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2010年2月13日 (土)

寂源僧正の「高良山十景歌」その1 

1竹楼の春望     妙法院宮二品親王尭恕*

竹楼百尺青穹に傍う 萬里の山川目力窮す 
柳色淡濃花遠近 一望處として春風ならざるはなし
▼勝手にかささぎよみ:
ちくろうひゃくせきせいきゅうにそう 
ばんりのやまかわもくりききゅうす
りゅうしょくあわくこくはなおちこち
いちぼうしょとしてしゅんぷうならざるはなし

*みょうほういんのみやにほんしんのうぎょうじょ
後水尾天皇の第十皇子。幼称照宮、諱は完敏、字を体素・逸堂と号す。天台座主に三度補され二品に叙せられる。辞して後は妙法院内の鉄龍庵に退隠し、獅子吼院と称した。詩・俳句・挿花・書画を能くし、漢詩集『逸堂集』や『僧伝排韻』等の編著がある。元禄8年(1695)薨去、56才。

楼の上は春こそことにくれ竹の
よのつねならず霞むうみ山     近衛左大臣基熙*
▼かささぎ勝手よみ
ろうのへははるこそことにくれたけの
よのつねならずかすむうみやま

*この
えさだいじんもとひろ
江戸中期の公卿。関白左大臣近衛尚嗣の子、家熙の父。幼名は多治丸、一字名は悠・菊、号は応円満院禅閣、法名は悠山。右・左大臣を経て関白・太政大臣に至る。黄檗隠元・高泉に帰依する。書画・和歌を能くし、有職故実に精通した。享保7年(1722)歿、75才。

竹を葺く小楼半穹に聳ゆ 短簷景を聚めて興窮り無し  
春来添へ得たり六宜の外 万里の山川柳の風     源寂*

▼かささぎ勝手よみ
たけをふくしょうろうはんきゅうにそびゆ
たんえんけいをあつめてきょうきわまりなし
しゅんらいそへえたりりくぎのそと
ばんりのやまかわやなぎのかぜ

永き日も 詠(なが)めにあかず くれ竹の 
よにたぐひなき 楼のをちこち    同上

* 源寂  げんじゃく。寂源(じゃくげん)。
寂源その1:960/965‐1024
平安時代中期の僧。
天徳4/康保(こうほう)2年生まれ。源雅信(まさのぶ)の子。母は藤原穆子(ぼくし)。

寂源その2:『高良山物語』より以下引用文。
第五十世座主寂源は一如と号し、又不濡山人とも称した御井寺中興の名僧である。
書を加茂家の筆意に学び、詩歌の道にも堪能で又理財の道にも長じて居た。
「高良山神社佛閣記」を初め多くの著書があり、又神籠石の保存を計った事もあり、現御井寺本堂前の「蓮台院」、宮陣村国分寺本堂前なる「国分寺」等の扁額を初め各所に其の筆跡が残って居る。高良山杉の基を初めた事は前述の通りであり、愛宕社を隈山より現位置に移し、又山中の廃寺極楽寺を起こして則心(厨家の出、後年は毘沙門谷に草案を結び四十五年間の仙適生活をなす)をして住せしめしなど、高良山在住十九年間語るべき多くを残して居る。
寂源は又高良山の名称にして其の名の天下に聞こえないのを嘆き、附近の名所十箇所を選んで高良山十景と称し、京師に上って禁裡に奏し、親王門主公家雅客にして詩歌に名ある二十名に請い、一詩一歌の自筆吟詠を集め巻帙と為して藩主の覧に供したが、藩主も大いに感観の末、錦繍の表装を加えて一帳となし是を神府に納めた。

寂源その3:岩波文庫『芭蕉七部集』所収『猿蓑』ー幻住庵記より引用。
筑紫高良山の僧正*は、加茂の甲斐なにがしが厳子(げんし)にて、此たび洛にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞(こふ)。いとやすやすと筆を染て、幻住庵の三字を送らる。頓(やが)て草庵の記念(かたみ)となしぬ。(文章:芭蕉翁)
*同書脚注に、
久留米市御井寺(月光院)の寂源一如上人。賀茂祠官藤木甲斐守敦直の次男。
大師流の書家。ある人は、北向雲竹か。ともある。(脚注は編者の中村俊定)

*

北向雲竹 きたむき うんちく 江戸前・中期の書家。京都生。姓は初め林氏。野田氏とも。名は観・正実・忍、別号に渓翁・太虚庵等、通称は八郎右衛門。書を藤木敦直・春深房道朝に学び大師流をよくし、特に細楷書に巧みであった。また、篆刻・和歌・俳諧を得意とした。弟子に松尾芭蕉がいる。元禄16年(1703)歿、72才。

http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_number.php?number=6144
ということで、2と3とは時代が重なるので同一の僧です。
しかも、しかも。芭蕉の書いているのと思文閣のサイトとをあわせ読むと、寂源僧正は、大師流の書家藤木敦直の次男であり、父の敦直は賀茂神社の祠官だった、というようになりますね。ここで賀茂神社とつながるとは思わなかった。麻場利華さんへもおしえてあげなきゃね。去年、「初がらす」でトラックバックしたんだった。あれは上賀茂神社だったかな。

下賀茂神社でありました!「初からす」
http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-1e67.html

日本の書流:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%9B%B8%E6%B5%81(この中にある大師流すなわち加茂流です。大師とは弘法大師です。
かささぎも仁和寺に参拝したおり、つまり宇多野療養所跡を尋ねていったときに、弘法大師の真筆を拝観したことを忘れません。達筆というのは失礼に感じる、とてもきっちりとした整ったゆるぎのない字でありました。まるで、そこに弘法大師が立っていらっしゃるような。)

2吉見の満花       転法輪大納言実通*

一嶽峻崢として九天に聳ゆ 桜花四に発して更に嬋娟 
径に芳野を移して春色を添う 
圧倒す崋山玉井の蓮

▼かささぎ勝手よみ
いちごくしゅんじょうとしてくてんにそびゆ
おうかしいにはっしてさらにせんけん
みちによしのをうつしてしゅんしょくをそう
あっとうすかざんたまいのれん

崋山:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%B1%B1
似ている漢詩:http://kansi.sankouan.sub.jp/?eid=946560

*りんぽうてんだいなごんさねみち
輪法転とは:http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syotenborin.htm
この人がだれか、かささぎにはわかりません。

ひょっとしたら、この人かも。
三条 実通

藤原氏のなかからひろってきました。
とくだいじ家かもと最初は思いました。かなり近いのでは。
参照:http://www.geocities.jp/okugesan_com/sanjyo.htm

あかず見むよしみが嶽の花盛り 
わきてことなる春の色香を     今出川内大臣公規

いまでがわないだいじんきんのり。右大臣。
父は
徳大寺公信、母は吉川広正の娘、今出川家15代当主。今出川経季の養子。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%87%BA%E5%B7%9D%E5%85%AC%E8%A6%8F

最も愛す吉峯三月の天 山桜笑を含んで玉嬋娟
吾盧今衆香界に接す 転た憶ふ遠公の白蓮を結ぶことを
  源寂

▼かささぎ勝手よみ
もっともあいすきっぽうさんがつのてん
やまざくらえみをふくんでぎょくせんけん
わがろいましゅこうかいにせっす
うたたおもふをんこうのびゃくれんをむすぶことを


衆香界:http://home.h03.itscom.net/sennin/pekin/pekoaluba12.html
同上(維摩経巻下):http://www.geocities.jp/tubamedou/Yuima/Yuima03a.htm 
遠公:たぶんこの人かと思うのですが、・・・http://www.geocities.jp/a375v/Tsuchiya-shi/jinja_tera/tutiya-boti-hi.html(苦笑。まさかね。)
そうではなくて、
遠公=慧遠(ゑをん)中国の僧でしょう。
http://www.weblio.jp/content/%E6%85%A7%E9%81%A0
わがろというのが、よくわかりませんが、ここに似たのがあります。
http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/TOHO2.html

咲花の よしみがたけや 三芳野の 
春におとらぬ さかりみすらむ    
源寂
 

 3御手洗の蛍      柳原大納言資行*

玉垂在昔斯水に臨む 神芳を流す橋上の名 
御手洗の餘滴散るかと疑う 光を擬し
矜り照して宵行を作す

▼勝手にかささぎよみくだし
たまたれはむかしみずにのぞみてあり
かみのあと よしをながす きょうじょうのな
みたらいのよてきちるかとうたがう
ひかりをぎしほこりてらしてしょうぎょうをなす

宵行とはなにか?わからない。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006184706
たぶん、みそぎ。とか読経とかの宵の行かな。

*やなぎはらだいなごんすけゆき
藤原氏柳原家
14代・資行(すけゆき)
茂光の子 母は正室園基任の娘
生没・元和6年(1620)~延宝7年(1679)
従一位権大納言
正室・園基音の娘
子女・15代方光 資廉 誠光(
三室戸家家祖)

(つづく。)

お断り:
テキスト、原本をよんだことがなく、以下のサイトを参照とします。
この二つは厳密にいうと、ことなる部分がございます。
適宜、勘案しながらすすめたいとおもいます。
かささぎは別段専門に古典を学んだことはない、ただの一文芸の徒ですので、おかしいところも多々あるかと思いますが、これはへんだぞと思われますときは、その場合は、どうぞご遠慮なくご意見をびしばしおよせください。
1『高良山物語』

倉富了一著

その30http://snkcda.cool.ne.jp/kourataisya/30jakugen.html

2『高良山十景』http://snkcda.cool.ne.jp/kourasan/siika.htm
(どなたのサイトか全くぞんじあげません。断りもなく引用させていただきますことをあつく御礼もうしあげます。)

今日ここまで読んで、もっとも困ってしまったのは、この座での捌といってもよい役割の、高良山の座主、寂源の名が、倉富了一著のほうでは、寂源となっていますのに対し、どなたの筆かぞんじませんが、後者の『高良山十景』では、源寂と、逆になっています。
原文を拝見したらいっぺんでどちらが正解か、わかるのですが。

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コメント

とりあえず、さしせまってしりたいこと。
1高良山座主なのか御井寺座主なのかよくわからない。御井寺の場所、いまの位置にかわったのは。
2その名僧のほんとの名前とサイン。みなもとのじゃく、かもしれんでしょう。へんだけど。そう思うのは、八女の今伊勢宮に伝わる天文年間の百首和歌のサインもみなもとのかんじゅつだったからです。源鑑述。ひょっとして、こういう歌のもよおしをするときには、源氏を名乗るならわしがあったかもしれない。ともおもって。ふと。
3いつのはなしだろうか。年号の記載がないので、わかりません。
4高良山で興行したのではないようです。どんなふうにしてあつめたのかをしりたい。えらいひとたちの原稿。っていうか、うたですけど。
5どこにあるのでしょう?高良山のてっぺんのおくら?みせてはくれないんだろうねえ。
文化財保護って、いやらしいんだよ。ガラスケースの中にいれて、みせてくれるのは外側チラリ、決して中をみせてはくれない、さわらせてもくれない。
どっかの姉ちゃんみたいだね、映画館のコメントおじさん。

 久しぶりの3本立てですいませんが、「高良山座主」という言い方はどうも気になる。いくら神仏習合の時代とはいえ、高良山は高良大社を意味し、すなわち神道だから、仏教でよほどの大寺院の最高職にしか与えられなかった「座主」という敬称が、高良山に使われるのはもちろん、御井寺に使われるのもおかしな気がする。勝手に自称したのなら別だが。最も、高い官職を時の権力者が乱発したケースは鎌倉時代以降多いから、それかも。それでも、高良大社の神官には与えられないはず。
 本文をちゃんと読んでないからわかりまへんが、ひょっとしたら本来の座主という意味ではなく、「座」の主催者という意味かも、と、今勝手に思いついた。

ふうん。ろいりさんは高校の歴史の先生ですので、アカデミックな教育をちゃんと受けておられます。それはかささぎみたいなあんぽんたんから見たら、常識にしばられているあわれなお方じゃ脳。ってことになるのでありますが、こういう場合はそれが役にたちますね。
ざすとは、ぼうずの最高位なんだ。そうかそうか。
あのですね、漢詩のよみくだしで、まったくわけわからんところを自分勝手にさもなにもかもわかったかのようなかおで、しれ~っとかいてしまったんですがね。それは、①目力のところ。これ、めぢからとよまずして、なんとよもうぞ!
竹楼百尺青穹に傍う 萬里の山川目力窮す 
柳色淡濃花遠近 一望處として春風ならざるはなし
ばんりのさんせんもくりききゅうす。・・へんじゃろう。
でも、めぢからきゅうす。だと笑いがとまらん。
意味は、わかる。だいたいのところこう。

城は高々と青穹にそびえる
万里につづく山川を見晴るかすことはできぬ
やなぎの翠はこくあわく、花も遠くちかくに咲き誇る
一望すれば春風にあわざる処なし

いいうたではあるけど、どことなく、いや、完全に大陸風。もろ中国ですよね。なーにが万里の山川じゃろう。ちまちまとたしかにひくくそびえて壁のように続いてはいますけども。水縄山。耳納山脈。

その②みたらいのほたるの詩で、
玉垂在昔斯水に臨む 神迹芳を流す橋上の名 

これですがな。よめますかな?、え。
たまたる、たまたれ。どっちよ。どっちでもよかとする。たまたれ、あり、むかし、かく、またはこの、その、みずにのぞむ。つぎが問題。しんじゅつほうをながす、きょうじょうのみょう。なんじゃらほい。っす。
しんじゅつほうとは。かみさまのいたあとに葦を流すんでしょうか?それとも、神仏希釈、なんか字がちがいますね。廃仏毀釈。いいやいや、そうではなくて、垂迹。すいじゃくです。神仏垂迹説ですね。
九体皇子も、それをさしていってるみたいでしたし。

ことばの難解さは、当時の文化人(第一級の)が信仰していた流行のファッションとしての仏教のかたちからきているのだろう。時代ははっきりとはわかりませんが、十七世紀です。芭蕉と同世代。天文和歌から百年後、庄屋の人柱とはひよっとすると、かさなる。

ろいりさんへ。
気にしておられるところを確認しました。
1「筑紫高良山の僧正は」・・・これが芭蕉の表現。
2「高良山座主の最後は五十九代厨亮俊である」・・・これは「御井町誌1」からみくりや氏についてかかれたくだりです。やはり、座主。はじめからきちんとひっぱりますと、
「高良山の厨家は、御井町の歴史と共に歩んできた旧家で、初代は座主四十二代の良胤権僧正(天文十年八月寂・一五四一)の弟、良笄権律師である。二代目良運権律師は、座主四十三代鎮興の娘を妻とし、府中の内二十町を領した。五代良春(正徳二年・十月二十二日没・一七一二)の時、初めて厨姓をとなえ、厨彦右衛門と称した。」
3「第50世座主寂源は一如と号し、又不濡山人とも称した御井寺中興の名僧である。」これは高良山物語も、高良山十景もおんなじです。

 あのね、あたしゃアカデミックな教育を受ける機会がありながらそれをサボって、映画見たりギター弾いたりしよったとですよ。親の仕送り受けながら、ほんなこつ情けなか。当時は勉強できても(したくても)、経済的事情で大学どころか高校さえ行けない人がいた時代なのに申し訳ない気もするし。「孝行をしたい時に親はなし」とならずに済んだのがせめてもの救い。むしろ仕事に就いてからのほうが、自分でいろんなことを勉強するようになった。これは役得?
 で、高良山座主の件ですが、「座」の主催者説は取り消し。根拠の薄い思いつきの説はいかん、と森浩一先生も言うてはった。やはり神仏習合で、比叡山延暦寺と日吉神社(大社)の関係や、興福寺と春日神社(大社)との関係のようなものが、高良大社と近くの寺院(それが御井寺?)の間にもあったのではないでしょうか。平安初期以降、寺に山号をつける習慣ができて、その寺のことを高良山○○寺とか言ってたのかも知れん。それが明治元年の神仏分離令で強制的に失わされたとか…このへんは地元の郷土史家が詳しいでしょう。
 ちなみに昔ある本で、郷土史の世界と俳句の世界は、地元に熱烈な愛好者の組織があるという点で共通性がある、というのを読んだことがあるのを、今思い出しました。

呂伊利さん

諏訪中に「御厨先生」という美術の先生がおられたのはご存知ですか?
その先生が実家の隣に引っ越して来られて、ご健在です。関係がおありなんですかね。

それ、それですよ、聞きたいと思ったのは。
厨一字でなんとよむのでしょう。
それは「くりや」がただしいんですけど、だけど、なぜか、かささぎは「みくりや」とよむんじゃないかとおもったものですから。
御厨姓はみくりやですよね。
でも、厨一字のみくりやもあるんじゃなかろうか。
くるめ人じゃないので、なんとよむのかしりたい。

それとつけたし。
ろいりさんのおっしゃる、連綿とつづく組織としての俳句、それ、いまもあるのかなあ・・・。少なくとも、ちょうどたずねてくださった柳澤様にきかれた乙骨家の歴史を重ねてかささぎがおもうことは、たびたび消えかかるということです。まったくきえてしまったら、さがしだすのにものすごい手間がかかります。
江戸時代に芭蕉(のお弟子)からともされた灯が九州にもきてるのですが、その尻尾をつかむことがまだできていません。少しみえてはいるのですが・・・

 「みくりや」先生、直接教わったことはないけど、名字とおぼろげながらのご尊顔は記憶に残ってました。それで、早速諏訪中の卒業アルバム見ると(これが誤字脱字だらけというしろもの)、私が卒業した1968年3月にはまだ御在籍だったんですね。当たり前か、ぼんさんが知ってるのだから。確か当時、「チャボ」というあだ名の先生が2人いて、そのうちの1人だった、そんなつまらないことしか覚えてません。美術の先生だったのですか、私は酒見と、もう1人、イズミ先生(男性)だったかな?うちは3姉弟とも2~3年間隔で諏訪中卒業なので、1人ぐらいはお世話になってるかも。
  「厨」の読みはやはり「くりや」みたいですね。へ~、台所という意味なのか、しかしこれが「厨子」となると、とたんに意味が変わる。なんでじゃろ?

こんばんわ。
高良山ですね。。。神社ははるか古代からみたいですが、鎌倉よりかなり前から高良山は、神杜よりも神宮寺として勢いがあったみたいです。平家物語とかでも分かるとおり九州(高良山)の盲僧琵琶は有名。(天台宗の仏教儀式)そういえば黒木物語もでしたね。。代々その当主の血族は座主として君臨していて戦国時代は武装もしたあげく滅亡。。その後、比叡山から来るようになったみたいです。比叡山ものぶながさんにやられましたね。
時代背景はともかく、九州地域の情報管理者として機能していたような感じです。ですのでかささぎさんが思われるとおり黒木物語につながるものもあるかと思います。

ちなみに「高良山高隆寺」です。

ん?よく読むと何か本題からずれてましたね。。すみません。。

「玉垂」とは玉垂命(たまたれのみこと)のことではないでしょうか?九州王朝の話にかけてるんですかね?。

あくまで素人のイメージです。
その昔、玉垂命がいたとされる地(川)において倭迹迹日百襲姫神を感じさせる流れの橋上の名前・・・。ん?橋上の名はどこだ?橋の上に何か名前でもあったんでしょうか?ここだけイメージがわきません。

 いやいやうたまるさん、本題からずれてるかどうかはわからんけど、少なくとも私の疑問はかなり解明してくれました。かつて高良山高隆寺という神宮寺(神仏習合の一形態)があり、九州における3大天台宗寺院だった。座主とは一般的に天台座主を意味することから考えると、高良山座主という言い方も納得、文献史料としての信頼度さから、むしろ高隆寺が玉垂宮という神社を支配していたらしいです。
 この高隆寺は戦国の争乱に巻き込まれて消滅し、座主も一時中断、その後復活し、やはり神仏分離令の影響で廃止されたらしい。
 以下は↓に詳しく書いてあります。

さがしました。
ありました。
柳原姓のお歌。

3御手洗の蛍      柳原大納言資行*

玉垂在昔斯水に臨む 神迹芳を流す橋上の名 
御手洗の餘滴散るかと疑う 光を擬し矜り照して宵行を作す

藤三嬢でトウサンジョウ。
藤原氏の三女という意味か。
そのむこうをはって、やぶ家の三女秀野を、藪三嬢と呼んでいたのは、石橋さだきち。山本健吉。

悲田院をつくったのが、藤三嬢、光明皇后。
古典ははるかに遠く、ちょこっとずつかじるには、永遠をもってしても果てしがない。だから、ぶつかり次第にメモっていくしかない。
白蓮さん、この家のひとなのかしらねえ。

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