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2010年1月25日 (月)

『特攻第一号のはずの久納中尉』  八女老連広報第42号より

特攻第一号のはずの久納中尉

    八女市山内  蒲池 孝

 昭和十九年十月二十一日、南の空で一人の若者が散った。
神風特別攻撃隊・久納中尉・二十四歳・特別攻撃隊第一号だったが、なぜか戦史に彼の名は無い。名古屋市の老人ホームで、残された老母が「息子の分も生きる」と、ひっそりと暮していた二十七年前の、あの日を回想している。
 第二次大戦の記録や、当時の軍関係者の話に依れば、特攻隊編成は昭和十九年十月十九日、その直後の二十一日、日本の基地だったフィリピン、セブ基地の米艦載機の空襲にあい、大打撃を受けた航空隊の隊員の中から、久納中尉等三機の戦斗機搭乗員に、特攻出撃命令が出された。
 『引揚げていく敵機を追え、必ず敵艦にたどりつくはずだ』
体当り戦法は、こうして行われた。
しかし、編隊は、途中スコールに巻きこまれ、バラバラになり、二機はセブ基地に戻って来たが、久納機だけは遂に帰投して来なかった。最後を見届けた者は誰れもいない。戦果も判らない。戦後、公表された米軍側の記録にも『十月二十一日、異常なし』とある。
 特攻第一号が世間に公表されたのは四日後の二十五日からだった。
 関行男大尉ら五人の特攻隊は、米空母などに損害を與(与)えた。当時の海軍省は同月二十八日、この五人の体当り戦果を、次のように発表した。
 海軍省公表(昭和十九年十月二十六日十五時)
 神風特別攻撃隊、敷島隊員に関し聯合艦隊、司令官は左の通り全軍に布告せり
      布告
 戦斗○○飛行分隊長、関行男外四名
 神風特別攻撃隊敷島隊員として、昭和十九年十月二十五日○○時、スルアン島の○○度○○浬に於いて、中型航空母艦四隻を旗艦とする敵艦隊の一群を捕捉するや、必死必中の体当たり攻撃を以って、航空母艦一隻撃沈、同一隻を炎上撃破、巡洋艦一隻轟沈の戦果を収め、悠久の大義に殉す、忠烈萬世に燃たり。

 仮て茲(ここ)に殊勲を認め全軍に布告す。

 久納中尉が『特攻第一号』と認められなかったかについては、戦後、関係者の間では、ひそかに論議された。
 先ず、久納中尉機の戦果と戦死を確認できなかった事と、それ迄大きな戦果をあげる迄、秘密にしておきたかったこと、久納中尉が予備学生の士官であった点を指摘する声があった。
 一方、関大尉は、海軍兵学校出身士官で、海軍エリート士官を第一号にしなければ、メンツが保てない理由ではないかと思われる。
 実は、私も久納中尉と同じ法政大学出身で、彼は十一期の飛行予備学生、私は十三期生で、終戦時は海軍中尉で、岡崎海軍航空隊編成の特攻隊の八機の指揮を命ぜられ、四十機と共に四国愛媛県西条特攻基地で出撃命令を待ちましたが八月十五日敗戦、出撃せず、八月二十一日、部下五人と共に復員した。

 2010『八女老連広報』第42号より全文引用しました。
八女老連広報は八女市老人クラブ連合会発行の年刊誌で毎年正月に配布されます。かささぎは数年前から必ず目を通す読者です。
戦記が毎年のります。今回もこのほかに、シベリア抑留の記と、『兄の遺していった一言』と題する記、(八女の文化会館で最近上映された「ラストゲーム・最後の早慶戦」という映画をみて、戦時中、出征の次兄が「あんしゃん、こんせんそうはまくるばん(兄ちゃんこの戦争は負けるよ)」という言葉を遺していったこと、それにこめられた思いを弟がはるかに思い出すというもの)がありました。

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コメント

「久納中尉」検索で一位です。

私の父は久納中尉の特攻機の整備担当で、S19年10月21日、中尉を送り出したと言っています。父は「戦果は無かったかもしれないが、間違いなく特攻一号だ、その場にいた人間が言うのだから間違いない。立派な人だった」といっております。

松さま、コメントどうもありがとうございました。
いまさらのように、転載したこの文章の筆者のお名前を見直しています。やまうちのかまちさん。いえ、まったく存じ上げませんが、山内にいとこがいますので、きけば何か教えてくれるかもしれません。そういえば、いとこの姑さんが93歳で、毎年この老連会報にエッセイを寄稿されるのです。あたまがしっかりしてあり、筆も達者、まだ引用していませんが、今年のも引用したいです。そのおばあちゃんなら、きっと昔のことをたくさんごぞんじでしょう。
かまちといえば、松田聖子ちゃんのおうちが蒲池姓でしたね。戦国時代の有名な武将の家です。きっとその流れのお方と思います。
ビートルズのジョンレノンの妻だった小野洋子さんも筑後の戦国武将の小野家の流れだそうですし。
あら、特攻隊から四方八方に話題をひろげまして、すみません。
松さんとなまえがありましたので。つい、連句的に書いてしまいました。

ところで、さいごに、あほなことをかいてもいいでしょうか。
わたしは、大石政則特攻兵の日記を読むまで、ゼロ戦には一人しか乗らないのだとばかり思っていました。ずうっと昔、こどものころ、まんがには一人でゼロ戦にのって、マフラーがひらひらして、かっこよくて、夕日にきえていく機影・・・というイメージがありました。おもいこんでいました。ところが、通信士ともう一人同乗者がいるのですよねえ。なんということだ。とおもって。
しかも、機械の調子の悪いのもあって、ひどいのになると、戦果を報告することさえできないような、そんなむなしい死を選ばねばならなかった兵士もたくさんいた。と。
くのう中尉、久納中尉はくのう、とよむのでしょうか。
特攻隊兵士の第一号、それがどんな意味をもつのか、不肖かささぎめにはよくわからないのですが、しかし、縁あって、こういう記録をこのブログに転載し、それにまた、こういう有縁のおかたのの貴重な声をお寄せいただけたことは、無上のよろこびでございます。
ありがとうございました。

彼は特攻していません。
帰還出来なかったのはおそらくエンジントラブルでしょう。
特攻しないで死んだ兵士を特攻第一号とするのは不自然。

ありもしない選果を妄想するなら戦時中の新聞と一緒です。

はなはだ失礼ながら、見ておられたのですか。

これを書かれた蒲池孝氏ですが、この文章が載ったのが2010年度の広報。2011年度まで投稿しておられ、それ以降はお名前を拾えません。ご高齢ですのでお元気であられることを慮るばかりです。
宮司さんをなさっていたそうで、ご養子さんらしく旧姓は小西とあります。
わたしも気になりますので、折を見て手元にあるぶんからいくつかご紹介しておきたい。(戦記です)

特攻第一号

で検索をしますと、
一番に出るのが久納 好孚(くのう こうふ)です。
二番目に東海大学・鳥飼行博研究室のthe Kamikaze,
三番目に関行男。
かささぎの旗転載の八女老連広報誌収録、蒲池孝さんのが四番目です。
一番を貼り付けておきます。☟

くのうとふこう

ひとりのにんげんのなまえのなかにあるなんて。

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