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2010年3月10日 (水)

干支談義、黒木物語とはじめて出合った日、西洋が日本へはじめて来た日。

天文年号誤表記の謎解明まであと一歩。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-b955.html
についたコメントです。

▼コメント

同じサイトに、永禄三年申庚というのがあり、これもさかさま。
16世紀の年号表記に何かありそう。

http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/2rekisi/sensi.html

しかし、よく考えて見ますと、さかさまと感じるのは、現代の目でみるからであって、十干と十二支の組み合わせは60通りしかないわけで、それをさかさまに表記しようがきちんとふつうに表記しようが、当時の人にはどちらの表記法も別段あやしいものではなかったのではなかろうか。ということは、誤記などではないのが、矢部村の史料にある干支表記。
天文歌人の夏日侍の表記はそれとは異なります。
ひっくりかえせないから。
ただ、「きぼう」に二つあることを知る。
癸卯:相生
己卯:相剋

天文24年卯月25日はそのいずれでもなく、
乙卯(いつぼう):

ところで。
さっき何かがひっかかっていたのですが、それが何だったか思い出せなかった。
今おもいだした。
矢部村の六地蔵の板碑にある、
六地蔵者下向七代調月宗仙居士

この「調」。
しらべ。
しらべという姓を天皇にいただいて帰ってきた人がいました。
ほかに小侍従と刀もいっしょにいただいて。
それは黒木の猫尾城主・黒木大蔵太夫でした。
かささぎがつい先日二回も呼ばれていった行空上人の墓にちゃんと記載されていた人ではないですか。その一族が「調」氏でした。

調氏は黒木助能(くろきすけよし)が初代。
その哀しい物語がこども向けに綴られたものがありまして、二度目の星野来訪取材でコピーさせてもらってきました。
らんちゃんと星野村教育委員会へ行ってきた日に。
それをここに引用しようかどうしようか悩むところですが、検索しても、まるでひっかからない(検索の仕方が悪いのかな)、ならば、まるごと引かねばならないか。
なにか、だれかの役にたつように感じるから。

>「みずのと・う」は「きぼう」と音読みできますから、恣意的に「乙」を「癸」に書き換えたのではなかろうか。

「希望」という言葉は、もっと後世に登場した言葉であるような気がします。古典での登場例は?

ところで、癸(みづのと)は「水の弟」の意だそうです。乙(きのと)は「木の弟」

十干=「木・火・土・金・水」(五行)×「兄(え)・弟(と)」(陰陽)

「天文癸卯」(1543年)というのは、アメリカの1492年と同じくらい重要な年でした。西洋人の「日本発見」の年。
「天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』」(『鉄炮記』)

 ポルトガルに行ったら、ポルトガル人の日本来航は1542年と書いてある記念碑のようなものがあって、どうやらヨーロッパでは1542年説がまかり通っているらしいけど、詳細は不明。ただ『鉄炮記』の記述が正しいかどうかという問題もあるらしいです。ちなみにこれも「げな」話だからあてになりませんが、スペインの教科書にはフランシスコ=ザビエルの「日本発見」と書いてある(あった)とか。別に「発見」されんでっちゃ、あたしたちゃ昔から住んどっとたい。
 干支(えと)というと十二支のことと思う人がほとんどだけど、正確には十干十二支のことなんですね、で、この組み合わせが60種類、だから満60歳になると生まれた時の干支になる=還暦、でも昔は数え年だったから、還暦は61歳だったのだろうか、と疑問に思う今日この頃、みなさんお元気にお過ごしでしょうか(これは昔、オールナイト・ニッポンでカメがよく言ってたギャグ)。

ここのところを読み返して、たぶん、これ、まだしらべさんを知る前にかいたものだとおもうのですが、ちゃんとしらべ姓が黒木姓とつながっていることをしらべていたんだね。へえ。偉いね、自分。

えと、の「え」は兄のえ、「と」は弟のと、これは干支を習った吉野裕子の本に書かれていた、えとの基本中のきほんです。笑
おつしろうをわらってしまった。だけど、干支ってどんなに習っても、どうしても昔の人とおなじ無意識の地平には立てない。えっこんなこともあったの。とあとからあとからぼろぼろでてきて。
いま、現代のじぶんたちのまとっている衣装、時空間の感覚と方角の感覚、すべて昔の人とことなっている。意識しないでそれが身についていた人たちとぴったり気持ちをあわせることなどできない。それが残念でざんねんでたまらない。
あれ。なにがいいたかったのかな。そーだ。
きぼう、たしかに私も同じように思いました。
でも、あとの時代にできたことばとしても、みずのとう、は、とても希望と似てる大吉のえとであって、いちばんいいってかかれていたほどですから。

鉄砲記、引用ありがとう。
黒船よりだいぶ前に一大船舶がきたのですね。
それには、異種のひとびとが「船客百余人」
もいたんだろうか?かささぎのこれまでの鉄砲伝来のイメージは、南蛮人が数人きて、鉄砲をうりつけていく。ってそんなかんじのものでした。
くつがえってしまいました。黒船をみてたまがる竜馬さんを思い出した。それよりもっともっと恐ろしかったんじゃろうねえ。
ちなみに、こうなります。整理してみました。

だいたいこんな。
黒木助能と小侍従の黒木猫尾城の築城年代は文治年間、1182〜1189。
歌人の小侍従は1121年~不明。
後鳥羽院は治承四〜延応一(1180〜1239)生きた。
天文百首和歌天文24年なら1555年。
高良山十景歌たぶん1670年代?これ、てきとうです。かささぎをしんじてはいけません。日付くらい入っていそうなのにねえ。
寂源。もと寂源は山城国上賀茂の祠官藤木敦直の男で、寛文九年(紀元二三二九年座主となって下向した人であったが元禄元年帰郷の後、京都上賀茂の西、鷹か峰に閑居し同九年十二月二十三日、六十七歳で入寂した。(高良山物語より。)とあるので、寛文九年は1669年、この年に久留米に下向したんだね。元禄元年は1688年。この年に帰った。たかが峰で没したのが1696年。とありますので、久留米にいたのは1669から1688までのえーと、19年間ぽっちですね。この間になしたことなんですね。

各務支考の名月はの句、元禄11年1698年です。

ろいりさん。
還暦でおもいだした、保健医療経営大学の英語の授業中、還暦を英語でってのがあって。しくすてぃいやあずおうるどか、しくすてぃわんかでもめました。むかしの辞書では61になっていたちゃんと。佐藤先生が、その辞書の奥付をごらんになって、おおこの編者の人はわたしの師だとつぶやかれました。
そこだけはちゃんと覚えてますが、かんじんの何がもんだいだったのかはきれいに忘れていますが。とほほ。

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コメント

1542年か43年かは定かにあらねど、種子島に漂着したのは中国の船で、そこに西洋式鉄砲を持ったポルトガル人が乗っていて、これが日本初の鉄砲伝来、と言われとりますが、専門家の世界では、すでに当時の日本人倭寇(ややこしい言い方だけど、この頃の「倭寇」は、日本人のみならず中国・朝鮮人、いや南蛮人までいた、いわば国境無視の貿易業兼海賊業者の群れ)は、中国経由の鉄砲を使っていたというのが定説。しかし中国製鉄砲は一般に広まらず、西洋式鉄砲が日本の戦国社会を大きく変えたということは否めないでしょう。ところで、なぜ「鉄炮」が「鉄砲」になったのか、このへんも色々あるけど、私も忘れた。

ああ、そうですね。
なぜ、火偏が石偏になったのですか。
火を包むほうがぴったりきますが。
それと、キリスト教伝来はいつですか。
鉄砲といっしょですか。
もっとずっと早くはなかったのですか。
筑後のあの人、えーと痩せ仏でもでてくる、橘むねしげじゃなくて、筑紫広門。どのくらいのクリスチャンだったのか、ごぞんじですか。おしえてください。

西洋人の日本発見は天文12年(1943)。
ユリウス暦もこの時に伝来。
キリスト教の日本伝来は天文18年(1549)
ローマ教皇庁が、黒い髪、黒い瞳のザビエルに白羽の矢を当て日本へ派遣した。

日本初のキリシタン大名は大村純忠(バルトロメオ)。1563年に洗礼。
大友宗麟(ドン・フランシスコ)は1578年に洗礼。
信長の後に織田家当主を継いだ信長の一番下の弟の茶人、織田有楽斎(ジョアン)、
信長の孫、織田秀則(パウロ)、
毛利元就の子で筑後国久留米城主の毛利秀包(シマオ)
など、キーパーソンが続々と洗礼していた時代。

広門が入信したいきさつ(瘠せ仏の写真付き)
   ↓

どうもありがとう。おつしろうさん。
そんな理由でしたか。
戦乱のためにやむなく・・・という感じですね。
痩せ仏はよみました。痩せ仏を読んではじめて福島城の城主がクリスチャンだったこと、夢庵と号して晩年は茫々とすごしたことを知りました。あまり資料がないので、きいてみたかった。
痩せ仏、数年前一人で見に行きましたよ。
野田黒棒店の裏あたりの小高いとこにあります。
小さな像ですが、大事に祀られています。

「医療・介護制度 政権交代」で検索して、今日かささぎブログへおいで頂いた方をたどっていたら、ここへ出ました。http://lohasmedical.jp/news/2010/02/11222227.php
(こちらのサイトは、「政権交代と医療(38)」です)
下にはりつけたのは、三田評論の咸臨丸のこと。
この文章のなかに、『江戸切絵図京橋南築地鉄炮洲絵図』というのがでてきます。丁度ですよね。

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