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2010年2月21日 (日)

古賀の達也さんのお話から「九州古代王朝」筑紫から筑後への遷宮のくだり

九州王朝の筑後遷宮

  古賀達也

 九州王朝とは、志賀島の金印を貰った委奴
(いど)国王、邪馬壱国(やまいち 注1)の女王卑弥呼、中国南朝に朝貢した倭の五王、筑紫の君岩井、日出ずる処の天子として国書を隋に出した阿毎多利思北孤(あめたりしほこ)、白村江戦で敗れ唐の捕虜となった筑紫の君薩夜麻と、弥生時代から七世紀末まで連綿と続いた日本列島を代表する倭王の王朝である。
その主たる都は太宰府だ。太宰府とは本来、中国の天子の直轄行政府のことであるが、その太宰府が九州島(福岡県太宰府市)にあることこそ、この九州島に天子が居た証拠でもある。また、太宰府都府楼跡には「紫宸殿」「大裏(内裏)」など、天子の居所を意味する字地名が現存する(注2)
 ところが四世紀から五世紀にかけて、九州王朝(倭国)は高句麗、新羅と交戦状態に入り、糸島・博多湾岸まで戦火は広がった。こうした異国からの攻撃の伝承が北部九州の寺社縁起などにも頻出するが、この時期、九州王朝はより安全な筑後地方へ遷宮したようである。筑後川を天然の大濠としたのだ。装飾壁画古墳が筑後川以南の水縄連山や阿蘇外輪山に現れるのも、この筑後遷宮の時期に一致しているようである。また、三瀦の大善寺には「天皇屋敷」という屋敷があったことが『太宰管内志』に紹介されているし、九州王朝の末裔とされる稲員家系図(高良玉垂命の子孫)には、「○○天皇」「○○天子」といった名称が見える。さらに、久留米市山川町には高良玉垂命の九人の子供が「九躰皇子」という尊称で祀られている。これらは、九州王朝筑後遷宮説の傍証ともいえる史料である。
 万葉集にも次の歌が見え、三瀦に都が置かれたことを示しているようである。

「おおきみは 神にしませば 水鳥のすだく水沼を皇都となしつ」
     『万葉集』巻十九 四二六一
             作者不明

引用はここです。:http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou44/koga44.html

ちなみに、かささぎの最初の連句での師、札幌の長靴をはいた長髪の俳諧師、窪田薫(故人)先生は、熱心な古田武彦信者で、かささぎと最初にであった俳句ざうるすで、ご自分の著書をほぼすべてかささぎに送ってくださったのも、いまにしておもえば、かささぎが筑後は八女の出身だったからだと思うものです。つがるさんぐんしにはまってありましたなあ。
ところで、作者不明となっている万葉集のうたのほとんどが、九州古代王朝にかかわる作品らしいです。

やはり、わくわくしてくるこころをおさえることができません。

血であり地です。

身体(みぬち)からこみあげて来る春疾風  姫野恭子

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コメント

筑紫王朝

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検索サイト Google  検索ワード 九州王朝 大善寺 祭神 縁起 古田

でみえてまして

安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きです、さらに家康の外交顧問もしていました。スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。
古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。これが戦国時代直後までの古代史の認識で、倭国年号が522年善記から大宝まで記載され其の後に慶雲以後の大倭年号が続きます。明治以後にはこの歴史認識は失われてしまったようです。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません。ついでに 倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 続日本紀記載の720年「日本紀」は普通古代史専門家はこれを「日本書紀」と読み替える前提ですが、理由無く読み替えられない、別物という論証がされています。
宜しくお願いします。

いしやまさん、コメントありがとうございます。
石山さんは☟の写真の不動岩をご存知ですか。
ここ、あそこじゃないのかな。
かささぎの旗が年に一度は必ず行く、あいら観音さんへの途中の道中左側にみえる岩。
すみません。まったく関係ないことを唐突に。
今思い出したのですが、あそこにはアイラトビカズラという日本でここにしかない植物があります。そしてそれは中国にあるんです。
四川省内江市のニュース記事では老媧藤という名前らしい。ちょうど今年、その花が咲いているときに行き合わせることができ、ブログ記事にもできました。もしかしたら、何かのえにしがあるのやもしれません。

歴史をじっさいにわかる、というのは、自分が物心ついてからの年間くらいが関の山だと思います。
いまさっき調べた赤穂浪士の物語の寺坂吉右衛門の墓にしても、全国に散らばっていることがそのまま、彼の影をとどめていて、情報伝達の及んだあかしとなっているのがわかります。

にほんだいぶんてん【日本大文典】

原題は《Arte da lingoa de Iapam》。イエズス会宣教師ロドリゲスJoão Rodriguez著。3巻1冊。1604‐08年(慶長9‐13)長崎学林刊。オックスフォード大学およびクロフォード家蔵。のちの《日本小文典》(1620)に対して《大文典》という。当時の標準的口語を中心にして,文書語,書簡語,方言などにもおよび,ラテン文法によりつつも,できるだけ日本語の特性に即して詳述している。

ジョアン・ツズ・ロドリゲス (またはロドリーゲス、ポルトガル語: João “Tçuzu” Rodrigues、中国語: 陸若漢、1561年(1562年)? – 1633年8月1日)は、ポルトガル人のイエズス会士でカトリック教会司祭。同名の司祭(ジョアン・ジラン・ロドリゲス João “Girão” Rodrigues, 1559年-1629年)と区別してツズ(通事の意)と呼ばれた。

ポルトガル北部のセルナンセーリェ (Sernancelhe) に生まれ、少年のうちに日本に来て1580年イエズス会に入会、長じて日本語に長け、通訳にとどまらず会の会計責任者(プロクラドール)として生糸貿易に大きく関与し、権力者との折衝にもあたるほどの地位に上り詰めたが、後に陰謀に遭って1610年、マカオに追放された。マカオではおなじく追放されてきた日本人信者の司牧にあたったほか、マカオ市政にも携わり、明の朝廷にも派遣された。日本帰還を絶えず願うも叶わず、マカオに歿した。日本語や日本文化への才覚を以て文法教科書『日本語文典』、『日本語小文典』を著したほか、『日本教会史』の著者としても知られる。

はあ そうですか。その通りです、倭国の年号と大倭国につながるそれ以後の年号の話は、見事に出ていません。インターネットの限界です。掲載した人の思い通りの記事ですから、それを見た人はそのように思うのですね、誰が入れた記事でしょうか。日本大文典の実物でロドリゲスのすごさを感じていただきたいものです。家康や秀吉とも交流していた人です。よろしくお願いします。

>日本大文典の実物でロドリゲスのすごさを感じていただきたいものです。家康や秀吉とも交流していた人です。よろしくお願いします。

わらってしまいました。
すみません。こんなときに不謹慎ですね。

きのうも、忠臣蔵を調べていて、自分の知っているのは物語のそれで、史実としてのではない。というのがよくわかりました。

滞在時間 53秒 閲覧ページ数 3ページ 参照元 九州王朝

よまれていたのでよみました
いしやまさん
どなたかはぞんじませんが
ありがとうございました

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