無料ブログはココログ

« 地域ドラマ『母(かか)さんへ』とつながっていた!ー『筑後将士軍談』 | トップページ | 医療のフォーマットー医療計画と医療圏     乙四郎元官僚語録 »

2009年12月14日 (月)

黒木氏文書にみる小侍従のこと  『筑後将士軍談』からの引用 2

きのうからの続きを気合を入れてやります。

出典は矢野一貞著、
『筑後國史 筑後将士軍談』の中巻(巻之三十五)
系譜小傳 第七 黒木氏のくだり。
本当はカタカナ表記のところを平仮名にかえています。
読みづらいからです。が漢文の読み下し表記の番号や返し点はそのまま字の大きさも変えずに移しました。ですから意味が通じないやもしれない。それはご想像くださることを願って、なんとか読みとかれてください。漢字ばかりのはまあ読むのもいやだって感じですが、何度か目を往復させているうちに意味がとれてくるから不思議です。

霊山宗眞寺又云今村宗眞寺、初禅宗号善応寺一黒木氏菩提所而代々墓在、皆無レ碑、古有二六坊一帝釈寺、法蔵寺、円経寺、大千寺、泰見庵、法釈寺、黒木氏没落廃絶、田中家老辻勘兵衛居二猫尾城一此時再興為二浄土宗一慶長十二年正月廿五日、勘兵衛子勘太郎卒、法名指紅院如幻宗眞禅定門、其後改レ号曰二大雲山指紅院宗眞寺一什物有二惠心筆山越三尊画像円光大師名号黒木画像辻勘太郎画像等一
彼一柄の剣は延實迄相伝へしが、延實流浪の時肥前下野村に持参せり、仏像曼荼羅、笛、此三品は攝津守が娘の乳母取持て柳瀬村に有しが黒木の家臣矢谷右馬助買取て嫡子六助に譲り与ふ、右馬助後に木屋村庄屋となりて、子孫代々相続す、中頃火災に罹り、曼荼羅は焼失ぬといえども、仏像、笛は持伝へたりしが正保の頃六助より延實の子に返しぬ  今按、上妻浩太がとて持伝へたり、是は往昔黒木村に在して同所より上妻家に嫁たる女持来れりとぞ、然るに南古屋村住居医師(俸禄百石)馬渡道栄と云者、右の笛を借、黒木系図に添へ上京し、徳大寺家へ奉り、賞を乞しかとも其沙汰無りし故、持帰りつと云、其後浩太が家に有しを、息為大夫に進つとぞ、余も游焉(ゆうえん)大夫に乞て一覧しぬ、此笛を京師にて繕ひを頼みけるに笛師云、上古の笛にて、是を繕はば却て悪し、元の儘にて家宝とし玉ふべしと云けれとも、強て繕せけるに、かかる名管を繕ひたればとて、音を入る人は有まじきに、惜き「哉と、深く嘆きける由、倉重氏の話也、又寛延記、湯辺田村釜屋宮件云、一笛一つ、黒木大蔵殿御秘蔵、直に奉納の由 又按、生葉郡延壽寺村熊野社什宝に楽の面あり、竪八寸二歩横六寸四分、耳より鼻迄三寸五分、曲尺 素尊の面にして春日の作と云、今按に還城楽の面也 誠に古物霊器と見たり、社説云、文治中黒木助能か横笛の妙曲に天感有て、官女待宵小侍従及面横笛小刀各一ケを賜ふ、助能以為らく、此女を携て帰国せば、妻女の嫉妬浅からじと、乃(なんじ)これを紀州熊野に留む、此女素より身(はらむ)ことあり、未だ幾ばくならずして男子を産めり、是を星野伯耆守胤實と云、胤實小侍従に随て筑後に下り、熊野社を此地に創して此面を納むと云、 猶与二星野系図一可二併考一又寛延記云其後小侍従卒二紀州高野山光明院一有二其廟一又祠二之寺内一号二新八幡一以二八月十五日一祭レ之  今按、徳大寺祖、従一位左大臣藤原實能卿也、是鎌足公十六代孫也、實能の子正二位右大臣公能、公能子号後徳大寺左大臣實定公一、母俊忠卿女、文治五年任二左大臣一建久二年閏十二月二日薨、年五十三、詩歌に長じ、子公継号二野宮左大臣一、嘉禄三年正月晦薨、年五十三、伝見二日本史、系図知譜拙記等一、南筑明覧云、徳大寺左大臣實定卿、領二瀬高庄、古今著聞集五云、嘉応二年十月九日、道因法師人々を勧て住吉の社にて歌合しけるに、後徳大寺左大臣前大納言にておはしけるが、此歌をよみ玉ふとて、社頭月と云「を、

舊(ふ)りにける松物いはゞ問てまし昔もかくや住の江の月」
かくなんとよみ玉ひけるを、判者俊成卿ことに感じけり、世の人々もほめののしるほどに、其頃彼家の領筑紫瀬高庄の年貢積たりける舟、攝津に入んとしける時、云々、平家物語月見の条に曰く、中にも徳大寺の左大将實定(しつてい)の卿は古き都の月を恋つつ、八月十日余りに福原よりぞ上り玉ふ、云々、故郷の名残とては、近衛河原の大宮計ぞましましける、大宮は御徒然に云々、御比巴を遊されける処へ、大将つと参られければ暫く御びわを閣かせ玉ひて、夢かや現か、是へ是へとぞ仰ける、云々、待宵の小侍従と申す女房も、此御所にぞ候はれける、抑此女房を待宵と召れけることは、或時御前より待宵帰る朝た、何れか哀れ勝れると、仰ければ、彼女房

「待宵の更行鐘の聲きけば帰るあしたの鳥はものかは


今按に、新古今集十三恋の歌に題しらず、小侍従

「まつよひに更行鐘の聲きけばあかぬわかれの鳥はものかは」

とあり

と申たりける故にこそ、待宵とは召れけれ、大将此女房を呼出て、昔今の物語ともし玉ひて後、小夜もやうやう更行ば、今様にこそうたはれけれ、云々、大将暇申つつ、福原へぞ帰られける、供に候蔵人を召て、侍従が何と思ふやらん、余りに名残惜げに見えつるに汝帰りて兎も角も云てこよと宣へば、蔵人走り返り、畏つて、是は大将殿申也と候とて、

「物かはと君かいひけん鳥の音の今朝しもなとか悲しかるらん」

拾訓抄一も此物かはの歌を載たれど、返歌はなし  女房取あへず、

「またばこそ更行かねもつらからめ帰るあしたの鳥の音ぞうき」

蔵人走り帰て此由を申たりければ、扨(さて)こそ汝をば遺したれとて、大将大に感ぜられけり、夫おりしてこそ物かはの蔵人とは召されけれ、とあり、此は新千載集十三に、内にて小侍従と夜もすがら物語して、朝申遺しける、後徳大寺左大臣、

「ならひにきあかぬわかれの暁もかヽる名残はなかりし物を」

返し

「是ぞげにたぐひはしらぬ古へのあかぬ別れは身をも恨みき」

とあるによく似たる  ともなり、
風雅集二に高倉院の御時、内裏より女房数多いざなひて、上達部殿上人花見侍けるに、右京大夫折節風の気ありとて伴ひ侍らざりければ、花の枝に付て遣しける、小侍従

「さそはれぬ心の程はつらけれど独り見るべき花の色かは」

新勅撰一 二月の廿五日余りの頃、大内の花見せよと小侍従申遣しければ、未だ開けぬ枝に付て遣しける、従三位頼政、

「思ひやれ君が為にと待花の咲も果ぬに急ぐ心を」

頼政集二、
小侍従が歌に

「雪とだに見るべき花のなどやさは雨やみそれと降んとすらん」

なども見たり

返し

「逢事をいそがざりせば咲やらぬ花をばしばし待もしてまし」

玉葉集二  前参議経盛、常に申かはしけるが、久しく音信ざりければ、小侍従、

「忘るヽはおなじうきみの是はたゞ悔しき事の添ぬばかりぞ」

同十

暮にと契り侍りける男の音信侍らで、よべは蘆分けなる事の有てなん、今宵必と申たりける返事に、

「筏おろす杣山川の浅き瀬は又このくれもさこそさはらめ」

などあり、すき物なりつと見たり、吾妻などにも下りつと見えて、新続古今十七 二月計、小侍従あづまより上りぬと聞て、法橋顕昭許より、

「今はよし君まち得たりかくてこそ都の花も諸共に見め」

と云遺したりける返事に、

「逢見んと急ぎしものを君はさは花ゆへのみや吾を待ける」

などあり後は飾おろしつと見えて、続古今十九、出家後読侍ける、

「そむきにししるしはいづら立返りうき世にかくて墨染の袖」

玉葉十八に小侍従かさりおろしぬと聞て遣しける、従三位頼政、

「我ぞまづいるべき道にさきだてヽしたしふべしとは思はざりしを」

   (長いので、あしたにつづきます。  かささぎの旗)

ここまで打ち込みまして、これは一体何だろうと、わくわくと思案しているところです。
とってもとっても面白いよ。

黒木物語はいっさいおもてには出てきませんよね。
八女在住のかささぎでさえ、この物語を知ったのは今年の夏のことでした。
先日放映された国民放送の福岡発地域ドラマ『母さんへ』でも一言も触れませんでしたから、信じられない伝説のたぐいという扱いなのだと思います。
けれども、すべてを肯定する山口信一氏のお説のような意見もあります。
かささぎにはまだ何にも分かりませんので、ただ書かれている通りにうちこむだけです。
それさえ、ちょっとわからないことがありまして。
詳しいかたがいらっしゃれば、聞くことができるのですが、(たとえば昨日の新聞にちょっと出て見えてた柳川古文書館の田淵学芸員さんとか。あ、この人知ってる、と思った、百首和歌を読み解いているとき、「荒和祓」がわからなくて、そしたらたまたまこの方が教えてくださった。あらにこのはらへ。なごしのはらへのことです。)

かささぎは二男が生まれたころからずっと独りで知りたいことを調べる勉強を続けてきました。そういうことが、なぜかすきなんですね。
オットは遠いですし、普通なら欝になるところをいろんな方々との出会いがありまして、その出会いに救われて、欝にならなくてすんでいます。本当にみなさま、ありがとうございます。

で、ここで、この黒木氏のくだりのこの文章を打ち込みまして、はっとしました。

最初は打ち込みながら、いなかの山の中の何にも娯楽のない人たちが、高野山仕込の高良山お抱え琵琶法師の語りで知ったみやこの歌物語を、連句的に変えて遺したものだろう、と思いました。でも、もしそうであっても、この久留米が産んだ久留米の考古学者矢野一貞の書いている文章には目をひくものがたくさんあります。あたしは打ち込み作業をやってよかったなあと思いましたよ。このくそ忙しい師走に!

たとえば、つぎのようなところをごらんくださいましな。

徳大寺祖、従一位左大臣藤原實能卿也、是鎌足公十六代孫也、實能の子正二位右大臣公能、公能子号後徳大寺左大臣實定公一、母俊忠卿女、文治五年任二左大臣一建久二年閏十二月二日薨、年五十三、詩歌に長じ、子公継号二野宮左大臣一、嘉禄三年正月晦薨、年五十三、伝見二日本史、系図知譜拙記等一、南筑明覧云、徳大寺左大臣實定卿、領二瀬高庄、古今著聞集五云、嘉応二年十月九日、道因法師人々を勧て住吉の社にて歌合しけるに、後徳大寺左大臣前大納言にておはしけるが、此歌をよみ玉ふとて、社頭月と云「を、

「舊(ふ)りにける松物いはゞ問てまし昔もかくや住の江の月」
かくなんとよみ玉ひけるを、判者俊成卿ことに感じけり、世の人々もほめののしるほどに、其頃彼家の領筑紫瀬高庄の年貢積たりける舟、攝津に入んとしける時、云々、平家物語月見の条に曰く、中にも徳大寺の左大将實定(しつてい)の卿は古き都の月を恋つつ、八月十日余りに福原よりぞ上り玉ふ、云々、故郷の名残とては、近衛河原の大宮計ぞましましける、大宮は御徒然に云々、御比巴を遊されける処へ、大将つと参られければ暫く御びわを閣かせ玉ひて

ここのところです。
黒木氏の領していたのは黒木一帯と瀬高の庄だった、と読んでいました。
かささぎは今年の夏、(まだ警備会社で事務をとっていたころ)隣の席の竹ちゃんからさる文書をもらいました。竹ちゃんは柳川の青年でしたが、父親が川下り船頭さんの修行中という話や父親が通い始めた古文書館の話を聞かせてくれました。そのとき、かささぎも古文書館で二年間学んだという話をしたら、翌日もってきてくれたのが、次のような話が書かれたビラでした。
江戸時代のある年、瀬高の港をたくさんの米を積んで越後方面へ出た船が遭難、流されて朝鮮へ着いた。しかし朝鮮側では親切にもてなし又日本へ送り届けてくれた。それがちゃんと文書に残っていた。という話。

たいくつなはなしのどこがおもしろいといわれそうですが、時々平べったいものがむくっと起き上がるときがあるんです。ここがそれでした。おおっ!

「其頃彼家の領筑紫瀬高庄の年貢積たりける舟、攝津に入んとしける時、云々」

あと、大江希望さんブログをのぞいていましたら、時代がほぼ同じころと思われる保元の乱研究って文章を発見しました。特大寺、じゃなかった徳大寺の名前もみえます。かささぎは目下、さっぱり何がどうなっているのかわかりませんが、どこかでつながっていそうな気がします。この長い長い文章を読まれてなにか気づかれました方は、どうかご一報ください。

保元の乱について、併せて『保元物語の「放免」のこと』大江希望http://www.ne.jp/asahi/kibono/sumika/kibo/note/nob/hougennoran/hougennoran.htm#nenpyo

« 地域ドラマ『母(かか)さんへ』とつながっていた!ー『筑後将士軍談』 | トップページ | 医療のフォーマットー医療計画と医療圏     乙四郎元官僚語録 »

コメント

読むだけで頭が変になりそう。
よくぞ打ち込んだり。

大学が瀬高の庄のそばに出来たのも何かの縁かも。

訪れてびっくり。すごいですね。
今週時間をとって過去分含めてじっくり見てみます。今後小まめに来ます>反省。

藤原徳大寺家は元々黒木荘一帯の管轄者です。(昔は有力公家さんが荘園の管轄をしてた)
助能の家と実定の家は縁あって助能の何代か前から昵懇の間柄とされており、瀬高の庄の紛争解決(源平)として入荘とされています。(諸説は色々)後の後鳥羽帝と助能の宮廷での最初の執り成しを行ったのも実定のようです。
保元の乱は助能が黒木にくる頃の都で起こる表向き天皇と上皇の対立です。よって政治的拮抗に公家と武士も分かれ、その時代に登場人物の一人として頼政がおり、同時期小侍従の恋(系譜では待宵の母)があるとされているようです。

星野中務大輔胤実(星野氏の祖)は幼名を八郎丸と云い、母は待宵の子侍従、京都樋口小路の生まれであるとされています。助能が京から黒木に帰る時には天皇の御子が腹にいて身重のため、その身を小侍従の親戚の樋口次郎太郎実安に預け、助能が帰った数ヶ月後に男の子が産まれそれが胤実であるとされています。その後に小侍従は胤実を京に残し筑後の助能の元に下り、幼少の胤実は後に母親を慕い星野荘に赴くとされています。


朝 パソコンが重く作動不能になりぬ
いかにせんとて
クリーンアップをばいたさんとす
入れるのみにて出を怠りたる日ごろの報いなり

ブログ読ませていただいてありがとうございます。よいお年を。

希望文書を読み直していましたら、これが出ました。途中で放り出したままです。まだ半分以上も残っている、黒木氏系図の文書。漢文をきれいな読み下し文にして、打ち直したいものだと思い、その依頼をどなたにせねばと思っているところです。もしや、黒木氏側にはそういうものがあるのでしょうか?あったら、かささぎめにぜひ、ください。うちこみます。きっちりと資料として。

じつは、芭蕉の『幻住庵記』に、こういうくだりがある。
「筑紫高良山の僧正(そうじょう)は、 加茂の甲斐何がしが厳子(げんし)にて、このたび洛(らく)にのぼりいまそかりけるを、ある人をして額を乞ふ。いとやすやすと筆を染めて、幻住庵の三字を送らるる。やがて草庵の記念となしぬ。」
かささぎはこれの筑紫の一字がずうっと気になっていて、筑後のまちがいじゃないのかと。この時代、江戸中期ですが、高良さんは筑紫だったのかなあ。八女に寿陵を築いたいわいは筑紫のいわいだしなあ。
ほれ。歴史の先生のろいりさん。なんかいいんさい。
それとね。すんげえことになってきた。
ここ、この月光院、かささぎはすぐ近くまで行っていたってことに、ここのサイトを今しらべて気づきましたよ。ってのはね。前の会社の女ボスが、社長とのからみで機嫌をそこねて、やめるのどうのと拗ねてたのを、説得に行ったとき、ボスんちはすぐここの近くなんですよね。ほーう、こんなことにお寺があるな、古そうだな。とちらっと眼をやり、あれは何。とボスに尋ねましたら、あれはとっても古くて有名なお寺だと教えてくれて。だけども、それっきり、でした。
連句で、いま、やっている芭蕉の発句おこしので、ここをよませてもらいました。なりゆきで。そうなりゆき。で、あとさきになるとおもいつつも、検索して。
げんじゅうあんのき、っていう奥の細道の次に有名な文章にでてるお寺だし、たぶん芭蕉の句碑があるんじゃなかろうか。とおもって、秋の月の座に、
いざよひの月光院の翁の碑
って句を出しました。これは漢字をひらかなでとってくださった。
ああ。はなしがあっちいき、こっちいきして、もうしわけないです。
あたしがいいたいのは、つまり、九体皇子がここにでている!みよ

げんじゅうあんのきにばしょうがかいているこうらさんのそうは、字がとってもうまかったので、庵号をかいてもらったのですね。その僧がいたという御井寺。

そして、これが『幻住庵記』です。↓
なぜか、こういう歴史上、文学上の大切なことが、うもれていますよねえ。文化財課はなにをやっている。おーい、古賀の音彦さーん。なんかいいんさいな。いいわけを。

だけど、時代ってこういうものかなあとおもうよ。
ちょうどここらへんには、軍事上のきみつがいっぱい。かささぎがいまうろうろしてる上津の山の中とか、もろ軍事基地ですしね。

御井寺のサイトの地図。はあ~ってくらい、すごい恣意的。作ったひとの興味本位が伺われますね。
これじゃあさっぱりわからんぜよ。
モウソウギンメイ竹林、てのがやけに大きく書かれています。かささぎは、それ、妙にきになる。あんまりないのです、たしか、高良さんのここだけでしたよね?

[ただ睡癖(すいへき)山民(さんみん)と成って、孱顔(さんがん)に足を投げ出し、空山に虱(しらみ)をひねって座す。]幻住庵記の真ん中あたり。
このさんがんのさんという字。
きのう引用した、生方たつゑの歌にでました。
これです。
「膨れつつ捨蠶(すてご)はひあがる砂汀(さてい)きて
おもひ孱弱(ひよわ)なる日ぐれと思ふ 生方たつゑ」
ってことは、つまり、
孱顔(さんがん)=孱弱(ひよわ)なる顔。
この芭蕉の文章、すごいですねえ。
意味はちっともよくわからなくても、よみくだせば、韻をふみまくりってことがわかります。のりのりですよね。かたーいけど、のりのり。すげ。

ひえ、もうおひる。ひるめしつくらんば。
もひとつ。わすれないうちに。
サンの字、きっとたつえさんは、カイコの字をしらべていて、であったにちがいない。かばねだれのこの文字の、なかにいるのは、なんとボウフラではございませんでしょうか。
「孑孒」これがぼうふらの漢字表記。これにもう一つ子が追加ですね。

 筑紫国が8C初期頃?分かれて筑前と筑後になったのだから、「筑紫国高良山」でもよかとです。いわゆる「磐井の乱」は6C前期で、まだ分割前なので磐井一族の身分は「筑紫国造磐井君(イワイノキミ)」ということになっとります。また、筑後平野を回りの平野部と合わせて筑紫平野というのも同じ理由。
 ここで以前も話題になった、「筑紫」の読み方について。歴史本・地図帳などを見ると、フリガナはわれわれ筑後人の意向に反して?「つくし」となってます。で、こっから先は、私の単なる思いつきのトンデモ学説。現代の韓国・朝鮮語では「つ」の発音がない(例:トンカツ→トンカス)、もし古代朝鮮語もそうだったとすると、原日本系の地名としては「つくし」が先にあり、「ちくし」というのは朝鮮系渡来人による発音から始まったのでは?あるいは「ちくし」が先にあり、筑波(ツクバ)の影響を受けて「つくし」になった?筑波と言えば連歌も関係ある地名、興味がある方はお調べください。
 旧国名で「前・(中・)後」「上・下」がつくのは、1つの国が2~3に分かれたもので、吉備国→備前・備中・備後、総国→上総(→更に安房が独立)・下総などがその例。都から近い方が「前」や「上」、遠い方が「後」や「下」になりまする。ちなみに海上ルートを使うので、地図上では下にあっても千葉県南部が上総というわけでござんす、たぶん。

おお。ろいりーさん。
ありがとさんにござんす。さすがに歴史の先生でいらっしゃいます。とても勉強になります。
▼敷島の道と筑波の道
にひばりつくばをすぎて、いくよかねつる。やまとたけるが問うと、み火焚きのおきなこたえていわく、
かがなべて よにはここのよ ひにはとおかを。
この古事記にある話を連歌の起源としたので、連歌を古より筑波の道といった。
対して、敷島の道とは、同じく古事記、スサノヲの歌った、
八雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を
の倭歌(わか)からはじまったとされる。敷島の道、八雲道。あ。今連句的にひょっと思い出しました。
かささぎは小倉のミッションスクールに通ったのですが、そこで社会部の後輩に、しきさんという姓の人がいました。どんな字をかいたかなあ。思い出せない。磯城ではなかったような。志岐。そう、この字でした。ああ、そういえば、有名なかまぼこやさんが大川にありますね、とてもおいしい。長崎とか佐賀とか博多とか、とにかく島の人だったと記憶してますが。かお、こえ、先輩後輩、短大時代のことはくっきりと覚えています。もう二度とあうこともないとおもえば、ひたすらなつかしく。たのしかったんですよね、女ばかりっていうのは。
去年黒木での連句興行に、星野調一族のしらべさんがいらしたのですが、ご出身は九州ではなくて、筑波なのだそうです。ふしぎな縁でした。

学長ブログ今日はお休みです。

この夏の暑さは過激でした。
お体、大丈夫でありましょうか。
関東へ帰る暇もなかったのではないかとおもっています。
連句の付け句に、
待ち惚け恕(ゆる)してくれぬか油照り  乙四郎
がありました。
かささぎも息切れ動悸に悩まされていて、年を痛感しています。ずっとお供をしてますと、疲れ具合がみえます。どうぞしばらくおやすみください。

四時おき。
せいこのブログ短歌倉庫でやまなみ創始者菊地剣を知る。
黒木の歌人だったんだね。
ということは。
まっすぐここへ還ってきました。
菊地剣が黒木の歌人ときいて、まっすぐ「黒木物語」の小侍従(あの古典に名を残す有名な。じっさいはどうだったかはしらないけど、矢野一貞の書いた黒木助能の家の系図だったかにも、歌物語まで紹介されていた、というほど、やはり真実かどうかはおいても、何かの縁が黒木にはあり、脈々と後世につなげたい思いがあったということでしょう)、へとこころは走ります。そこから200年後の戦国時代の百首和歌(岩戸山古墳に残っていた源鑑述が今伊勢奉納の)、その二百年後の高良山十景歌とつながっていく筑後の歌の系譜。
これをもう少しきちんと調べて整理する必要があると漠然と思っています。
それは今の亜の会のメンバーを得て、そう思うようになりました。
みなさんの深く蔵しているものが、すごいからです。この二年毎日一日もやすまずブログ書いてきて、それにどんどんきづかせられていった。
学長、ありがとうございます。その霊力に感応せざるをえないかささぎであります。なにかがうまれでたがっているということだけ、よくわかるんです。せいこさん、ぼんさん、しらべさん、らんさん音彦さん、たからさん、えめさん、そらんさん、さくらさん、それから呂伊利さん、ありがとうございます。


>学長ブログ今日はお休みです。

「今日」は、まだ何時間もあります。
今日の1時限目の授業(国際協力論)の準備を優先しているために、アップが後まわしになっているみたいです。

筑後 黒木 出雲

検索でこちらへ見えています。
再読しました。
やはり、すごいです。
なにかがみえかけているというか。

きょうの慰霊祭のお坊様は大友氏でした。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 地域ドラマ『母(かか)さんへ』とつながっていた!ー『筑後将士軍談』 | トップページ | 医療のフォーマットー医療計画と医療圏     乙四郎元官僚語録 »

最近のトラックバック

2020年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29