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2010年2月12日 (金)

芭蕉の幻住庵記に登場する御井寺ー筑紫と筑後と筑波談義

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-47b3.html#comment-62765095
「黒木氏文書にみる小侍従のこと」へのコメントから。
あらたな展開がありました。ご紹介します。
コメント

読むだけで頭が変になりそう。
よくぞ打ち込んだり。

大学が瀬高の庄のそばに出来たのも何かの縁かも。

訪れてびっくり。すごいですね。
今週時間をとって過去分含めてじっくり見てみます。今後小まめに来ます>反省。

藤原徳大寺家は元々黒木荘一帯の管轄者です。(昔は有力公家さんが荘園の管轄をしてた)
助能の家と実定の家は縁あって助能の何代か前から昵懇の間柄とされており、瀬高の庄の紛争解決(源平)として入荘とされています。(諸説は色々)後の後鳥羽帝と助能の宮廷での最初の執り成しを行ったのも実定のようです。
保元の乱は助能が黒木にくる頃の都で起こる表向き天皇と上皇の対立です。よって政治的拮抗に公家と武士も分かれ、その時代に登場人物の一人として頼政がおり、同時期小侍従の恋(系譜では待宵の母)があるとされているようです。

星野中務大輔胤実(星野氏の祖)は幼名を八郎丸と云い、母は待宵の子侍従、京都樋口小路の生まれであるとされています。助能が京から黒木に帰る時には天皇の御子が腹にいて身重のため、その身を小侍従の親戚の樋口次郎太郎実安に預け、助能が帰った数ヶ月後に男の子が産まれそれが胤実であるとされています。その後に小侍従は胤実を京に残し筑後の助能の元に下り、幼少の胤実は後に母親を慕い星野荘に赴くとされています。

朝 パソコンが重く作動不能になりぬ
いかにせんとて
クリーンアップをばいたさんとす
入れるのみにて出を怠りたる日ごろの報いなり

ブログ読ませていただいてありがとうございます。よいお年を。

希望文書を読み直していましたら、これが出ました。途中で放り出したままです。まだ半分以上も残っている、黒木氏系図の文書。漢文をきれいな読み下し文にして、打ち直したいものだと思い、その依頼をどなたかにせねばと思っているところです。もしや、黒木氏側にはそういうものがあるのでしょうか?もしこれを読まれた方でご存知の方がございましたら、かささぎめにぜひ、教えてくださいませ。ここにうちこみます。きっちり資料として保存いたします。バラバラに存在するものを、ひとつにまとめたいのです。きっとすごい史料になるとおもいます。

芭蕉の『幻住庵記』に、こういうくだりがある。
「筑紫高良山の僧正(そうじょう)は、 加茂の甲斐何がしが厳子(げんし)にて、このたび洛(らく)にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、幻住庵の三字を送らるる。やがて草庵の記念となしぬ。」
かささぎはこれの筑紫の一字がずうっと気になっていて、筑後のまちがいじゃないのかと。この時代、江戸中期ですが、高良さんは筑紫だったのかなあ。
八女に寿陵を築いたいわいは筑紫の磐井ですし。
ほれ。歴史の先生のろいりさん。なんかいうてください。
それとね。えらいことになってきた。
ここ、この月光院、かささぎはすぐ近くまで行っていたってことに、ここのサイトを今しらべて気づきましたよ。前の会社のボスを、わけあって説得に行ったとき、ボスのうちはすぐここの近くなのでした。こんなところにお寺がある、古そうだな。とちらっと眼をやり、あれは何ですかとボスに尋ねましたら、とっても古くて有名なお寺だと教えてくれて。だけどいそがしくて、それっきりでした。
連句の芭蕉の発句おこしので、ここを詠ませてもらいました。
奥の細道の次に有名な文章にでてるお寺だし、たぶん芭蕉の句碑があるだろうとおもって、秋の月の座に、

いざよひの月光院の翁の碑   恭子

で、検索してみたら。
芭蕉の句碑はなさそうなんです。
勝手なイメージ句をだしてしまった。今からでも遅くないです。
久留米の歴史的な財産ですので、たてましょうよ。句碑。苦笑
ああ。はなしがあっちいき、こっちいきして、もうしわけないです。
あたしがいいたいのは、つまり、九体皇子がここにでている!

http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/kurume/kobayasi/engi/engi.html

げんじゅうあんのきにばしょうがかいているこうらさんのそうは、字がとってもうまかったので、庵号をかいてもらったのですね。その僧がいたという御井寺。

http://snkcda.cool.ne.jp/tanbou/kurume/kobayasi/tera2/tera2.html

そして、これが『幻住庵記』です。↓
なぜか、こういう歴史上、文学上の大切なことが、うもれています。
http://www.intweb.co.jp/basyou/kty/genjyuan.htm

 筑紫国が8C初期頃?分かれて筑前と筑後になったのだから、「筑紫国高良山」でもよかとです。いわゆる「磐井の乱」は6C前期で、まだ分割前なので磐井一族の身分は「筑紫国造磐井君(イワイノキミ)」ということになっとります。また、筑後平野を回りの平野部と合わせて筑紫平野というのも同じ理由。
 ここで以前も話題になった、「筑紫」の読み方について。歴史本・地図帳などを見ると、フリガナはわれわれ筑後人の意向に反して?「つくし」となってます。で、こっから先は、私の単なる思いつきのトンデモ学説。現代の韓国・朝鮮語では「つ」の発音がない(例:トンカツ→トンカス)、もし古代朝鮮語もそうだったとすると、原日本系の地名としては「つくし」が先にあり、「ちくし」というのは朝鮮系渡来人による発音から始まったのでは?あるいは「ちくし」が先にあり、筑波(ツクバ)の影響を受けて「つくし」になった?筑波と言えば連歌も関係ある地名、興味がある方はお調べください。
 旧国名で「前・(中・)後」「上・下」がつくのは、1つの国が2~3に分かれたもので、吉備国→備前・備中・備後、総国→上総(→更に安房が独立)・下総などがその例。都から近い方が「前」や「上」、遠い方が「後」や「下」になりまする。ちなみに海上ルートを使うので、地図上では下にあっても千葉県南部が上総というわけでござんす、たぶん。

おお。ろいりーさん。
ありがとさんにござんす。さすがに歴史の先生でいらっしゃいます。とても勉強になります。
▼敷島の道と筑波の道
にひばりつくばをすぎて、いくよかねつる。やまとたけるが問うと、み火焚きのおきなこたえていわく、
かがなべて よにはここのよ ひにはとおかを。
この古事記にある話を連歌の起源としたので、連歌を古より筑波の道といった。
対して、敷島の道とは、同じく古事記、スサノヲの歌った、
八雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を
の倭歌(わか)からはじまったとされる。敷島の道、八雲道。あ。今連句的にひょっと思い出しました。
かささぎは小倉のミッションスクールに通ったのですが、そこで社会部の後輩に、しきさんという姓の人がいました。どんな字をかいたかなあ。思い出せない。磯城ではなかったような。志岐。そう、この字でした。ああ、そういえば、有名なかまぼこやさんが大川にありますね、とてもおいしい。長崎とか佐賀とか博多とか、とにかく島の人だったと記憶してますが。かお、こえ、先輩後輩、短大時代のことはくっきりと覚えています。もう二度とあうこともないとおもえば、ひたすらなつかしく。たのしかったんですよね、女ばかりっていうのは。
去年黒木での連句興行に、星野調一族のしらべさんがいらしたのですが、ご出身は九州ではなくて、筑波なのだそうです。ふしぎな縁でした。

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コメント

こんなところで、急に志岐さんのことを思い出してしまったのも何かのご縁かと、志岐氏を検索してみました。すると藤原氏。この家紋、どこかでみました。乙四郎、記憶にありませんか。瀬高のどこかの神社じゃなかったですか。
しきは、磯城だとおもう。しきしまのしき。

なるほど。とても勉強になります。ありがとうざいます。

そういえば、うろ覚えですが、実家近くの自転車範囲に万葉集で唄われたゆかりの池?だったかもありました。今度確認してみます。確か国香の屋敷跡の近くだったような・・・。

国香。へ。なにそれ。はじめてきいたよ。
国衙の字のまちがいじゃないのかって最初おもいました。でも検索したらすぐでました。この人ですね↓
いやあ、うたまるさんのおかげで、なんかつまんない歴史の授業が急に立体的になってきました。産休産休。

余談ですが、反対側にちゃりを走らせると、すぐ晴明の生家とやらがあります。。「ほき抄」。

 小さな字で書いてある部分で気になったこと。京都の三井寺というのは滋賀県三井寺(園城寺)のこととちゃいますか?最澄亡き後、天台宗が山門派と寺門派に分裂し、正式名称園城寺、別名三井寺が寺門派の総本山となりマッスルが、寺そのものの由来はもっと古く、筑後人としては残念ながら、文献史料的には久留米の御井寺のほうが後からできたのだと思います~少なくとも寺名は。で、国香とは?平国香のことですか?
 前回の旧国名について補足、1月末に千葉県館山のマラソン大会に出たのですが、館山と言えば『南総里見八犬伝』の地、でも国名では「南総」=上総ではなく、安房のはずなのにと走りながら抱いた疑問が解けた。安房国は上総国から分割・独立した国名だから、江戸時代には筑後国だった高良山を「筑紫国高良山」とも言ったように、安房里見氏を「南総里見」と言ってもいいわけか。ついでにも1つ、陸上ルートでは遠いはずの安房が、海上ルートだとむしろ都から近い、だから「総房」ではなく房総半島と言うのだな、と突然ひらめいたのが20年ぐらい前のことだったかな?
 話は飛んで飛んで…グルッと回らず、宿題の「男」「女」、「行」「来」の句についての質問。
①どうやって送ればいいのでしょうか?パソコン・メールはまだ復活できてませんか?携帯メールは打つのがホセ・メンドークサ。
②「お題」は漢字じゃなきゃいかんとでしょうか、それと当て字(例えば歌謡曲や博多銘菓にあるように、「女」と書いて「ひと」と読ませるとか)もありでしょうか。いや、ダメと言われてもそうしますが。

ろいりさん。いろいろとありがとうござる、書かれていることの半分もよくわかりません、捨て目をつかわせてもらいます。陸上より海上を通って都と行き来した、だから命名は海の道からみての近さ遠さであり、そっち系のなまえがついちょる。ってことですね。
ついでに、東京の三囲神社、みめぐりじんじゃのことも、関係ないかもしれんけど、いっしょにして考えてみたいので、くっつけた。七福神めぐりの一つに入っているようですね。三本足の鳥居があるのかな。
かささぎパソコンはまだ完全ではありません。パソコンメール、まだせいこさんからしか届いたという返信がない。プロトコルエラーがでて、相手のにはねかえされる。セキュリティに問題あり。らしく。迷惑メールが二十も三十もくるのはおそろしいことだけど、まったく何にもこないっていうのは、離れ小島にいるみたいですね。
アド身にスト麗と権限で新アカウントを作成し、それからソフトを入れなおしてください、と助言がでるので、それをためしました、だけど、それでも入らないのですよね。保存はできるのに、ひらけない。
大きな組織は、困ったときにものをたずねる方法が間接的でふくざつでいやになります。三ヶ月も何にもおかげをこうむっていない。もともとxpは入っているものがいろいろあったのになあ、。こうしちゃいられない。はよ、なんとかせんと、じかんがない。今日中になんとかする。おそれいります、ろいりさんのアドレス、コメントにはりつけてください。句はどうぞどうぞご自由に。一句にぜんぶいれたきゃそれでもかまいません。

あべのせいめい、出身地に三つの説があり、茨城説は・・・「ほき抄」その「由来」によると、常陸国筑波山麓の猫島、現在の茨城県真壁郡明野町猫島が晴明の生誕の地とされています。猫島の旧家である高松家の敷地には誕生に由来する晴明神社があります。また、高松家には宝永八年(1711年)頃にまとめられた「晴明伝記」が蔵されています。
と、でました。ねこじま。ねこがたくさんいたんだろか。はいはい。イメージ、あかるいのっぱらにねこのシマがあって、高松英郎みたいなおやじがはらまきぱっち姿ででてくるおやしきがあtって、そこのとなりがせいめいじんじゃ。ってかんじかいな。

高松英郎、なつかしくって、検索。
なくなったのですね、2007・2・26が命日。
なくなる前の日まで茨城県の鹿シマで仕事してた、とでます。ねこしまとしかしまかー。ふしぎだな。
謹んでご冥福をもうしあげます。↓

えらい早起きやね。
今日はお仕事ですか?
私も13時から仕事です。

 「鹿シマ」は「しかしま」じゃなく「鹿島=かしま」でしょうもん、鹿島アントラーズの。おっと、ぞうたんで書かしゃったつなら余計なお世話ですんまへん。茨城県の鹿島は市になる時「鹿島市」を名乗ろうとしたが、祐徳稲荷がある佐賀県鹿島市からクレームがついて、「鹿嶋市」になったんじゃなかったろうか。これはうろ覚え。
 茨城の鹿島は、もともと常陸国一之宮の鹿島神宮で有名なところで、それに面した海も鹿島灘というから、鹿島という地名そのものはこっちのほうが早かったかもしれんが、先に市名をつけたもん勝ち。だから東京の久留米は市制化されたとき東久留米市になりました~こっちはもともと久留米市のほうが由緒古いが。こういう例は多数あるけどあと省略。あ、茨城県は常陸国、こっから日立という地名が生まれ、日立という企業名ができたわけですね。
 その後水上ルートについて思いついたこと、7C頃までは八女が筑紫の中心だったかもしれないのに、そうでなくなったのは、これが原因ではないか?そして筑後川が流れる、今は久留米市の一部になってる合川や御井あたりに筑後国国衙(国府)が置かれるようになった。う~ん、また1つ勝手に自分の勉強になった。

一如(いちにょ)とは、絶対的に同一である真実の姿、という意味の仏教用語である。

一如上人こと、(高良大社のかそれとも御井寺のか)第五十世座主寂源について知りたく。
「もと寂源は山城国上賀茂の祠官藤木敦直の男で、寛文九年(紀元二三二九年座主となって下向した人であったが元禄元年帰郷の後、京都上賀茂の西、鷹か峰に閑居し同九年十二月二十三日、六十七歳で入寂した。」と↓のさいごにかかれています。
こうらさん十景詩歌は有名でかささぎのボスだった御井町の書家も書いたことがあるっていってました。調べていたら、ブリジストンの石橋さんの別荘で去年わが隊(交通誘導の部隊)は研修をやっていたんだなってことにきづきました。そうかそうか、あれは町内会の公民館とてっきり思い込んでいたのだけど、水明荘というりっぱな名前のある石橋家の別荘だったんだ・・・。古。

御井町誌1:http://snkcda.cool.ne.jp/miimachisi/1-3kourasan.html

それで、なんで江戸時代の郷土の俳諧関連の資料からふっつり切れてしまったのだろう?とおもいめぐらすうちに、それは古賀の音彦さんのせいではなく(苦笑すみません)、ただ、ハイジンがたいまんだった。ってことだと思い至りました。調べようともしなかったので。ぼちぼち今度から気合いれてしらべます。

ろいり先生へ。
この文中の、京師とあるのは、京都に師でもいるのですか。けいしとよみますか、きょうし?
それから、寛文九年かっこがきの年号は紀元は二千六百年の例のあれですよね。これ、いつごろまでこういういいかたをしたのだろう。いまもいっているひと、いるかな。

こんばんは。かささぎさん。するどい。鹿島の由来は「神聖なしかのしま」と聞いた事があります。そして猫島の読みは「ねこしま」。大昔は関東のこのあたり一帯、現在の霞ヶ浦から島が点在する大きな湖が広がっていたと聞いてます。なので昔の人はわざわざ筑波山ルートを通っていたと聞きましたよ。鹿島は神聖な鹿から「もののけ姫」の鹿を連想させますね。猫は・・ちょっと聞いてません。。想像もできません。。昔はカブトムシが良く取れた。。

八女と同じく平成の大合併で筑西市(ちくせいし)となりました。一時下妻もつくば市とくっつくとかいう話もあり(残りました)、昔の地名がどんどん表から消えて住民にはあまり受けは良くないようです。。
因みにこの筑は(ちく)と読みます。単に筑西(つくせい)じゃよみにくいだけか。。

うたまるさん。するどいんじゃなくて。
実はしかしまとほんとにそう読むと思った。かしまかい。かしまあんとらーず・・・かしまじんぐう。ありますね、たしかに。
上記コメント群をよんで。
東京の三囲神社のことまでひょっと三井寺、御井寺(どっちもみいでら、とよむ)の仲間にいれたのもまちがいじゃなかったのでは。とおもいました。
ろいりさんが書いてくださった、さいしょにあったものへの配慮からすこし次につけるときには名前をかえる、という視点で考えたら。
あたしは健吉と秀野の娘さん、山本安見子さんの書かれた随想を読んでいて、それに家族でよくいった三囲社のことがのっていて、よみかたはみめぐり神社ながら、みいでらとかとおなじ人脈だと思って。
筑波とかのことはまったくぞんじませんが、うたまるさんのはなしからみえるつくばは、地名がこっちとおなじだったりします。下妻。・・上妻もある?
古代は海がずいぶん内側にはいりこんでいて、今つながっている陸地はシマだったんだね。

上妻もありましたよ。もう昔に合併されてなくなりましたが。。

うたまるさん
久留米の高良山十景歌を調べ始めて確信しました
黒木物語は本当なんじゃないかとおもいます
少なくとも人脈に関してはありうることです
侍女がなんにん後追いしたかはしりませんけど


 「京師」は「けいし」ですが、これこれ、読み方と意味ぐらい自分で調べんね。「京都」のことを「京師」と言うたつたい、永谷園のふりかけのカード集めてもらった広重の『東海道五十三次』でも、日本橋を出発して終着地は「京師」と書いてあった、とえらそうに言いながら、私もそれしか知らんやった。そこで国語辞典調べてみたら、「都、日本では京都のこと」ぐらいしか載っとらん。更にしぶとく、ここ数年間使ってない日中辞典を調べたら「都・首都」を意味する古語「京城」の書面語だとさ。しかしこれでもまだ、なぜ「師」なのかがわからん、気になる、というのでついにネットで調べたら、「デジタル大辞泉」というので次のような解説がありました。

けい‐し【京師】 《「京」は大、「師」は衆で、多くの人たちの集まる所の意》みやこ。帝都。

 なるへそ、また1つ賢くなってしまった。「筑」を「つく」と読んだり「ちく」と読んだりするのは、日本の東西文化が混じり合ったせいではないでしょうか。

 あ、もう1つ、日本紀元を使い始めたにはほとんど明治維新後の「紀元節」制定以降で、しかもより一般的になったのはいわゆる軍国主義時代以降のこと、よほどの尊皇論的知識人以外は、その年のことを元号か干支で言ってたと思います。神武紀元はいつ頃までこういう言い方をしたかよりも、いつ頃から(意図的に)こういう言い方をし始めたかの方が問題だと思う。熱狂的右翼の方々と一部の神社は今でも使っているでしょうが、この神武紀元はいわゆる讖緯(しんい)説≒辛酉革命説に基づくもので、厩戸王=聖徳太子時代に始まったらしい。本居宣長の嫌った「漢心」の一種です。あ、そういや数日前が「紀元節」でしたね。

検索サイト Yahoo  検索ワード 猫島 祐徳稲荷

3位

何が知りたいのか知りたいなあ

ここも。

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