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2009年10月27日 (火)

では気骨の人ろいりーさんと給食談義

 「底意地」の意味がわからんで辞書ひいてしもた。
八女が未開の地やら思とらんですよ。久留米よりちょっと田畑が多いかと…(おなじことやないか!!)まあ久留米も広かけんね。
シラミについて言えば、今流行の新インフルエンザだって、東京の隣同士の区・市なのに流行ってるところとそうでもないところがあるから、それと似たようなもんでしょ。

 DDTは、敗戦直後にGHQが持ち込んで、引揚者などに使ってたというのは知ってたが、これを機会にWikipediaで調べてみたら、何とのちのチバガイギー社(ほら、スモン病という薬害問題覚えてないでしょうか)の技師がその殺菌効果を発見してノーベル賞受賞したのだとか、その後農薬としても使われて、でも土壌汚染がどうたらこうたらと書いてあった。いや、底意地のおかげで?また少し賢くなった。「農薬土に苦し」というわけか。

 で、給食の有無に関していうと、これも市町村の教育委員会の方針次第。だから給食も、センター方式がほとんど?になった今でも、自校方式を貫いているところもあるというわけですが、今の久留米や八女はどうなんでしょう?しつこく言うけど、教育委員会というのは戦後、教育の民主化、地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、文科省の下請機関みたいなことやるんだったら無駄な存在なのです。

中学校の学校給食がないのは、べつに久留米市だけじゃなかよ。福岡市内だって、北九州だって、弁当ばい、かーちゃんべんとう。
福岡市在住、広川出身の後輩が、中学生に給食がある子ども時代を過ごしていたので、中学には当然、学校給食があると思っていたのに、毎日弁当をつくらなくてはならないのでびっくりしたと話してくれた。広川の保護者はいかに自分たちが恵まれているか考えやんと説教されたことがあるもん。
感謝はせんじゃったけど、中学生になったこどもたちに弁当をつくらなくてよかったのは、正直言って助かったよね。

学校給食が始まったのは、貧困のため弁当を持ってくることができない子供がいたからと聞きました。農村部に学校給食が根強いのは貧困層が多かったからでしょうね。
自校方式をセンター方式に切り替えるためには、生徒数が少ないといろいろリスクもあるのです。予算的にね。生徒数の多い都市部はセンター方式が主流です。費用対効果が高いからできることという見方もできます。一番のハードルは現行の調理員を首にするわけにはいかないってこと。それがネックで、自校方式のまま、現在にいたってるところも多いのです。
ちなみ、広川町は段階的に外部委託に切り替える準備段階にはいっていて、調理員のかたが数ヶ月ずつ事務職体験をされているようです。

ろいりーさん、せーこさん。
いろいろとくわしいおはなしをありがとう。
チバガイギー、ひゃあひさしぶり。なつかしい。
かささぎは個人的にチバガイギーとアストラゼネカがなつかしかとです。
けっきょくさ。ひとってじぶんのかんけいしたことしかよくしらないよね。そんでもっていろんな文句いったりしますよね。その逆もね。そんなもんだろね。

で、つかれたのでもうねます。
バッテリー残量ぜろっす。

給食室の匂いって独特で、永遠に覚えていると思います☆
この頃は食品アレルギーの子供とかいなかったように思うけど、環境汚染もあるのでしょうね。
それにしてもDDTをふりかけられてもいまだに元気な私達でよかったです@@
あの時DDTの言った容器を覚えていますか。
左手で抱えて右手で平行にシュッシュッと押すと先端から噴射するしくみのやつ・・☆
昨日は風呂敷頭を実演しようと風呂敷まで持参していましたが、披露できませんでした。
またいづれ(爆)

学校給食の思い出
一つはわさびいりのポテトサラダ。この味が忘れられなくて何度も挑戦するのだけれど、これだ!と言えるものはまだできていない。
二つ目はグループで食卓を囲むスタイル。
入学前年に火災が起きて、何もかもが新しくなっていく時期に入学した。当時の最先端だったろうから見学者も多かった。
肉が食べられなかった私はグループで(5~6人ぐらい)食べる給食に助けられた。太田君やゆりちゃんが肉好きで沢山食べてくれたから。見学者があるときはいかに見つからずに肉をどけるかで苦心した。一度指摘された事があったように思うが見学者の方の指導だったので、おおごとにはならなかった。

変なことを思い出してしまった。(笑)
三潴も弁当持参組。パンの日もあり、子供は多めに金額をいい、それでお小遣いを浮かせたとあとできいた。給食でも弁当でも食べられたらそれでいい。

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コメント

ねえ、鈴木先生ってまんが読んだ。
こんな話よ。
班でむかいあって給食をたべている。ある男子が突如カレーをたべているときに、くそとか、げろとか女子の前で大声でさけび、ごはんをまずくしてしまう。女子は怒り、鈴木先生に相談する。それには実は裏にひめられた事情があった。その事情とは・・・
食事中に言ってはいけないことを叫んでめしをまずくした男子は、とてもしつけの厳格な家に育ったまじめ少年である。それなのに、なぜ。という疑問。その理由を考えていた先生は、給食時間中の観察を通して、ある事実にきづく。
さあ、こっから、おもしろいよお!!
展開はおしえないどこ。笑
行儀というものはじつにさりげないものだから、それを当然として育ったかどうかで許容範囲が狭まりも広がりもする。その男子は向かいの席の女子のひじつき食事が許せなかった。断固。それをずうっと抑圧していたけど、あるときついに我慢できなくなって食事のとき決して言ってはいけないことばをまきちらして復讐した、ってわけです。
これ、だれが悪いとか、いいとかの問題とはまったく次元のちがう話でしょう。これ、とってもよくわかる。

こどものころ。いちばんうるさくしつけられたのは、音をたてるな。ということだった。口をあけてたべたらいけない。でもともだちにはぺちゃぺちゃと音をたててものをたべる子が必ず一人はいた。それ、いやでいやで。でもいえない。いえないということが、小さな子どもごころにもなぜかわかった。
そういうことを漫画にしたてるなんて、すごかろ?

こんばんわ
遅くなったので、今日の夕ご飯は刺身のある定食屋にしました。
わが家の終わりかけごろ作業着の若者が入ってきて4人だと伝え靴を脱ぎました。
彼は普通に上がったあと屈んで靴を前向きにきれいにそろえました。
「ほぉ~☆すばらし~☆」
あとの3人は上がりながら初めから前向きに脱いであがりました。
家庭の躾とはそれぞれに特徴を作りますね^^

 同じ久留米の、歩いて20分ぐらいの距離の所に生まれ育ち、しかも親の職業はどちらもいわゆる商売人、それなのになぜこんなに生活習慣が違うのだろう~と結婚で思い知らされた。うちは比較的自由、それなのに相方は、あ~だこ~だとうるさくて。特にここで話題になっている食べる時のマナーです。いっそ、外国人みたいに異文化関係だったら、お互妥協しあえるかなと思いました。いやはや、今でも「しぇからしかね」と思いつつ、口には出さず、ただ忍耐の日々。
 かささぎさん気になる、中学校での給食の件、私は以下の2つのどちらか、あるいは両方が原因かなと推測しました。正しいかどうかはわからんよ。
①久留米(の中心部)は大規模校が多く、体育館または講堂らしきものさえなく、本来室内でやる運動部も外でだし、剣道・柔道などは近くの公的施設を使ってやり、あまつさえ、入学式・卒業式でさえ、当時近くにあった久商の講堂借りてやった記憶がある。つまり、給食関連設備を作る場所がなかった。同じ久留米市立中なのに、あそこにはあるけどあそこにはない、というわけにもいかなかった。
②給食がなければパン販売が必要になるが、八女では全中学校に販売業者を配置するのが難しかった。

えめさんところのおまごさんをみて感じました。
小さいときからさりげなく仕込まれておられるのだと。お茶にしましても、あんなに小さなときから自然に触れ合わせておけば、お茶独特の異空間ポケットがあたまにできますよね。連句もそうですよ、前田先生のお孫さん、あかちゃんのときから連句にふれておられた。ゆきちゃん、あかんぼのころ、八女の堺屋でのぼんぼり連句にきてくれた。お母さんの前田亜弥さん(西鶴研究家、連句もさすがにうまい。とても美人であります)次に久留米耳納連山のふもとのスパリゾートでの合宿にも来てくださったのですが、そのときゆきちゃんはちょうどえめさんちのお孫ちゃんくらいで、おかあさんのおひざから連衆のおひざにきて、お絵かきをしていました。大人が必死で句をつくっているとき。こういうのが無言の教育だろうとおもった。その座のくうきにふれていた、ってことが。

ろいりーさん。商売人の子ってそうなんでしょうね。
奥様との食事のときの場面が浮かぶようです。
と同時に、山本健吉の妻だった石橋秀野の昭和二十三年に出た句文集の随筆を連想しました。新婚のころの妻の心理。お料理学校でならった最新の自信作を必死で作ってたべさせても夫がよろこぶとは限らない。味噌汁も辛いとかいわれ口をつけよううとしない。新妻はこまってしまって、泣きたくなり、手持ち無沙汰でいつしか新聞をひろげたりするようになった。というようなことが書いてありました。

そろそろ色づき始めましたね♪

食事>>わが家は自営だったので、家族揃って食べるのは元旦だけで、ほかの日のほとんどは祖父母と食事をしていました。
明治生まれの二人はやはり食事中のマナーには厳しかったです。
姿勢、ひじ、お茶碗の抱え方、箸使いの色々、、でもそれができていれば特にうるさいわけではなかったです。嫌いなものもなかったしね。
叔母はハンバーグの時、私と弟を相手にナイフとフォークの使い方をよく特訓したがりました。その時は鬼軍曹の叔母でした(爆)

給食>>学校をお休みしたきお友達にパンだけを届けていなかった?
プリント用の紙に包んで。
今も届けるのかな?

ゑ目さん、届けないと思う、今は。ぱんのゆくえやいかに・・。あのそっけない色気のないぱんがすきだった。で、今も食ぱんはやかないのがいい。なにもつけないの、禁欲的なあじがするから。だんだんそうなってきた。これはなんだろ、って自分がふしぎ。
そりゃそうと。
うちのちびと今夜this is itをみにいってきます。ミッドナイト上映。なかよし友達もつれて。わたしもみるけど、おかあさんは離れて座ってって。苦笑。
どっちかというと、沈まぬ太陽のほうがみたいけど、

いってきました。深夜なのに350席ほどのスタジオ1がほぼ満杯でした。むすこの友人の少年たち5人もいっしょ、言われたとおりうんと離れて座った。
しごとにきびしく、完全主義のマイケル。
こどものころのかおとまったくちがうおとなのマイケル。でもどっちもマイケルなんだよね。じぶんのもとめるものがはっきりしていた。えられるまで妥協はしなかった。
イントロダクションのバックダンサーズオーデションから一気でしたね。少年たちも面白かった、と言ってた。

評判のいい映画だと聞いています。満席でしたか☆
高校生のころ持ってたモータウン全集にマイケル少年の顔がありました。
きれいな伸びやかな声でした☆彡

 「味噌汁も辛いとかいわれ口をつけようとしない」、そんな大それたことは1回も言ったことないでございます。自分が作ったものを、「これおいしかね」とも言わず食っているので不満言われる。そんなこと一々言わずただバリバリと完食するのが食事に対する満足の表現だったので、一言言えば良いとわかっていながら、却ってわざとらしくて言いきらん、でもしょんなかけん、時々言うちゃる。新聞読みながらどころか、テレビ見ながらでさえ許してもらえん。
 子どもの頃は、わが家もほとんど祖父母と食事をしていました。明治生まれの2人は全然厳しくなかった~やはり人それぞれですね。

明治生まれのばあちゃんと子ども時代を過ごしました。食事のしつけはばあちゃんよりも、母の方が厳しかった。でも、洗濯に関してはばあちゃんはことのほかうるさかった。洗濯機がわが家に来てから、タオルや下着がいっしょに洗われるのが、それはそれは許されなかったみたいで、小学生のころから、風呂場で自分の下着と靴下を洗わされ、タオルはタオルだけ洗濯していました。そんなばあちゃんの影響なのでしょうね、いまもって、タオルはタオルだけしか洗濯しない(できない?)わたしです。

えめさん、マイケルさんはほんとにきれいですみきって少しビブラートがかった声でした。踊りもまったく静かでスムーズ、ほかのきんにくもりもりの人たちとはまったく違っていた。一人特別な存在でした。孤独だったろう。スーパースターは早く死ぬのですね。

ろいりーさんのおよめさん、かっこいい。普通の家庭は、すでに堕落している。うち、ながら食事を厳しく言っていたのに、当のおとうちゃんおかあちゃんがテレビみながら食べている。だから、そんだけ厳しく言えるってことは、当然自分もそのおきてをいまだに厳守しているってことで、とてもうつくしいです。
えっとかささぎは、ひとりでたべるときには、本をひろげたまま食べたりもします。最低です。笑
しかも、通勤の運転中に片手でりんごやジャムぱんをたべるので、とってもあぶないしきたないです。これはよいこのみんなはけっしてまねしないでね。(するか!

せいこさん。
お姑さんがすこし心配ですね。
うちの場合、わたしが炊事洗濯をすべてやっていたころ、そうなりかけました。(馬場先生にアルツなりかけ、といわれた)。その後、くすり服用で、食い止めている。一時期は、自分の妹より年をわかくいったり、ものわすれがひどかった。それを救ったのは、わたしの再就職で再びの家事担当となったことではないかとおもいます。

ひめどん。
あなたが言うとおり。
わたしが意地になってなんでも、自分でやりすぎたんだと思う。自分でも可愛げがない嫁だなあと思うけれど、「これ以上、このひとに借りをつくりたくない」という一念で、仕事前に掃除も洗濯も炊事もこなして、残業のときは夕食を準備して仕事に行ってた。勝気といえば、勝気。根性もんといえば根性もん。笑
いまはね、おばあちゃんに食器を洗ってもらってる。自分が食べた分だけね。あとから洗いなおしたくなる状況だけど、ま、よかたいと思って。早くにこんな大らかな気持ちになってたらよかったのにね。

やっぱりなあ。同居の嫁ってそうなるのでしょうね。
母と祖母の関係をずうっと見て育ちました。いえることは、嫁と姑って、愛情ではないけど義務感でびちっとつながっているんだなということです。愛情を無理してもたなくてもしてあげていることが愛情の行為なのだから。母も必死でつくしていました、姑に。
せいこはとってもりっぱです。
おかあさんもあなたを頼ってらっしゃる。
年をとることは、なんとこころぼそいことだろうか。
夫を独り暮らしの母のもとへ返してよかったと思う。

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