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2010年2月21日 (日)

高良山十景歌  あなたはだれ?

かささぎメールですが、コメント欄にメルアドを記入していただいて、送信してくだされば、ちゃんと返信できるとおもいます。外からはコメント者のメルアドは見えませんので、ご安心ください。

完全初期化されたかささぎパソコンは予期せぬ苦難に陥っています。
三年分前払いしてしまったウイルス除去ソフトがインストールできないまま。
なんでだと係りの人にチャットで尋ねると、「アド身にスト霊たー権限で新規アカウントを得てそれでやってみてください」っていうので、別にアカウントを作成してやってみたけど、これもだめでした。時間ばかりとられて精神によくありません。

さて、途中で放っていることがいくつかありますが、決して投げ出しているわけではないのです。あたためている。
気になることから、出します。

 3御手洗の蛍      柳原大納言資行*

玉垂在昔斯水に臨む 神芳を流す橋上の名 
御手洗の餘滴散るかと疑う 光を擬し
矜り照して宵行を作す

▼勝手にかささぎよみくだし
たまたれはむかしみずにのぞみてあり
かみのあと よしをながす(又は、しんじゅつほうをながす)、 きょうじょうのな
みたらいのよてきちるかとうたがう
ひかりをぎしほこりてらしてしょうぎょうをなす

この漢詩の中の「斯水」と「神芳」が気になって仕方ありませんでした。

おととい書いた山本健吉と石橋秀野との結びつきとをしげしげと思っているとき、秀野の生家があった地付近の「聖徳太子の中つ道」ということばがふとこころにわいてきました。
秀野をおもうとき、わたしの胸にきまってわいてくるのは、ワンダリングジュウであり、古代部族ということばであり、・・・ま、そこへ入っていくと収拾がつかなくなるのでやめることにして。

これをみてください。(※下線部をクリックしても何もでません。)

「聖徳太子は、父が橘豊日命(たちばなノとよひノみこと、第29代欽明天皇の第4皇子、母は蘇我稲目の娘・堅塩姫)、母が穴穂部間人皇女(あなほべノはしひとノひめみこ、欽明天皇の皇女、母は蘇我稲目の娘・小姉君)、曾祖父が継体天皇と蘇我稲目で、

 574年(敏達3年)正月元旦第2皇子(母の第1皇子)として、祖父・欽明天皇の別宮、橘の宮(高市郡明日香村の橘寺、太子建立七大寺の1つ、本尊は太子35歳の摂政像)で生まれたが、その前年、母の夢の中に優しい顔をした金色の僧が現れ「私はこの世を救うために人間として生まれるから、貴女のお腹を貸して欲しい」と言い、皇女が「貴方は誰」と尋ねると、僧は「私は西方に住む救世菩薩」と答え、それから間もなく、母が懐妊し、庭を散歩している時、厩(うまや)の辺りで急に産気付き、太子が生れたので、名を厩戸豊聡耳皇子(うまやどノとよとみみノみこ)と称しました。

扶桑略記(ふそうりゃっき)によると、太子は中国南北時代の高僧南岳(なんがく)大師の生まれ変わりで、南岳大師は慧思禅師(えしぜんし)とも言い、既に中国で晋(しん)、宗(そう)、斉(さい)、梁(りょう)、陳(ちん)、周(しゅう)の各六代に渡って生まれ変わり、いずれの代においても中国の五大名山(東岳泰山、西岳崋山、北岳恒山、中岳嵩山)の1つ南岳衡山(こうざん)に登り、法華三昧の修行をしました。」

以上、引用はここ:http://urano.org/kankou/topics/taishi/index.html
(ありがとうございました。)

これはキリスト伝説の焼き直しですよね。
さて、これをあたまにおきながら、つぎへいきます。

「初代玉 垂命には九人の皇子がいたことは前号にて報告したが、次男朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、長男の斯礼賀志命は朝廷に臣として仕えたとされているのだが、その朝廷が太宰府なのかどうか、今一つ判らなかった。それがようやく判明した。高良大社発行『高良玉 垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」
 玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔が、三瀦の大善寺玉垂宮大祝職であった隈氏ということであれば、斯礼賀志命が行った朝廷とは当時の王都、三瀦だったのだ。すなわち、長男は都の三瀦で政治を行い、次男の家系は上宮(高良山)で神事を司ったのではあるまいか。」

以上、引用はここ:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou26/koga26.html
(古賀の達也さん、ありがとうございました。)

ぴんとこなきゃいけない。もう一度、やなぎはらだいなごんすけゆきの漢詩。

3御手洗の蛍      柳原大納言資行*

玉垂在昔斯水に臨む 神芳を流す橋上の名 
御手洗の餘滴散るかと疑う 光を擬し
矜り照して宵行を作す

▼勝手にかささぎよみくだし
たまたれはむかしみずにのぞみてあり
かみのあと よしをながす きょうじょうのな
みたらいのよてきちるかとうたがう
ひかりをぎしほこりてらしてしょうぎょうをなす

玉垂命の長男、斯礼賀志命の末裔がミヌマの王だった、そしてそこが九州王朝の都であった、と古賀の達也さんはここに書いておられる。

斯礼賀志命。たまたまなんだろうか。

瓦斯とかいて何とよむ?答え、ガス。
かささぎはここで、れぎおん時代初期にやった一人遊びをふと思い出す。
ガスの生活史と銘打ってミニ統計をとったのである。
れぎおん同人てのは全国にちらばっていて、ちょうど人数も把握しやすい。
その人たちへ、ガスが入ったのはいつでしたか。昔の火の記憶を書き残してください。
とさまざまな項目をたてて、アンケート、その結果を集計してれぎおん誌上で発表させてもらうというような興行をやらせていただいたことがあります。
もちろん、ただではない。回答お礼に八女茶の600円の煎茶(これがおいしいのです)を一本つけて。火からみたら、現在という時代はまだたいした進歩のある時代でもない。
前時代の記憶がのこっているうちに、と思ったからやったんですが。

そもそも、秀野の句、昭和16年、

青嵐ベンチレーター軋み鳴る  石橋秀野

ここから、おもいついた。換気扇があったモダンな家に住んでたんだ。
戦前なのに。モガですからね、秀野さんは。たばこはすうわ、おとことはりあうわ。
でも、やっぱりむかしのおんなだった、ちゃんと健吉の世話とやすみさんの世話をして、そのために自分のからだをこわして、死んでしまった。

あら。はなしがあちこち連句的にとんですんません。

もとにもどしますね。

あれ~?

なにが言いたかったのか、わからなくなってしまいました。

お。思い出した。これですがな。つぎにこれ。

「名太子為利歌弥多弗利」は、「太子を名づけて利と為す。歌弥多弗(カミタフ)の利なり。」と訓む。「利」は仏教的一字名称、「カミタフ」は「上塔」。現在の九州大学の地に「上塔ノ本」「下塔ノ本」(字地名)がある。イ妥国からの国書の主署名が「多利思北孤」、副署名が「(第一行)歌弥多弗利(第二行やや下に)利」と書かれていたものであろう。「利」は“衆生利益”の意。「多利思北孤」の第二字にも、現れている。
 すなわち、彼等(王と太子)は、「和風称号」(多利思北孤)と「一字名称」(利)とを交て用いている。「一字名称」は、当然「倭の五王」以来の伝統の継承である。(注2)

 7. 「阿蘇山有り。火起りて天に接す、云々」は、当然、九州第一の名山の表現である。大和三山や三輪山ではない。また中国人には珍しい「内海」である瀬戸内海の風物も、一切記されていない。

 8. 以上は、従来すでにくりかえしのべてきたところだ。新たに見出された、次の点をのべよう。
 
 「東高く、西下り、邪靡堆(やひたい)に都す。」
 
 従来は(たとえば、岩波文庫)、これを「やまたい」と訓んできた。「靡」を「摩」の“あやまり”と見なしてきたのである。
 しかし、これは、実はありえない。なぜなら隋書国伝は「都斯麻」(対馬)「一支」(壱岐)「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)を厳密に表記している。その上、「靡」には「ひ」の音しかない。その「音」を指示すべき?音標文字?として加えられているもの、それが「麻」の下の「非」なのである。ことさら「ひ」の音であることを、明示しているのだ。それを「摩のあやまり」と称するなど、あまりにも法外な「原文改定の手法」だ。わたしには、全く同じえない。それゆえ、これは「やひたい」と訓まねばならぬ。「都」の地に対する、「現地音の表記」なのである。 「やひ」は「八日」。“八つの太陽”の意。「堆(たい)」は、湿地帯に土埋めした領域を指す。(古田『失われた日本』原書房刊、参照)
 多利思北孤は、みずからを「阿毎(あま)」(天)と称し、弟を(日)と呼んだ、という。(イ妥国伝。)従来は、この「弟」を“一人”と「断定」的に考えてきていたけれど、この「弟」は複数存在しうる。八人の弟、つまり「八日」だ。た。「天(あま)である中心王者のもと、「日(ひ)」である、八人の弟たちがこれを支えるところ。」
 この意味をこめた「自称」、それがこの「やひたい」だったのではないか。この「仮説」が、今やわたしの眼に映じてきたのである。すなわち「九躰の皇子」伝説に立つ、歴史に由緒(ゆかり)深き「自称」だったのではあるまいか。とすれば、有名な 「日出ずる処の天子」の名文句も、実は“八つの太陽を出だすところ(「八日堆」)に都する「天(あま)の子」(天神<あまつかみ>の子孫)”を誇示していた「自称」だったこととなろう。----これが新たな「仮説」だ。そしてこの「古系図」理解の柱なのである。同時に、筑紫(筑前と筑後)を中心に、九州の中に数多く分布する「九躰の皇子」伝説に対応する「歴史認識」となるのではあるまいか。」

以上、引用はここ:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou35/furuta35.html
(古賀の達也さん、ありがとうございました。)

せいこさんおつしろうぼんろいりさんひこさんその他おのおの方。
これよんで、むちゃくちゃ繋がってると思いませんか。

ああ!

よばれている、ひっぱられている!!

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コメント

「邪靡堆(やひたい)に都す。」
 これ、たしかにやまたいではないですね。
摩と靡とでははっきり異なるもの。書いている人はちゃんと意識して書いていると思います。
靡く、なびく靡くという字、せいこがみやまの興行で出した「さしまねく日々」のさしまねく、って字、ほんとは下が非ではなくて毛です。れぎおんではそのまま、なびくってルビがうたれています。下に毛がくる麾くはさしまねくとよみますよね。おおともしのきかに入る。とかいうときの麾下の字です。旗の下にさしまねくというような意味があり、旗下とも書くようです。誤植があったことさえ、なにかを強くうったえてきます。
また、「竹斯」(筑紫)というように、現地名(筑紫は現地名では「ちくし」)・・・隋書国伝の表記とあります。つくしとはいってないんですね、むかしから。
ちくし。なんですよねえ。

ここをよんだとき、なんだか鳥肌がたちました。

今日、ここへおいでくださった方、ありがとうございます。おかげで、山形の伊那谷にも筑紫神社があり、高良玉垂宮を祭ってあることを知りました。(↓)
つぎに何をすべきか、わかります。
わかりますが、今気持ち的に時間がとれない。

今日、ある人に、こうていえきをおいかけるのをやめたら。という助言をいただきました。かささぎの体力、それと心とが、負荷にたえられないのではと心配して下ってのことです。
ありがたいとおもいました。が、しかし、性格がこうなっていては・・・。

それがです。
記憶では、調うたまるさんは九男坊だとか。
これもすごいことだとおもいます。
この説を補強するためにふと思いつき、かいてみました。
もう一つついでに、
そういえば、かささぎの旗の家の兵隊おっちゃんは、この家に来る前、九郎丸という姓でした。
関係ないといえば関係ない、連句的といえばれんくてき。

関係ないででしょうが、小郡の近くに五郎丸と言う地名があるよね。
鰺坂の叔母は普通に「ごろまる」と言ってました。

へえ、ろっごろ橋みたいですね。

鯵坂とはとても情緒ある地名で、なにかよみたくなります

振売のばあがゆくなり鯵坂の坂

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