無料ブログはココログ

« 医療と統計学 全国患者調査 3        乙四郎元官僚語録 | トップページ | 黒木氏文書にみる小侍従のこと  『筑後将士軍談』からの引用 2 »

2009年12月13日 (日)

地域ドラマ『母(かか)さんへ』とつながっていた!ー『筑後将士軍談』

お約束の矢野一貞著『筑後國史ー筑後将士軍談』から黒木氏のくだりをひきます。
最初に系図(それぞれに説明つき)がずらーっと出てますがそれは省略、そのあとに付された文章です。みてください。とてもよみづらいですががまんしてください。

黒木由来記云、黒木河内木屋村猫尾城其起源詳ならず、薩州根智目城主某、大軍を卒して来攻る事二年余、遂に猫尾の城を払て是に居る、黒木大蔵大輔源助能と云、室は島津忠宗女なり、黒木六町及山門郡瀬高庄千町を領す、黒木六町と云は、縦八里横三里、村数十一、今高にして八千石余の所なり。文治二年春助能大番として上京、助能笛に巧なるを以て、仮に大納言に任ぜられ、其役に候ぜしむ、帝其曲調微妙なるに叡感ありて、調姓及官女待宵小侍従を賜ふ。文治以下筑後城館集寛延記名号縁起甲冑伝之に同じ、縁起助作祐曰、小侍従帝子孕由来記云小侍従者徳大寺左大臣実定密婦、懐胎既三月、別れに臨み、実定は剣二柄及長五寸観音像光明皇后自ら曼荼羅を作りて曰く、男産れれば剣を、若し女子なら仏像曼荼羅を与えよと。そういってなくなった。寛延記及縁起曰、帝が之を賜ふと、寛延記又曰、小侍従男子を産む、すなわち後鳥羽院第四子也、徳大寺左大臣之を命じる。名は黒木四郎調宿禰藤原定能と曰ひ鎧一領及山門郡瀬高上庄千町を賜ふ。この鎧は木屋村定能臣松雄蔵王子孫今尚存す。助能是を携て下向 寛延記云、此時馬渡将監随逐す。助能室之を深く嫉み、乳母、由来記云名は紅梅、及侍女十二人を卒、城下岩淵に投じて死す其死骸本分村築地の瀬に留る、怨霊祟りを成して往来の人を悩ます、故に先に給ふ所の剣一柄を沈めて (寛延記云、文治五年、又云、一柄伝黒木家) 其霊を和(なご)め、築地窪と云所に(本分村)祠を建て、その霊を三体としてこれを築地御前と称す、これにおいて怪息(や)む、その淵を名付て剣淵を云、これより毎年赤手拭三筋、白粉三箱、紅粉三皿、赤緒草履三足を供て黒木氏よりこれを祭る、今に至て断るなし。(由来記、寛延記)小侍従男子を産む、是黒木四郎調宿禰藤原(実定の姓を用いる)定善と云、黒木家を相続す、先腹に二男一女あり、これを薩摩腹と云、長子上妻郡川崎庄犬尾篠城を興て是に居しむ、是を川崎五郎源重俊と号す、(誌云以長子川崎三郎宗定山内村犬尾城主寛延記云、豊福村鶴見山為二川崎三郎定宗隠居館一其地号二上野一尚与川崎家譜一可併考)二男星野谷の城主たり、代々星野を以て氏とし、姓は源を用いる(誌云、嘉禄年中星八郎星野を始めて領す爾後一族繁栄す)女子は肥後国和仁氏の室也、小侍従老後京の四條を写し、四條野村四條野川原など名付く。後の山に城を構へ、鷲が城と号す、その周りの堀は和仁領芋生村より来て掘りたる故、芋生堀と云。屋敷あり。小侍従の塚と云伝へたるもそのうちにあり、今は畠となりて館屋布と号す、土人この地に住まうことを得ず、助能の塚と言い伝へたるは、その菩提寺善能禅寺の内にあり。(この寺古くは六坊を有す。根福寺、円見寺、大専寺、法釈寺、大見寺、法蔵寺也。今は廃れてただその遺跡の存す。寛延記云、黒木氏菩提所善能禅寺、田中代為二浄土宗一号二大。(長いので次へつづく)

ここまで打ち込んではっときづきました。
鰐八という地名のなぞ。
ブルーでぬいたところが参考になりそうです。(かささぎ)

▼べつのところについたものですが、コメントです。

「後年になってから編纂される時に時の宗教の観点からの解釈で内容が融合される事も多い」(調うたまる)
でしょうね。たしかにそうだろうとおもいます。
それをふわけするのは「やおいかん=むずかしい」とおもいます。

昨夜のNHK福岡発ドラマ、よかったね。
「母さんへ」
   ↓

http://www.nhk.or.jp/fukuoka/drama/kakasan/diary/index.html

おつしろう。かいてくれてありがとう。
じつは私は都合で半分しかみていないので書く資格がありません。でも、うちの母がちゃんと全部みてくれました。(ちちも楽しみにしていたのに、その時間は眠ってしまっていて見れなかった。)も一度再映があればとおもいます。母はあのドラマの笠原小学校が母校なので、それだけでも懐かしかったようです。泣いてみていました。
きのうは、仕事に行く前に市役所の観光課にいき、一月の連句会場堺屋の予約をすませてきたのですが、そこに「母さんへ」の広告ビラがあったので、一枚もらってきたばかりでしたがその夜の放映でしたね。
昔の校歌とまったく同じだったって母がいいます。
ただ学校と運動場の位置が少しかわってきれいに広くなった。と。昔は校舎の東に奉安殿があってそこの天皇陛下にごあいさつをして、一日がはじまったそうです。卒業歌が海ゆかばの時代の生徒ですから。
今日院にみえた患者さんの中に黒木出身の年配のかたがいらして、そのかたとドラマのはなしをしました。とってもよかったねえ。なみだがでたよ。っておっしゃってました。番組のことで熊本からも電話があったそうです。どの範囲まで放映されたのでしょうね?
関係ないのですが、さっき「イングリッシュ・ペイシェント」っていう映画を三潴図書館のビデオでみたんですが、それに出てくるターバンを巻いたインド人が昨日のドラマでお茶生産者の青年を演じた小澤さんにどこかそっくりでした。かれはなかなかいいですね。それと人形たちのりっぱなこと。びっくりしました。親方役をなさった津川雅彦さんも風格があってよかったです。こどもたち、みんなよかったけど、ことに男の子がよかった。新鮮で。自然なかんじで。途中までしかみれず残念でした。
かささぎは、歌仙をまいているとき、とってもふしぎなことにあの旭座ってところの横を通って六地蔵さんにおまいりにいったことを忘れません。笠原小学校出身の母さえ一度も行ったことがなかった、という鰐八地区まで尋ねもとめていったこと。とってもとっても遠かった。それがなぜ、どこからそうなったのかもふくめて、とってもふしぎなえにしを感じた今回のドラマでした。ありがとうございました。

私も途中までしか見ませんでした。でも、ビデオにとっています。主人が見れなかったからです。
それにしてもお茶畑が綺麗でした。制作の方が見事に再現してくれたとありましたね。
うれしいですね。又見ますね。

« 医療と統計学 全国患者調査 3        乙四郎元官僚語録 | トップページ | 黒木氏文書にみる小侍従のこと  『筑後将士軍談』からの引用 2 »

コメント

かかさんへ>>見ました。 とてもよかったです。
去年の「博多はたおと」は3度見ましたので、たぶん再放送があると思います。
そのうち1本は全国放送ではないでしょうか☆
全国の方に見て欲しいですね。 ふるさとがこちらの方も多いでしょうから。
脚本家はパッチギの方でしたね。 やはりよかったですね。
鰐八の人形浄瑠璃は140年前から続いているとの事でしたね。
鰐<和仁<和邇、、やまと言葉からの変遷かもですね^^☆
ちなみに鰐は鮫のことですね♪ もしかして有明海はもっと近かったのかも(^_-)-☆

笠原小学校の生徒役は、劇団児童ではなく、笠原小の生徒たちだとのこと。
劇団児童たちでは浄瑠璃が謡えないからとか。
それにしても、最近の田舎の子らはアカヌケとるね。
洟垂れ小僧は一人もいない。
テカテカ袖でツギ当てが当たり前の時代に育った者としては隔世の感。

えめさん、博多機音、三度もみたってすごいですね。それ、一度もみませんでした。すみません。
かかさんは2月11日全国放映とでてますね。そのときにみましょう。
おつしろさん。はなたれこぞう、雲の上の坂じゃなかった坂の上の雲ででてきませんでしたか一瞬。
きょうは長距離走があったそうで、大むすこがびりっけつだったといって帰ってきました。中村先生よりも遅かったのがショック。といってました。中村先生?
いかん、テレビがはじまる。

この番組の放映に先駆けて、先日、ドキュメンタリーで笠原小学校の子ども達を紹介する番組を見ました。ドラマに出演した子ども達の放課後の様子を収録したもの。

涙が出るほど笑ったよ。
学校まで片道5キロを歩く男の子。
「ここから少し走りますけん。カメラさんついてこれるですか?」と言いながら山道をダッシュしていく子ども達。その上、「ここからは近道します」と言って段々畑のあいだの獣道みたいな道なき道を駆け上るの。ついていったカメラマンが息切れしてるのがもろ見えで。笑

学校から戻った子ども達が誘い合って、川遊びをしたり、お宮の境内で缶蹴りしたりする様子も紹介してあったのですが、ああ、この子たち、いい環境で育ってるなあと少しうらやましく感じましたよ。
だって、お宮の境内で缶蹴りしてる姿なんて、この田舎町でだって、もう何年も見かけないもの。

缶けりの缶が車にひかれてぺしゃんこになってね。
あの公園でかささぎも遊んだことがあります。むかしむかし、椿原までお菓子をかいにいったついでに。
その椿原(つばわら)にはバス停があり、そこから黒木駅までバスに乗りましたが、便数が少なく、たまに黒木駅まで歩いたこともあります。何キロあるかな。駅近くの藤の木で有名なすさのう神社も出てきましたね。少女をさがしにいくシーンで。(そこらまでみました。)
かささぎの生まれた家は、子たちが缶けりしていた椿原から左の方へ登っていった山林の木の上でした。笑、木の上じゃないけど。(つい調子にのっちまっただ。)
かさわらのばあちゃんちは山の中でしたので、夜が真っ暗でした。バスが矢部からゆるゆるとおりてくるのが見えるのです、山の斜面から。それをみて、椿原まで転がるように駆け下りていきました。のどかな時代でした。
今にして思えば、母のふるさとの笠原で盆、正月と数日とまりがけで遊ばせてもらったこと、多くのいとこたちときょうだいのようにして暮らした思い出、宝物です。

今日、全国波で初放映ですね。
母(かか)さんへ。

やっとみました。
よかったです。
みどりいろがきれいでしたよねえ。お茶畑の。
あらためて、役者さん、俳優さんについて考えさせられた。ことば。八女の方言そのもののイントネーションじゃないほうが、いいんだね。まんまだったら、ちょうどわたしたちが東北弁をきいてもちっともわからないのとおなじで、全くわかってはもらえないだろう。人も景色も一番いいおかおを撮って下さってました。

予約録画しておいて先ほど見ました。
物語として良い番組ですね。
お茶畑も非常に構図良く美しい世界観が表現され、それでいて俳優以外の出演者の素朴な雰囲気が交わり、とても深みがあったように感じました。さすがNHK。。(笑
それでふと目に留まったのが、番組中ごろ主人公の女性に男性が武士姿の浄瑠璃人形を持たせるシーンがあったのですが、その人形の胸に大きくあった紋は私の家の家紋でした。。少々特殊な紋ですので間違いはないのですが、恐らく浄瑠璃には他にも色々な物語があるのでしょうね。何故かその物語を全て知りたくなりました。かささぎさん、ご存知ですか?。

ああ。そうでしたか。いいえ、しりません。
すみません。ぼちぼちしらべましょうか。
しかし、この調子でいきますと、あちらのほうから集まってくるのではないかという気がしてきました。
去年からの展開をじいっとみてますと、そんなかんじがしきりとするんで。

おはようございます。
そうなんですか。去年は「あまり深入りせぬほうが・・」とも思っていましたが、現在はどっぷり「お願い致します」モードになってます。すみません。。
ここにきてかささぎさんがまとめて調べている「筑後将士軍談」まとめて入り込んでます。私も知りたい内容でしたのでありがとうございます。

時代は少々遡りますが流れでもし徽子に触れるような事が出てきましたら教えて下さい。

浄瑠璃の物語については、次回訪れたときの楽しみとします。それにしても「母(かか)さんへ」とつながる「筑後将士軍談」とこのタイトル、ドラマを見て納得しました。

うたまるさん。
おもてにでるためには、ふかいねがあるってことだよね。
これぞ正統的とおもって暗記する歴史をただ受身で学んでいるだけではなにも始まらないですよね。
表面上のことはあまり関係はないのです。
わたしは何より矢野一貞という学者を買っていて、というのは、江戸時代末期という封建的な時代に、なんにもないところから自分の足で資料をあつめて、実測して、これが風土記のいわいの墓だといったのは彼だったのだから。それがどんなにすごいことだったのかを考えます。
戦後、すべてが科学的に進歩的になったかのように錯覚してきたのですが、それが実はとんでもない間違いだったということに気づいたのが十五年ほど前でした。連句に出会ってから。その後石橋秀野を知り、戦国百首和歌という天文年間の肉筆和歌を知りするうち、全身全霊でよみとくということを学びました。むしろ、めにはみえない世界へおおきく目をみひらくことの、そのことばにはできない技のようなものこそが、この「よみ」には必要でありました。
それ、だれにでもあります。
じぶんでまなんでいくしかない。

今朝の朝刊に載っているあれは高校入試だろうかセンター試験のだろうか、わからんけど、国語の第一問の中野三敏の文章題設問が、まさにその能力の衰えを嘆いて、圧倒的に今という時代の病弊をとらえてるな。と思いましたよ。さすが!

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 医療と統計学 全国患者調査 3        乙四郎元官僚語録 | トップページ | 黒木氏文書にみる小侍従のこと  『筑後将士軍談』からの引用 2 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31