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2010年2月21日 (日)

しまった、ここに黒木氏がでてくるのよ!

苦笑。一番だいじなことを書き漏らしました。

これです。みてください。

善光寺文書の「命長の君」

 このように、多利思北孤こそ「君が代」の「君」の第一候補であることに、わたしも異論はないのだが、もう一人の人物も“有力候補”と見なしたいのである。それは、多利思北孤の息子、利歌弥多弗利である。
 会報十五号(一九九六年八月)の拙稿「法隆寺の中の九州年号--聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎」において、『善光寺縁起集註』に見える聖徳太子からの手紙とされる文書に「命長七年丙子」という九州年号があることを紹介した。そして、命長七年(六四六)という年次などから考えて、この手紙は聖徳太子ではなく、九州王朝の高位の人物が善光寺如に宛てた手紙であるとした。その文章は次の通りだ。

           御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
  命長七年丙子二月十三日
  進上 本師如来寶前
          斑鳩厩戸勝鬘 上


 この「命長」文書こそ、法興三二年(六二二)に没した多利思北孤の次代にあたる利歌弥多弗利のものと考えたのであるが、その内容は死期せまる利歌弥多弗利が、「我が済度を助けたまえ」という、いわば願文であり、ここにも「病状とみに悪化」「命、旦夕」のもう一人の倭王の姿を見るのである。おそらく、利歌弥多弗利は永く病に臥してしたのではあるまいか。なぜなら、「命長」という九州年号に、時の天子の病気平癒の願いが込められている、と見るのは考えすぎであろうか。

以上、引用はここ:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou34/koga34.html

古田武彦氏は『失われた九州王朝』において、邪馬壹国の卑弥呼壱與と倭の五王(讃・珍・済・興・武)との間に在位した九州王朝の王の一人として、石上神社(奈良県天理市)に伝わる七支刀銘文中に見える「倭王旨」を指摘された(旨は中国風一字名称)。七支刀の銘文によれば、この刀は泰和四年(東晋の年号、西暦三六九年)に造られ、百済王から倭王旨に贈られたものだ。そうすると、先に報告した玉垂命(初代)が水沼に都を置いた年(仁徳五七年・西暦三六九年)と七支刀が造られた年が一致し、その倭王旨は初代玉垂命と同一人物ということになるのだ。従って百済は九州王朝の遷都(恐らく博多湾から水沼へ)を祝って七支刀を贈ったのではあるまいか。
以上、引用はここ:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga25.html

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コメント

げげっ、水沼が出てきた。
玉垂命も大善寺だよね。
知らんぷり、知らんぷり。

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