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2009年11月18日 (水)

一服のお茶

ことし参列した葬儀での風景。

ひとつは故人が信仰していた宗教団体のとりしきる葬儀。
葬祭場にはセルフサービスの飲み物コーナーがあり、コーヒーを飲めるようになっていて、お茶はふるまわれなかった。

もうひとつは先月なくなった同じ隣組の長老の葬儀。
一軒から二人出なければならないので父と二人参列する。
自宅葬だった時代には、隣組のなすべき仕事はきっちりと決まっていて、まずは弔問客にお茶をふるまうのが一番になすべきことだった。(弔いのお膳もこさえていた。おおごとだった。祖母がなくなったころまではそうでした。)
が、葬祭場での葬儀は、やはりここでもセルフの飲み物コーナーに取って代わっていて、お茶をお出しするような場はどこにもなかった。
古い時代を知る古だぬきの私たちには、さびしいことのように思われた。

来て下さった一人一人にお茶をふるまった記憶。
となりのおじさんがなくなったお通夜のことが思い出される。
いまごろだった。月がうつくしい夜だった。

いまにしておもえば、お茶をふるまうというのは、単に飲み物をふるまう以上のなにかがあったような気がする。それがコーヒーであってはいけないようななにか。

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コメント

同感です。
葬祭場のシステムは合理的ではありますが、やたら簡素化されすぎていて、味気ないです。人が集えばそれなりに話はしたいもの。ご葬儀であれば、親族の方にご無沙汰のお詫びや亡くなられたときのことをある程度お聞きしたりはなしたりしたいもの。お茶を振舞うという行為はそのきっかけを作ることだと思います。
近所で行われたお通夜で、小さい頃を知っていた子(お孫さん)がそろそろとお茶を運んできて・・・そういうのを見て思うところがあった。
そうさいじょうではなかなかはなしができない。時間が経てば、ハイ、どうぞお帰りくださいと言われんばかりのところもある。何時間も居座られても困りものだけどね。自分たちの時は又変わっているかもしれないね。
姑が亡くなったらどうしようと、一人考えてるけど(まだまだ元気なので、)まだ主人と話し合った事はない。

ぼん。はなしあえるひとがいてうらやましい。
でもそういうことははなしあわなくてもいいのかも。

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