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2010年3月18日 (木)

高良山十景歌 6-3へ進む前に、整理。

先へいこうと思いますが、その前に、先日来ちょっと気になっていることを整理しておきます。

1「祓戸」ということば。

花山院のところで引用した資料にでました。
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-933e.html
奈良県立図書情報館の頁から拾ってきた春日祭のときの、絵のついた史料で、神道行事をつぎのお世話係がとまどわずに済むよう、絵をかいて参考としたもの、とあります。

解題まで引用してもよいとの許可を館の学芸員の方に得ましたので、それをここにとりあげます。

解題

春日祭は春日社大宮社の例祭で、春2月と冬11月の上の申の日をもって祭日と定められていたので「申祭」とも呼ばれる。春日祭は勅使(江戸以前は上卿)参向の官祭で、3月13日に定められたのは明治19年(1886)の旧儀再興からである。本図は、貞享元年(1684)11月10日の春日祭の祓戸座并着到殿図で、この時の上卿(行事上卿)は内大臣右大将の花山院定誠であった。当日、上卿が到着すると祓戸社で「祓戸の儀」を、着到殿で「着到の儀」が行われ、本殿に参向する。祓戸社には、御供があり、「祝師座」「上卿」「弁」の着座位置と着座経路が描かれている。着到殿内の図にも「上卿」「弁」「外記」「史」の座席位置と着座経路(朱線)で示されている。筆録者は「左官掌紀氏辰誌之」と見え、春日祭での「上卿」以下太政官の職員の作法の備忘用に作成したものであろう。

現在の春日祭についての執筆:落合偉洲(ヤフー百科辞典より)

3月13日に行われる奈良市春日大社例祭。「かすがまつり」、申祭(さるまつり)ともいう。仁明(にんみょう)天皇の850年(嘉祥3)に始まったといわれ、清和(せいわ)天皇の859年(貞観1)11月9日の庚申(こうしん)の夜執行されて以来、春2月、冬11月の上の申(さる)の日を祭日と定められたため、申祭の名がある。明治以降3月13日となり現在に至っている。神宝奉奠(ほうてん)、稲垣の懸税(かけぢから)をはじめ、着到の儀、御棚(おたな)奉奠、饗饌(きょうせん)、和舞(やまとまい)、見参、賜(しろく)、拝舞などが行われるが、神饌の御棚は勅使自らの手により奉奠される。神饌は『延喜式(えんぎしき)』にみえるそのままが現在も供えられている。また和舞は大和(やまと)地方の風俗舞で、古くより春日祭に奏されてきたことが『貞観儀式(じょうがんぎしき)』などによりうかがわれる。

http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%98%A5%E6%97%A5%E7%A5%AD/(下線部をクリックされたいときはここへ)

かささぎがこの「高良山十景歌」について知っていることといえば、寂源という上方から来た僧(能書家でうたもよくした、松尾芭蕉の『幻住庵の記』にも言及があるが、庵の号を書いた人。父上は賀茂神社のなにかだった人で、流派を掲げるほどの能書家。高良山に二十年ほど暮らし、晩年は帰省、鷹が峰に没す)が当代きっての歌人であった公卿たちに書いてもらったものだということだけです。それも上方にいつ出向いてかいてもらったのか、それとも久留米にきてもらったのか、などはまだ何も知りません。そもそも、なんのための歌なのかもまだよくわからないのですが、目下、漠然とおもうのは、高良山の名所(などころ)を称えるために公卿たちに協力をあおいだものだというようなかんじです。
久留米にはこの歌についての詳細な研究書があるのかもしれませんが、残念ながら、まだ一書も目を通しておりません。
だから、自分の間違いだらけの読みでも、ともかくなんとか読みたい一心。

宗教心をしりたいのですよ。

かささぎは去年十二月はじめ、星野黒木谷の農道の落慶式に参列しました。
それは種類は違っても、神事でしたので、上記にかかれていた一式の祭事をみることができた。
おたなほうてん。たなになったところに、季節の自然の恵みを奉納します。
さすがに舞はありませんでしたが、たしかに神撰の御棚は勅使自らの手により奉奠されました。

さて。
高良山は神功皇后がいた跡地だという認識があった当時の公卿。
花山院さだのぶ(定誠)は春日祭の行事上卿だったということです。
リーダー、というような意味で行事をとりしきる捌ですね。

で、かささぎが気になったのは、「はらいど」ということば。

すぐ、連句的に連想したのは、おおはらえのことば。いわゆる祝詞です。

はらいどにます、はらいどぬしという神。
いぶきどにます、いぶきどぬしという神。

たしか、こんなんがあったなあ。とおもって。
それで検索をしましたが、大祓にでてくるのは、息吹戸主のことばだけ。
えー。それではなんで祓戸主なんてことばを覚えていたんだろう。
わからず、しかし妙にきになり、しらべてみた。あまりヒットしない。
出口おにざぶろうの霊界物語にはでてくるようです。祓戸主。

ひとつ、つけておきます。http://jinja-hyogo.jp/pub/search/result.php?id=72

スサノヲ神社がでましたよ。
さ。それで、つながってきますね。
神功との輪です。

三池の高田行宮(あんぐう。かりの宮)から矢部川をこえて、八女はどこらを通って藤山をこえ浮羽へいかれたのだろうか。
というのを、きのう、来院してくださったえめさんとかささぎは話し合ったのです。

歴木という地名が大牟田にはありますね。くぬぎ、といいます。
それ、このような景行天皇(神功皇后)にちなむはなしがあったのですね。

http://www.geocities.jp/ojyaru_24/kona.html

古代の川がどんなにおそろしいものであったのかを、あんまりリアルには想像できません。どなたか、ここをみたら、いいよ。ってのがありましたら、おしえてください。



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コメント

こんにちは 昨日はお世話になりました。 先生に治療していただくと、夫は急に視力が回復するようです☆

↑このURLは昨日見てました。以前も見たことがあるかな。。
昨日はおっとが車の鍵を持って出たので、することもなく地図とPCと空想で遊んでいました。
こんな時間もなかなかいいものです。
三潴あたりから地図を見ると、吉野ヶ里がとても近いですね☆

えめさん、きのうはどうも。
みずまは、ほんとうに水沼だったのでしょうね。

えめさんもぼんも、こんどみえたら、施療台の下のカーペットが水溜り大に破れているのを見て。利き目の方にどうしても重心がかかる、と先生はおっしゃっています。それで自然とそうなるそうです。
かささぎは滅多に人を大きいとは思わないのですが、先生は大きいなあ。とおもう。

大牟田から瀬高、高田ときて矢部川をわたり、・・・と、どこらへんをわたったか。むかしの船着場。
それから福島のなかを通ってどの道へでたろう。
わからないですが、納楚を通り、豊福を通って、藤山へ出て、そこから高良山、浮羽。だろうか。

こんばんわ
高田~清水のふもと道~坂田~唐尾~・・昔、唐尾の矢部川に船着場か遊覧船があったと記憶するけど、そのあたりは昔から船の係留に向く場所やったかも。
そこを渡り・・ひめさんの町まで今2ルート浮かんでいます(^_-)-☆
ひめさんの町の片っ方の神社には景行天皇を祀った祠があったような気がするけど~・・。

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