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2010年1月20日 (水)

追悼 浅川マキ、ミッキー安川、談義

 "朝刊に連載の森浩一「倭人伝を読み直す」で…"というのは何新聞でしょうか、教えて下さい。 森浩一氏は、私が大学に入って最初の専門講座=基礎ゼミの担当者です。風貌や服装が用務員のおじさん風で、えっ、この人が大学教授とビックリ。そして最初に熱く語られたのが(当時発掘調査→壁画発見されたばかりの)高松塚古墳のことと、「高句麗好太王碑文改ざん説」を例にあげて、高校までで学んだ歴史の常識をそのまま信じては駄目だということでした。またその時が、考古学は体力的にしんどいからパスしようと思う、ダメな大学生活のスタート地点だった。
 その基礎ゼミに、何と八女の福島高校出身者が2人もいました(それで私はこの校名を初めて知った)!う~ん、講義とかは真面目に出ず、映画館などに入り浸っていた35年以上前のことだから名前は思い出せん。男女1人ずつで、女性のほうは名字が黒木さんやった。男の方はすでに彼女がいた(黒木さんとは別人、たぶん福岡県出身の人ではない)。福島高校卒業して一浪なら1971年、現役合格なら72年の卒業生です、心当たりある人いませんか?
 話題変わって、浅川マキさん亡くなってしまった、せめてもう1度ライブ聴きたかったのに。合掌!次の歌聴いて飲み明かしたいけど、そうもいかんな。↓
http://www.youtube.com/watch?v=fOP35aV0qFc赤い橋
http://www.youtube.com/watch?v=fOP35aV0qFcかもめ
「夜が明けたら」
http://www.youtube.com/watch?v=QU2eG1Zh6Hg&feature=related

投稿: ロイリー京一 | 2010年1月19日 (火) 21時46分

ふうん。炉入りー京一。渡辺京二の本なら二冊よんだ。
北一輝、もう一冊は逝きし世の面影。題がかっこよすぎ。
浅川マキ、一度もきいたことありません。ごめん。きっとえめさんやぼんが知っていそう。おらは高校時代、いったいなにをしていたんだべな。ぼさーっとしてた。恋に恋するってかんじでしたな。モンキーズとかクリフリチャードとか好きだったな。あれは何時代。
それにしても森浩一さんが先生だったなんて、すごいっすね。邪馬台国や古代史関連で一冊は持っていますこのかたの本。新聞連載は、これまでの邪馬台国の諸説のまとめみたいです。はじめて聞くことも、それから、えーここんとこ、ほんとはどうなってんの?ってとこもあります。おもしろいです。西日本新聞朝刊。こうてちょ。

黒木さんで思い出した。黒木氏の系図から引用途中でほっぽったまま、小侍従の歌。ごめんなさい。土人いわく、みたいな風に書かれているのがなんとも。土地の人ってちゃんとかいてよね。どじん。どじん・・伝説をつたえていったのは、土人。せめて土地の古老が。とかいてほしいよ。
ところで。森山さんですが。賀状にろいりーさんという人が森山さんと同窓であこがれていらしたようです。またオフ会をするときには森山さんもいらっしゃいませんか。と書いておったら、返信がきました。
きたいです。とかかれていました。笑。よかったですねろいりーさん。バイクで部屋の中までのりこんでくる人ではないとおもいます。十年前にあったとき、すでにそんなふうなけはけほどもみせないひとでしたよ。どっちかというとボノロンみたいな。故杉浦ひなこの元亭主みたいな。とてももの静かな人でした。

浅川マキさん。わたしたち世代ではあんまり聞いた人がいないのかも知れませんね。音楽にはめっぽう疎いうちのツレが、昨日の朝、新聞読みながらぽつり。ああ、淺川マキが死んだとやねえって。
五歳違いの彼らには、青春時代と重なるところの多いアーティストであったようです。

フォークルが駆け抜けたのが、この昭和43年でしたね。
たった一年のプロ活動で、この存在感は何なのでしょう。フォークルとしての最後の曲が、五木寛之が詞を提供した、青年は荒野をめざす、でしたね。解散後は、北山修がいい詞をいろんな歌手に提供してます。浅川マキの「赤い橋」、自分の前にしばしば現れた橋でした。
   ↓
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND28668/index.html

しかし、石橋貞吉と石橋秀野夫妻がナップを抜けたのは、第一子をなくしたからだとおもう。それはどこにもきちんと記されていないけど、俳句作品から察して昭和九年。全てをかけてというくらいに熱中しマルクス思想が、つき物がおちたみたいにつまんなくなる瞬間。

さくらさん。かどって角じゃなく庭っていみのですか?へえ。大江希望さんの書かれているのといっしょだ。きいてみるものですね。

   ↑
浅川マキ。

ミッキー安川も亡くなっちゃいましたね。

乙四郎、ありがとう。

秋出水草の茎みな赤きまゝ  秀野昭和13年

秀野ノートに、秀野と健吉の赤についての彷徨をどこかに書いていたと思い返し、さがしてみたら、最初のところにありました。句集の冒頭から二番目にこれがあった。で、かささぎが当時もっていた歳時記の例句に

秋出水乾かんとして花赤し   普羅

さいしょにふらの句があって、ひでの句はそれを下敷きにしている。とまず思った。でも、昭和九年ころにはもう左翼運動からはきれいさっぱり足を洗っている、健吉のものいいでは。でも、ひょっとしたら秀野はまだこころのどこかに赤い思想がふつふつとたぎっていたんじゃないか。この句はそんな句ですよね。
健吉はその後ずいぶん長生きをしたからこそ、大きな時代の目で、過去の若かりしころの気の迷いと断罪できる。でも、秀野は早く死んだので永遠にあの時代にとじこめられているから、相対化することなどできやしない。今の目で断じてはいけない。

ミッキー安川さんもなくなってしまいましたね。
若いころ、この人のはちゃめちゃな自伝を読んで、ファンというより強烈な個性の持ち主として、わたしの中に印象づけられ、それ以来気になる存在なのでした。アメリカへ留学中のエピソード、抱腹絶倒もの。文字にはできんけど。

>アメリカへ留学中のエピソード、抱腹絶倒もの。文字にはできんけど。
>鮮やかに記憶にあるのよ。
ホントに鮮やかな記憶です。たくさんの小学生のその後の生き方に影響を与えていることでしょう。

小学生向けの学習雑誌のくせに、こんな逸話が漫画で表現されていたりしました。鮮やかな記憶のひとつ。
   ↓

乙さんがおしえてくれた↑このシーンは鮮やかに覚えています。
ミッキー安川さんの話でしたか。
ずーっと手塚治さんの話だと思ってました。未来の機械を予想するところで、天気を地域ごとに自由に設定する機械の話がなかったですか?
美術の時間に未来を予想した絵を書かなければならなかったとき、何も浮かばなくて、これをぱくらせてもらいました。
ごちゃ混ぜになっている記憶です。

ああそれならきいたことある。ここからでたはなしだったのか。断片がとどくひろまるそれはぼんちのおばあちゃんのげなげなばなしでぼんがしゃべったはなしがめぐりめぐってすこうしかたちがかわってまたじぶんのところにもどってくるのとちいともかわらんのだろうね。笑

さすが、乙どの。
あれだけのコメントでようわかったねえ。
まさに笑劇的なシーンでして、
おばちゃんになったいまでも、あの絵柄さえ思い浮かべることができる。笑

小学生だったからこそ、鮮やかに記憶に残ってるのでもありましょう。

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コメント

>若いころ、この人のはちゃめちゃな自伝を読んで、

小学校時代、読みました。
歴史上の人物でもない人の自伝なんぞを、何故、小学生が読むかというと、学研の学習雑誌に漫画で連載されていたから。
ところで「学習」も「科学」もついに休刊ですね。

故人を調べていたら、すごい作業に出会いました。
   ↓

あ、それ、それ。
わたしも漫画で読んだよ。
学研の連載ものだったのか。
鮮やかに記憶にあるのよ。
たぶん小学高学年だったはず。

↑乙さんが教えてくれたページ。
すごいねえ、この人。執念の人だ。
まるで乙さんみたいだ。

 自分にしかわからん芸名つけてすんません。ロイリーは御存じのように私が(たぶん)生まれて初めて目にした映画館、そして「京一」は京一会館という、1970年代、京都(一乗寺)に唯一存在した名画座の名前、神代辰巳を代表とするロマンポルノ群も、健さん・緋牡丹お龍・文太兄貴も、小津安二郎・黒澤明らの名匠の作品群も、戦前のエノケン映画も、みんなここの4本立てで見ました。
 そこで突然思い出した、同じゼミにいた男子の方の名字は熊谷だった、と思う。いわゆる濃い感じの顔立ちで、一方女子の黒木さんは埴輪目の感じ、福島高出身のみなさんの1つか2つ先輩ですよ、と言ってもやはり、年が違って名字だけじゃわからんか。
 あれ?私がURL入れたのは「夜が明けたら」と「かもめ」のつもりだったけど、間違えたか?そして乙四郎さんの去年のコメント、そういや「赤い橋」もいいですね。北山修の作詞の中ではちょっと毛色が変わっていて、昔よくギター弾いて歌ってました。「かもめ」は寺山修司の作詞、カルメン・マキと浅川マキ、どちらも寺山修司がからんでいる。へ~、寺山修司と川上音二郎 の死んだ年齢は一緒か。川上音二郎については、自由民権運動家からオッペケペー節(演歌の元祖?)→壮士芝居→新派の元祖ということで昔けっこう調べました。
 次々と人が死んでいく、それは当然のことだけど、例えばそれが小林繁のように自分と同学年の人だと、またある意味ショック。そして小林繁と桑田真澄の父親の訃報が載っていた同じ新聞紙面には小さな記事で、おそらく(中年以上の)SFファンしか知らない作家・翻訳家の柴野拓美(小隅黎)氏の訃報も。日本で初めてのSF同人誌「宇宙塵」を創刊した人、大学時代にお話ししたこともあるけど、83歳、うちの親父と同い年だったのか。小松左京・筒井康隆といった、日本SF作家第一世代の育ての親みたいな人です。
 何だかいっぺんにいろいろ詰め込み過ぎたな、http://art-random.main.jp/samescale/に載ってる人たちのこともいろいろ感じ入ったことあるけど、またの機会に。おっと最後に森山さんのこと、あこがれてたというより、私らより全然違った大人だなとか、いわゆる芸術家タイプとはこういう人かと思ったのと、アングラという言葉のホントの意味を間接的に教えてくれたこと、私が好きだったバンドJACKS(早川義夫など)を評価してくれたことなどが印象に残ってます。直に話したことは1~2回しかないし、面と向かっても何話していいか…あの演劇で使ったオーディオ機器は私のやったつですよ、と、どーでもいいことしか言いきらんかもしれん。

子規は34歳、芭蕉は50歳。
あの人もこの人も年下だ~。

 あげん長か文載せたのに、連発ですんません。久留米ではもちろん郷土の新聞西日本です。商売柄、昔ゃフクニチ・スポーツも取ってたが、潰れた後は日刊スポーツ。
 モンキーズといえば、CMにも使われた忌野清志郎の「デイドリーム・ビリーバー」日本語版や、「モンキーズのテーマ」をパロった「ターマーズのテーマ」(♪タイマが大好き♪とは、何と過激な)を思い出し、クリフ・リチャードと言えば「ヤング・ワン」や「サマー・ホリデー」だが、ザ・ヒットパレードの影響で、つい日本語バージョンで口ずさんでしまう。

けさ、宇田零雨(健吉の慶応時代の学友で俳人、連句人。くさくきという結社をおこした。磯直道=連句協会会長にして零雨の甥にあたる人だったと記憶します。この方は父親が226事件当時の憲兵だったので、その目からみた事件を本になさっています。現くさくき主宰)と俳人の長谷川零余子とは師弟関係があるかどうかという師系調査をしていたとき、まったく関係ないつぎのような句にばったりであった。おや。寺山修司はこんなとこからひっぱっていたのか。

月にじっと顔照らされ月見る  荻原井泉水

母の蛍を捨てに行く顔照らされて  修司

井泉水は虚子や子規と同じ愛媛出身の碧梧桐の門下で自由律俳句をやった人。弟子には山頭火、尾崎放哉、橋本夢道などがいる。家は代々越後高田藩の御殿医だった。昭和51年93歳没。
以前、寺山修司の母が書いた『母の蛍』という本を読んで、たいそう感動したことがある。青森高校時代の作文(川柳人倉本朝世のブログに今もしまってもらっているのであれば、その文章のなかにかなり引用している、わたしの地の文との境目を限りなくぼかして)では、柳人よりずっと冴えた川柳批判をし、俳人よりずっと深いところで俳句の切れを論じているのが高校三年生のころ、それから自分の父を早くに亡くすにあたって、かなりの脚色を加えたふしがあること。年譜にさえも。人の語る父親の死の物語を、自分の父のものとしたふしがあること。これは、寺山の友人の詩人、嶋岡晨が随筆の中で暴露していたことでもある。
宇田零雨と長谷川零余子(俳号はれいよし、季語だとむかご)の関係はまだみえてこないが、零余子が長谷川かな女の夫だということを知った。そのかな女の一句を、ちょうど寺山修司が井泉水のさっきの句の一部分の引用でまったく別の句を編み出したようにして、かささぎはきのう、これは全く偶然だが、前田圭衛子先生が巻いておられる文音のなかで恋句として出し、先生からなんじゃこれは。といわれてしまった。
あ、かささぎは今、連句的なはなしをしています。

海苔を焼く指を見てゐて遂に泊る  かな女

この句は果たしてどういう句なんだろう。恋?
泊るが意味深で、恋句に思える句である。かささぎは恋句をださねばならなかったので、これを引用。

乳離れせぬ赤子を抱いて (前句)
善き人の声に従ひ遂に泊る     恭子

前田師の意見、海苔を焼く元句は堅実な生活感がにじみ出ています。質素で力強くさえある、そんな現実感。だから泊ったという措辞が生きるのですが、あなたのはなに。とこうおっしゃった。いやあ、面目ない。人妻の不倫をなんとかそれらしくなくごまかしつつ詠んでみたかったんです。失敗してますよ。そうですか。ってんで、これはさっぱりあきらめ、再度はじめによんでいた句に戻す。
はるけくも尋めゆき逢へず海の宿    恭子
尋めゆき、はとめゆき。山のあなたの空遠く、の詩に出てきます、ああわれ人ととめゆきてのあれです。
じゃそっちのほうで。ということになりました。
こういうとき、さすがにふしぎだな。とつくづく感じる。
ちょうど。ちょうどのタイミングなんですよね。長谷川零余子を調べた、その妻の句にぐうぜんであったのが、一日前だったということが。
これも私のひとりごとです。すみませんでした。

>アメリカへ留学中のエピソード、抱腹絶倒もの。文字にはできんけど。
>鮮やかに記憶にあるのよ。
ホントに鮮やかな記憶です。たくさんの小学生のその後の生き方に影響を与えていることでしょう。

小学生向けの学習雑誌のくせに、こんな逸話が漫画で表現されていたりしました。鮮やかな記憶のひとつ。
   ↓

乙さんがおしえてくれた↑このシーンは鮮やかに覚えています。
ミッキー安川さんの話でしたか。
ずーっと手塚治さんの話だと思ってました。未来の機械を予想するところで、天気を地域ごとに自由に設定する機械の話がなかったですか?
美術の時間に未来を予想した絵を書かなければならなかったとき、何も浮かばなくて、これをぱくらせてもらいました。
ごちゃ混ぜになっている記憶です。

ああそれならきいたことある。ここからでたはなしだったのか。断片がとどくひろまるそれはぼんちのおばあちゃんのげなげなばなしでぼんがしゃべったはなしがめぐりめぐってすこうしかたちがかわってまたじぶんのところにもどってくるのとちいともかわらんのだろうね。笑

さすが、乙どの。
あれだけのコメントでようわかったねえ。
まさに笑劇的なシーンでして、
おばちゃんになったいまでも、あの絵柄さえ思い浮かべることができる。笑

所y学生だったからこそ、鮮やかに記憶に残ってるのでもありましょう。

ここの本文に付け足し編集しました。
そらんさんがリンク記事を書いていたのを発見。
それも中ほどに付け足した。
かささぎはあんまり、っていうか全く知らんのですよね。すまんす。
森田童子をもっと十倍くらい暗めにしたかんじですね。
ろいりさん、ユーチューブはりつけのまちがいを訂正しました。すみませんでした。赤い川じゃなかった。

淺川マキ・・・やっぱり知りませんでした。
彦山は知っていましたが、死んだ事を知りませんでした。
昨日TVであってた松けんが出ていたハードロックの映画、ちらっとでてきたギターを見て、「あれはギブソンのなんとかかんとか・・・」   こういうのは良く知っていますね。得意分野が全然違う仮面夫婦です。

浅の字がちがってました。すみません。

ただいま
次男と平山温泉に行った
一時に出て3時半に帰宅
31でキャラメルリボンのアイス食べていい天気でしたね
ん とうもろこしの下がってる温泉風景
せいこさんblogでみたとこだった

エメさんブログやね。

ぼん。ほんとだ。せいこブログだとばっかり思い込んでいました。訂正ありがとう。知らないで行って、あれ?このとうもろこし、どっかで見た。と思った。
入り口にある上田屋に何回か行ったことがありましたが、ここは初めてでした。感想?上田のほうは客が少なくて、ひなびたかんじで、古くて、かささぎ向きですねえ。今でも忘れていないのは、お風呂の一箇所が欠けていた。そこのところ、また確かめにいきたい。深さも好きだし、熱めの湯加減もすきだ。普通の家っぽい。

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