌倉護送中に暗殺される。
安徳天皇(8歳)は二位尼(平清盛の妻)と入水した、乳母の二位(平宗盛の母)と入水した、按察使局と入水したと諸説ありますが真偽不明。
このうち、按察使局(伊勢)については海から引き上げられて生け捕りにされたと吾妻鏡にあります。
安徳天皇は久留米の長者笹山の松田のもとに身をよせ小森野で育ち、亡後は水天宮そばの日輪寺に葬られたとの言い伝えがあります。
按察使局は、平知盛一族と共に壇ノ浦から大分に逃がれ、備後水道を下り筑後川に出て1190年代に安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てた、と久留米の水天宮総本社の社伝にあります。すなわち、水天宮は平氏のお宮さんです。
合戦の敗将、平知盛(清盛の子)は、八女市八幡の平に逃れて住んだとか。
知盛の叔父、平宗清が開いたとされる寺(宗清寺)があり(八女。後に筑後市鶴田に移転)、平家の残党は、原や坂梨などに姓を変えて(たいら、という意)、お寺の周辺に住みついたとか。

さて、勝った清和源氏の末裔は、その後、世にはばかることになります。
八女んにきは、平氏と源氏の末裔の鬩ぎ合い。
戦国百首の頃、圧倒的影響力の大友氏は清和源氏。
八女の人たちは、自分は平氏の末裔ではないぞ、と自己主張しなければならない必然性があり、あえて源姓を名乗ったのかも。
清和源氏末裔の八女の代表格は石橋氏。八女地方の石橋氏は、清和源氏の血を引く石橋右衛門盛清が天正年間(1573~1593年)に星野村に定住したのがはじまりとか。

源氏も平氏も、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ。
このほか、藤原氏、橘氏も。
すべて同じ血筋なので、源氏も平氏も藤原氏も橘氏も親戚どうし。
平氏が滅亡したといっても、血筋が途絶えたのではなく、平清盛の系列の平氏が途絶えただけのことで、平氏じゃなく平家(平清盛家)の血筋の滅亡というのが正しい。
平清盛以前に皇族から派生した平氏は壇ノ浦以降も現在に至るまで続いており、源頼朝の後の政権でも北条氏や織田信長などは平氏の血筋。
この「姓」は血筋を重視するものなので、嫁いでも変わらないし、養子になってゲットすることもできない。すなわち、「苗字」とは別物。
明治以前までは、姓と苗字とは使い分けされていたようです。
普段は通称の苗字を使うが、皇族の前では姓を使うのだとか。
希典も、苗字は乃木だが源氏(佐佐木源氏)なので姓は源です。
皇族の末裔でない人は源氏でも平氏でもないので混乱はありません。
ところで八女市平の平姓と内田姓、山内の安徳姓、長野の内山姓、北川内の倉員姓は平家だそうです。ややこし。

どうも詳しいお調べ、ありがとうございます。
これで視界がはっきりしました。すっきりして、きもちがいいなあ。
水天宮のことも、石橋家が源氏だったことも、よく知りませんでした。それよか、いちばんのびっくりは、清盛の子が八女のたいらに逃げ込んだ、ということです。そんなのしらんばいね。みな、しっとった?
うわあ、びっくりだ。
たしかに、地名はタイラだし、たんぼの中で平ら。
平には内田という姓の南中学時代の恩師がいました。ぼんたん先生。もう亡くなられましたが、なつかしい恩師です。ぼんたんから習っている間は、かささぎあたまでも数学は5でした。ソフトボール部の顧問で、夏、夕方、スイカの差し入れ。の記憶。そうだったのか、先生は平氏の末裔。へーえ。ひさびさにおもいだしました。ありがとう。
源というのは、乃木まれすけ将軍のかばねになるのですね。なるほどお。
ちなみに、うつしてきた。乃木大将の書の内容。
それ兵の形象は水なり水は高きを避け低きに従うなり兵の形は實を避けて霊を撃つなり水は地によりて流れを制し兵は敵によりて勝を制すものなり・・・と、勝手によみくだしてみました。まったく違うってこともなかろうと。これ、ひょっとして中国の兵法書をうつしたのでしょうか。じぶんのむすこたちをことごとく人に先駆けて旅順作戦でうしなった人のことばは、意味はよくわからぬながらも、胸をうちます。
また、その字からも、おなじものを感受します。

「源氏も平氏も、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ。このほか、藤原氏、橘氏も。」という部分にちょっと反論、この中で藤原氏だけは、もともと中臣鎌足という、皇族ではない「豪族」に与えられた姓で、姻戚関係があったとはいえ、元皇族ではない藤原氏が最終的には貴族社会を牛耳った、しかも日本の最初の正史たる『日本書紀』が、藤原氏二代目の不比等の編纂による、すなわち藤原氏史観に貫かれているところに、古代史研究の問題の1つがあるのです。蘇我氏が悪者扱いされている一方、厩戸王が聖徳太子と崇められるようになったのも、典型的なその1つの例。
平氏も源氏も現在に至るまで続いているというのはおっしゃる通り、でも織田や豊臣が平氏の末裔と称し、対抗して徳川が源氏を名乗るというのは、系図でっち上げ的、マユツバ的要素が多分にある、特に豊臣・徳川は。
何のかんの言うても日本人の約90%(農工商民)は、明治維新や「四民平等」のドサクサに紛れて、適当かテキトーな苗字、というと定義がややこしいからファミリーネームを名乗るようになったとですよ。あたしゃたまに源氏の分家の子孫かと聞かれるが、しょせん4代5代前に遡ればどこの馬の骨かわからん。

そ。みーんなうまのほねたい。だれでんかわらんち。
そんで、てんのうけのおかたでも、おんなじ凡夫、おんなじなやみをもっていなさる。ありがたやありがたや。もりやひろしって、もしや、もりや一族?

源平藤橘。話の流れが以前の話題の姓(かばね)からきているので、断片的に捉えると言葉尻とられますね。意味合い的には天皇から頂くのが姓で現在の苗字とは違うという大まかなところでしょう。
源平藤橘といっても夫々の時代は違うので確かに横並びには語れませんが、この藤原さん。一般的には「皇族でない豪族」でナカトミ。確かに教科書どおりです。ただ不比等が鎌足の子とすれば。。
「皇族が臣下に下る際に賜る姓の一」というのは本当に間違いなのでしょうか?鎌足すら藤原は名乗らず、複数の兄弟の一人不比等からですね。なぜでしょう?最初にかささぎさんと出合った話題のどこかの家と似ています。
馬の骨。。どんな馬の骨でも現在まで何億年生き残ってきたDNAをお持ちなんですね。誇れます。つまり勝ち馬。

おお。
このあたり、うたまるさんは自分のご先祖がからむので、とっても詳しくなられますよね。以前かささぎのパソコンメールのほうへ事情を送信してくださったのですけど、まぬけかささぎめはそれを失してしまい、もはや見ることは出来ません。しかし、それほど古い時代から記録に残っているこの家柄というもの、すごいものでございますなあ。知る動機づけがうたまるさんとわれわれでは違う。ってことです。

 「もりや」は物部一族(物部守屋)、という冗談はさておき、「ありがたや節」、この歌は、何とすごく退廃的というか、「アカシアの雨に打たれて」「黒い花びら」などとともに、いやそれ以上に60年安保闘争挫折時代を表している歌だと前から思ってました…だって「腹が減ったらおまんま食べて 命尽きればあの世行き」ですよ、「近頃地球も人数が増えて 右も左も満員だ だけど行くとこ沢山ござる 空にゃ天国 地にゃ地獄」とは。「右も左も」は70年安保挫折時代に流行った鶴田浩二の「傷だらけの人生」の最初の語りを先取りして右翼も左翼もというニュアンスだし、「デモはデモでもあの子のデモは…」という箇所もやはり安保デモが背景にある。
 歴史の話からいきなり飛んで申し訳ないけど、私には近現代社会風俗史のほうが似合ってるようで。

そうでしたか。私はこの歌、みょうにじいさんくせえなと感じつつ、なぜ有り難いのか、何がそんなに何度も繰りかえさなきゃいけないくらい有り難いことなのか、ちっともわからなかったので、おとなになったらよくかんがえてみよう。と思っていた(いまにしておもえば。)
恋だの愛だのいっている割にはいまいちのれない。
だいいち、まったく色気がないよね。ロマンチックからもっとも遠いところで、口先だけ愛だ恋だいうてる。まるでお経みたいだな。とずっと思っていた。
ろいりさんのこの解説で、はじめてこの歌の味わいというやつがみえた。ありがとさんでした。どもども。なるほど。たしかにねえ。物部氏。守屋さんはなべプロ最古の社員だそうです。

「うたまる」さんへの反々々論をしようか、やっぱ控えとこうかと思いつつ、妙に気になるのでやはりちょこっと。まず私は、断片的に捉えて言葉尻取ったつもりはいささかもありません。そして「藤原」氏誕生の時代にはまだ貴族制度はないし(これはうたまるさん自らおっしゃる通り、源平藤橘といっても夫々の時代が違う)、皇族という概念さえあったかどうか~大王家はあっただろうけど。鎌足・不比等の時代の姓は「カバネ」であり、源氏・平氏が賜姓貴族となった時代の「姓」とはだいぶ意味が変わってます(そのことも理解されてはいるようですが)。橘と源平もまた、時代の違いにより「賜姓」のニュアンスが微妙に違うが、こうなるとまた専門的になりすぎるので、このへんで八女、いや止めときましょう。
前回のコメントでは私も1つミスを犯してました。鎌足が死の直前に与えられた「藤原」は当時の用語で言えば「姓」ではなく「氏」だった。

NHK大河の平清盛が始まりました。
面白いけど、やはり皇族を「王」とナレーションしてるのには違和感がありますね

昨夜は三時半まで文章を書いてました。
たいらのきよもりはまだ一度もみとらんとです。
母にきいたら、面白いよ、という答え。
次から見たい。
松けんちゃんがみたい。
ところで。


「戦火想望俳句」ということばにぶつかった。
いえ、もう秀野さんをやっていたときぶつかっていたことばなんですが、これはいったい、どんな意味合いで使ったことばなんだろうか。というのを深くこれまで考えたことがなかった。
京大俳句事件という言論弾圧事件がありましてね。戦時中のはなしなんですが、たくさんの俳人がしょぴいていかれた。
戦火を想い望む俳句。想望とはきつい言い回しであります。どこかそういう俳句を揶揄している視線まじり。以下のような句たち。

戦争が廊下の奥に立つてゐた  渡邊白泉

今アクセス覗いたらこちらを見て下さってる方あり。
はたとおもいだしたので、忘れぬようメモろう。
ろいりさんの友人にきいたらご存知かなあ。
真木和泉、学習院の教師第一号だそうですね。
明治維新は久留米から始まったといっても過言ではない、と書いてる文を最近、冠婚葬祭のともの会みたいなんで読みました。立派な文章だったんで、もう一度読みたい。
サンセレモでした、会報みたいなんです。

ここ。
ひさびさにひらいた。

なぜだ。

霊主体従。

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