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2009年11月22日 (日)

『待夜の小侍従』  山口信一・文

待夜の小侍従

  久留米市   山口 信一

 待夜の小侍従と、その母、小侍従阿波の内侍とが昔から混同されている。
 高倉院に宮仕えし、歌道に長けた才女、有名な小侍従は待夜の小侍従ではなく、その母、小侍従阿波の内侍である。それは待夜の生没年代によって明らかにすることが出来る。

 待夜の小侍従は、平家打倒を最初に計った源三位頼政と、八幡別当幸清の女、小侍従阿波の内侍の若い時との間に生れた子である。そして当然里親の八幡別当幸清に預けられるべき筈のところ、当時平家に受けの良かった、徳大寺藤原実定卿に、頼政が頼んで母子共に預けられたのである。実定卿没後(建久二年1191)は公継卿の庇護によって生長する。

 小侍従阿波の内侍が待夜を産んだのは治承二年(1178)で高倉院の時代、此の時、内侍は十六才位であったと思われる。頼政は治承四年(1180)に死んでいるので、此の後、小侍従阿波の内侍には花やかな時代が開けていったものと考えられる。それは高倉院に宮仕えすると云うことでも理解されよう。

 公継卿の家に生長した待夜が、後鳥羽院に宮仕えに上ったのはいつ頃からか解らないが、正治二年(1200)の春、懐妊したので上皇から公継卿に預けられる。時に上皇二十一才、待夜二十三才。

 此の春の頃、黒木重綱(助能すけよし)は大番役(御所警固)として京に上り、大変な笛の妙手とて、その噂は京中に高まったと云う。此の噂を聞かれた上皇は、密かに御所に召されてその笛の音を聞かれその妙音に叡感のあまり御賞与として、公継卿に預けられていた待夜の小侍従に、菊御紋付鏡、元真の短刀、楽面(春日の作と伝う、後年吉井の熊野神社に納む、現存)、横笛とを孕める子の守りとして授けられ、重綱(助能)に賜う。重綱は当惑して国には妻子ある旨を奏し辞退するが、何も妻女とするには及ばず、強ってお受けしなければ違勅の身ともなるからとの、公継卿のとりなしで止むを得ずお受けする。そして更に瀬高荘千町を賜う。又、良く調べたからと、黒木大蔵大輔調助能と名を改めさせられる。国元に在ってこの事を知られた助能の奥方・築地御前は乳母と侍女とを伴い城下の岩渕に身を投ぜられる。其の死体の留まる処を築地の瀬(剣が渕)と云う。その三人の霊を祀る祠は現在も黒木町本分に在る。当時、領主の奥方が自害するなどとは実に大事件であったであろう。

 待夜はその冬、京の洛外西八條に於て男児を産む。公継卿よりこの報を聞かされた上皇は、妙見王と名づけ給う。これが後の星野伯耆守胤実公である。この後助能の後室となる。

 では何うして上皇は地方の一武人に過ぎない助能に、美人の官女・待夜を与えられたのであろうか。それは後年の承久の変によって理解される。承久三年(1221)五月、北條義時追討の院宣が諸国の領主に発せられ、九州にも皇家支持と目される諸家に発せられ、黒木家や星野村にも来たのである。この時ある為の、上皇の密かな遠謀であったのである。此の変によって後鳥羽院は隠岐に、順徳天皇は佐渡に配流となられ給う。

 待夜は黒木助能公の後室となった後、定能(善)を産むがこれは十八才にて卒せらると云う。助能公没後(嘉禎二年1236)は星野に在って建長元年(1249)己酉五月二十八日没せらる。七十二才。

 黒木家には待夜が持って来ていたと思われる、頼政と母の小侍従阿波の内侍との間に交わされた歌が、数多く残っていたとみえ、筑後将士軍談の裡に収められている。

 後年、恐れ多くも後鳥羽院の胤を宿した官女の、待夜の小侍従など黒木助能が賜る筈はないと、待夜は高良山の座主の娘であったなどと云う伝説も生れたものであろう。又は待夜は藤原実定卿の胤を孕んだのを助能に賜い、生れた子が星野胤実であるとも云われていたらしいのである。

※ この資料は最近さるお方にいただいたものです。
黒木の調城伝説を読み解くためのヒントが隠されています。
ご縁ですから、気長に少しずつ勉強して向き合ってまいります。
                     〔かささぎの旗〕

コメント:

コメント

この件ですが。
「どこまでが本当の嘘、木下闇」(澄たからの句)でありまして、見当がつきません。ですが、かささぎは『黒木物語』のなかの二つの部分におおいにこころひかれます。一つは、まつよいのこじじゅう、一子を得るに牛たり。・・生きたまま葬りたるを哀しみ・・罪業の深重なるを知り・・行空上人は胎蔵界のどうのこうのの六道輪廻を・・諭し・・という非常に生々しい部分。
もうひとつは、島津のひめであった、それであるがゆえに誇り高き女性であった築地御前(黒木助能の正妻)が、夫が都から連れ帰ったまつよいのこじじゅうをみて、嫉妬のため苦しみ、とうとう子供を残して渕に身をなげてしまった。・・という部分です。
この二箇所は女である自分にとってはつきささるように身にしみるはなしで、誰が書いた本なのか、すごいなあと感心します。はい。かささぎはこれは何かの台本であろうと思っているのです。つまり、高良山に二千人もいたという、琵琶法師たちの生活の糧としての物語。
その一方で、こうも思います。
筑後の人たちというのは、自分も含めて、嘘のつけない率直な人が多い。馬鹿正直です。こんな人たちがわざわざうそをつくはずはない。と信じる部分があって、この物語の中心をなす、天皇のご落胤説はうそではなく、本当ではないか。と思います。
それをたしかめるのは、・・・気長にやります。

「公継卿の家に生長した待夜が、後鳥羽院に宮仕えに上ったのはいつ頃からか解らないが、正治二年(1200)の春、懐妊したので上皇から公継卿に預けられる。時に上皇二十一才、待夜二十三才。」

この部分ですが。
21歳の後鳥羽院の歌。
おぼえていますよね。つい最近、れぎおんで引用したばかりでした。そこへつながっていくという薄気味のわるさ。

白菊に人のこころぞ知られける
  うつろひにけり霜も置きあへず  
   後鳥羽院「初度百首」

21でこんなにもさめたまなざしの憂鬱な王がいる。

    

こんばんわ。「れぎおん」ありがとうございました。
歌仙「六地蔵」。最初タイトルを見て「ん!?」でしたが(笑。
内容を見てなるほど・・・。
深くて淡いドラマが凝縮されたような・・一言、素晴らしいです。ついでではありませんが、その他の連句も見てみると・・・またまたなるほど・・・夫々の会の持ち寄る性格の違いがはっきりとわかります。奥が深いですね。

「待夜の小侍従」と「黒木物語」。
日本独特の思想である怨霊信仰に類されます。
当時陰陽道から仏教へと庶民へ根付かせるべく移る歴史の政治的背景(かけひき)の過程により非常に宗教色の強い内容が多いのだと思います。
また、後年になってから編纂される時に時の宗教の観点からの解釈で内容が融合される事も多いのでしょう。
妙見は星の信仰によるもの。この時代(平安後期)から次第に密教と密接に融合していきます。

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コメント

この件ですが。
「どこまでが本当の嘘、木下闇」(澄たからの句)でありまして、見当がつきません。ですが、かささぎは『黒木物語』のなかの二つの部分におおいにこころひかれます。一つは、まつよいのこじじゅう、一子を得るに牛たり。・・生きたまま葬りたるを哀しみ・・罪業の深重なるを知り・・行空上人は胎蔵界のどうのこうのの六道輪廻を・・諭し・・という非常に生々しい部分。
もうひとつは、島津のひめであった、それであるがゆえに誇り高き女性であった築地御前(黒木助能の正妻)が、夫が都から連れ帰ったまつよいのこじじゅうをみて、嫉妬のため苦しみ、とうとう子供を残して渕に身をなげてしまった。・・という部分です。
この二箇所は女である自分にとってはつきささるように身にしみるはなしで、誰が書いた本なのか、すごいなあと感心します。はい。かささぎはこれは何かの台本であろうと思っているのです。つまり、高良山に二千人もいたという、琵琶法師たちの生活の糧としての物語。
その一方で、こうも思います。
筑後の人たちというのは、自分も含めて、嘘のつけない率直な人が多い。馬鹿正直です。こんな人たちがわざわざうそをつくはずはない。と信じる部分があって、この物語の中心をなす、天皇のご落胤説はうそではなく、本当ではないか。と思います。
それをたしかめるのは、・・・気長にやります。

「公継卿の家に生長した待夜が、後鳥羽院に宮仕えに上ったのはいつ頃からか解らないが、正治二年(1200)の春、懐妊したので上皇から公継卿に預けられる。時に上皇二十一才、待夜二十三才。」

この部分ですが。
21歳の後鳥羽院の歌。
おぼえていますよね。つい最近、れぎおんで引用したばかりでした。そこへつながっていくという薄気味のわるさ。

白菊に人のこころぞ知られける
  うつろひにけり霜も置きあへず  
   後鳥羽院「初度百首」

21でこんなにもさめたまなざしの憂鬱な王がいる。


    

こんばんわ。「れぎおん」ありがとうございました。
歌仙「六地蔵」。最初タイトルを見て「ん!?」でしたが(笑。
内容を見てなるほど・・・。
深くて淡いドラマが凝縮されたような・・一言、素晴らしいです。ついでではありませんが、その他の連句も見てみると・・・またまたなるほど・・・夫々の会の持ち寄る性格の違いがはっきりとわかります。奥が深いですね。

「待夜の小侍従」と「黒木物語」。
日本独特の思想である怨霊信仰に類されます。
当時陰陽道から仏教へと庶民へ根付かせるべく移る歴史の政治的背景(かけひき)の過程により非常に宗教色の強い内容が多いのだと思います。
また、後年になってから編纂される時に時の宗教の観点からの解釈で内容が融合される事も多いのでしょう。
妙見は星の信仰によるもの。この時代(平安後期)から次第に密教と密接に融合していきます。

「後年になってから編纂される時に時の宗教の観点からの解釈で内容が融合される事も多い」
でしょうね。たしかにそうだろうとおもいます。
それをふわけするのは「やおいかん」とおもいます。

昨夜のNHK福岡発ドラマ、よかったね。
「母さんへ」
   ↓

おつしろう。かいてくれてありがとう。
じつは私は都合で半分しかみていないので書く資格がありません。でも、うちの母がちゃんと全部みてくれました。(ちちも楽しみにしていたのに、その時間は眠ってしまっていて見れなかった。)も一度再映があればとおもいます。母はあのドラマの笠原小学校が母校なので、それだけでも懐かしかったようです。泣いてみていました。
きのうは、仕事に行く前に市役所の観光課にいき、一月の連句会場堺屋の予約をすませてきたのですが、そこに「母さんへ」の広告ビラがあったので、一枚もらってきたばかりでしたがその夜の放映でしたね。
昔の校歌とまったく同じだったって母がいいます。
ただ学校と運動場の位置が少しかわってきれいに広くなった。と。昔は校舎の東に奉安殿があってそこの天皇陛下にごあいさつをして、一日がはじまったそうです。卒業歌が海ゆかばの時代の生徒ですから。
今日院にみえた患者さんの中に黒木出身の年配のかたがいらして、そのかたとドラマのはなしをしました。とってもよかったねえ。なみだがでたよ。っておっしゃってました。番組のことで熊本からも電話があったそうです。どの範囲まで放映されたのでしょうね?
関係ないのですが、さっき「イングリッシュ・ペイシェント」っていう映画を三潴図書館のビデオでみたんですが、それに出てくるターバンを巻いたインド人が昨日のドラマでお茶生産者の青年を演じた小澤さんにどこかそっくりでした。かれはなかなかいいですね。それと人形たちのりっぱなこと。びっくりしました。親方役をなさった津川雅彦さんも風格があってよかったです。こどもたち、みんなよかったけど、ことに男の子がよかった。新鮮で。自然なかんじで。途中までしかみれず残念でした。
かささぎは、歌仙をまいているとき、とってもふしぎなことにあの旭座ってところの横を通って六地蔵さんにおまいりにいったことを忘れません。笠原小学校出身の母さえ一度も行ったことがなかった、という鰐八地区まで尋ねもとめていったこと。とってもとっても遠かった。それがなぜ、どこからそうなったのかもふくめて、とってもふしぎなえにしを感じた今回のドラマでした。ありがとうございました。

それから、しらべさんへ。
筑後国史の黒木氏のところから小侍従の歌のくだりを抜書きしようとしてるのですが、途中で立ち往生しています。
といいますのは、一、二と番号の打たれた漢文の読み下し風記述が途中に入っていたりするからです。漢文が苦手です。どうしよう状態。適当にごまかせばいい。とも思うのですが。笑
かなりややこしい。ばってん、なんとかしますから。

私も途中までしか見ませんでした。でも、ビデオにとっています。主人が見れなかったからです。
それにしてもお茶畑が綺麗でした。制作の方が見事に再現してくれたとありましたね。うれしいですね。又見ますね。

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