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2009年12月15日 (火)

小侍従の歌    『筑後将士軍談』から 3

(きのうからのつづきです)

又小侍従病重くなりて月頃経にけりと聞て、とぶらひにまかりけるに、此程少し宜き由申て、人にも聞せぬ和琴の手引鳴しけるを聞て読侍りける、西行法師、

「琴の音に涙をそへて流す哉 絶なましかばと思ふあはれに」

又高倉院御時、内にさむらひけるが、様かへて八幡の御山に籠りぬと聞て、刑部卿頼輔もとより、

「君はさは雨夜の月か雲井より人にしられで山に入ぬる」

と申送て侍りける返事に、

「すむかひもなくて雲井に有明の月はなにとか入もしられん」

新古今六に、

「思ひやれ八十の年の墓なればいかばかりかは物は悲しき」

とあり、こは百首歌奉りし時とはあれど、己が老たるをなげきてよめる歌には非ざるか、いみじく、しきしまの道に心を留たる人にして、類ひ少き上手になん有ければ、勅撰集にも歌数多く載られたり、されば玉葉十八に、小侍従大納言三位の夢に見えて、歌の事様々申て帰と覚しく侍けるが、又道よりふみをおこせたるとて、書付て侍ける歌、

「言の葉の露におもひを掛けし人身こそはきゆれ心消めや

こは亡後の歌と聞えたり

又正治二年百首歌奉りし事、勅撰集に是彼見えたり、正治二年は文治二年より十五年後なれば、かたがた助能の具して下れりしは、小侍従に非る事いちじるし、頼政へ菖蒲前玉りたりしも其頃の事なれば、さる事あるまじきにも非れど、菖蒲前を得たるは頼政と云説普通なるに、砂石集五に曰、故鎌倉の右大将家、京よりあやめといふ、はしたものの美人なりけるをめし下して、かくしおかれたりけるを、梶原の三郎兵衛尉所望してみたりければ同じ齢の十七八ばかりなる女房美女の見もしらぬを、十人装束させて双べすえおきて、此中にあやめを見知たらば、可レ給と仰られければ見わきがたくて、

「まこもぐさあさかのぬまにしけり合て何れあやめとひきぞわつらふ」

といひたりける時、あやめ顔をあかめて、袖を引つくろひけるを見て、あれこをと申て、やがて給りけりとあり

官女なりせば物にも見ゆべきを、しるし留し物をあらざるをもて思へば、こは内の女房にはあらで、折にふれ内わたりにも参れる女房なりしを、小侍従は名ただる人なれば、菖蒲の前の事などに混して、しか云ひがめたるならんかし

(あしたにつづきます)

▼コメント

こうして読み進めていけば、地の文はやはり矢野一貞その人が書いているようです。
たしか矢野一貞には歌集もあった、歌人であればこそのこの熱の入った書きよう。
小侍従は恋多き歌人として有名で、彼女とだれとの間でどういう場合に詠まれた歌ということの解説が矢野一貞の解説によってわかります。
小侍従の歌をいつかは読まねばと思っていますが、まず最初にここでこれを読んでよかった。今日のうたのなかにあった、

すむかひもなくて雲井に有明の月はなにとか入もしられん

この歌をよんで、連句的に出てくる歌があります。戦国百首のなかにある。
どことなく似ている。内容はまったくちがいますが。技巧的なものが。

七十二  不逢恋   鑑冨昨日の文の中にもついにんまりする解説がありました。矢野一貞の素が思わず出ちゃったっていうよな。連句ではついにんまりと笑ってしまうような恋句になんども遭遇しますんで、みょうに楽しかとです、はい。
・・にしても、パソコンおもい。四年間もつめこめるだけつめこんできました。
容量ふやさんとダメですね。   

今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ

八女戦国百首和歌:http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/cat33636509/index.html

 (姫野恭子)

読むだけで頭が変になりそう。
よくぞ打ち込んだり。

大学が瀬高の庄のそばに出来たのも何かの縁かも。

藤原徳大寺家は元々黒木荘一帯の管轄者です。(昔は有力公家さんが荘園の管轄をしてた)
助能の家と実定の家は縁あって助能の何代か前から昵懇の間柄とされており、瀬高の庄の紛争解決(源平)として入荘とされています。(諸説は色々)後の後鳥羽帝と助能の宮廷での最初の執り成しを行ったのも実定のようです。
保元の乱は助能が黒木にくる頃の都で起こる表向き天皇と上皇の対立です。よって政治的拮抗に公家と武士も分かれ、その時代に登場人物の一人として頼政がおり、同時期小侍従の恋(系譜では待宵の母)があるとされているようです。

星野中務大輔胤実(星野氏の祖)は幼名を八郎丸と云い、母は待宵の子侍従、京都樋口小路の生まれであるとされています。助能が京から黒木に帰る時には天皇の御子が腹にいて身重のため、その身を小侍従の親戚の樋口次郎太郎実安に預け、助能が帰った数ヶ月後に男の子が産まれそれが胤実であるとされています。その後に小侍従は胤実を京に残し筑後の助能の元に下り、幼少の胤実は後に母親を慕い星野荘に赴くとされています。

 (調うたまる)

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