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2009年10月25日 (日)

底意地の人呂伊利さんと白い粉談義

こんばんわ。
化粧>>仕事を持ってるとせざるをえませんが、同居の叔母が熱心にお手入れをしていたので、大人になったらそういうものかなと思っていました。
牛乳を飲んだあとは必ず手のひらに瓶の底の残りを出して顔に塗っていました
初めてお化粧をしたのは19歳の時からでした。
当時のほうが今より高いものをつけていました。
最近はちふれや生協のものです^^♪

コーナー違うけど話を変えていい?
、、最近子供たちにシラミが流行ってるでしょう。
で、「ろいりさん」に質問です。
小学生の当時、私達は白い粉をかけられる日があって、頭にかむる風呂敷をもっていったりしました。
夫はろいりさんと同じ久留米市出身ですが、「自分達は町やったけん白い粉(DDT?)とかかけとらん」とか言います。
ろいりさんは白い粉をかけられた経験がありますか?
ひめさん達はどうでしたか?

低学年のころ、たしか一年か二年生だったと思います。DDTをあたまにぱたぱたされました。回転焼きみたいに、「ハイ次、ハイ次」って並んでいる順に。じぶんの番がきたら、どきどきして目をつむって息をとめました。ふろしきは記憶にありません。

博多時代、こどもが小学生のころ、しらみがはやり始めました。でも白い粉はふってもらわなかった。笑
どうやって退治したのかいなね

 私らは頭髪検査のようなのがあって、シラミのいる子だけDDTがかけられてました、それは小4ぐらいの時?
クラスに数名だけで、それで不潔な子という烙印をおされた。
全員が、というのはありません。

小学校・中学校は市町村の教育委員会が管轄しているので、それによる違いでしょう。
それか、八女でシラミが流行っていたからか?(こらいこらいそげなこつがあろうかい。八女で流行っとるなら久留米でも太刀洗でも流行っとろたい。さも八女だけが未開の地、どいなかみたいな烙印ばおしちゃいかんばい。←うちの茂平じっちゃんがエクトプラズムになって底意地の人ろいりさんに文句ゆうてる)。

とにかく教育委員会というのは本来、教育の地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、今みたいに文科省の言うとおりでは、無意味な存在だと、つい避けてるはずの政治・思想的なことを言いたくなった。

 かささぎさんの言う「こどもが小学校のころ」は、DDTの人体に及ぼす有害性が指摘されて、使用禁止されていたからです、たぶん。

広川でも、しらみが復活した時期がありました。
いま30歳の子どもが幼稚園児のころ。

わたし自身の記憶も、ひめどんと同じで、小学校の低学年のころにDDt散布があったような気がする。

それで久留米ってふしぎなんだよ。中学に給食がなかったんだって。どこの中学も。(八女はどこの中学も給食がありました。)
これはどうしてなのでしょうね?予算がなかったからだろうか、そんなことないよね、八女より久留米のほうがおかねもちだし。日本一のぶりぢすとんさんがあるし。
八月いっぱいで首をきられた警備会社がさいごのほうで請け負っていたのが、中学校の改造工事の警備でした。厨房ができるとかで、こんどから給食がはじまるんだといっていた。こんだけアレルギーがふえている時代の給食、大変だろうな。

ろいりさんありがとうございました。
そうでしたか☆彡 検査があってのことでしたか。
あの頃の小学生は全員させられたのだと思っていました。
風呂敷で頭を包む>>普通はタオルでだったかもだけど、うちの学校はきっと当時の先生のアイデアでしょう。
風呂敷のほうが生地の目が詰まっていて体には悪い粉を通しません。
包み方は明日実演してさしあげましょう。粉を吸うことも無く、息も止めなくてよい方法を^^

今シラミが幼稚園や保育園で流行ってるみたいですね。
今日は耳寄りな撃退法を聞きました。
方法は、シャンプーのあとお酢をつけると良いとか。
お酢の効果は夫の水虫で実証済みです

えっ、絵目さんのコメント、ショック。
当時からだにわるいものってわかっていたの。
そんならなんでおしえてくれんのよね。
使いまわしの注射針も、あのせいで肝炎が潜在的にまんえんしたといいます。
でも、まだ、そういう時代だったんですね。
酢ですか。そういや付け句で出したことあります。
竹酢で治る夫の水虫 
 (空想句。夫の名誉のためいいわけ)

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コメント

 「底意地」の意味がわからんで辞書ひいてしもた。八女が未開の地やら思とらんですよ。久留米よりちょっと田畑が多いかと…まあ久留米も広かけんね。シラミについて言えば、今流行の新インフルエンザだって、東京の隣同士の区・市なのに流行ってるところとそうでもないところがあるから、それと似たようなもんでしょ。
 DDTは、敗戦直後にGHQが持ち込んで、引揚者などに使ってたというのは知ってたが、これを機会にWikipediaで調べてみたら、何とのちのチバガイギー社(ほら、スモン病という薬害問題覚えてないでしょうか)の技師がその殺菌効果を発見してノーベル賞受賞したのだとか、その後農薬としても使われて、でも土壌汚染がどうたらこうたらと書いてあった。いや、底意地のおかげで?また少し賢くなった。「農薬土に苦し」というわけか。
 で、給食の有無に関していうと、これも市町村の教育委員会の方針次第。だから給食も、センター方式がほとんど?になった今でも、自校方式を貫いているところもあるというわけですが、今の久留米や八女はどうなんでしょう?しつこく言うけど、教育委員会というのは戦後、教育の民主化、地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、文科省の下請機関みたいなことやるんだったら無駄な存在なのです。

中学校の学校給食がないのは、べつに久留米市だけじゃなかよ。福岡市内だって、北九州だって、弁当ばい、かーちゃんべんとう。
福岡市在住、広川出身の後輩が、中学生に給食がある子ども時代を過ごしていたので、中学には当然、学校給食があると思っていたのに、毎日弁当をつくらなくてはならないのでびっくりしたと話してくれた。広川の保護者はいかに自分たちが恵まれているか考えやんと説教されたことがあるもん。
感謝はせんじゃったけど、中学生になったこどもたちに弁当をつくらなくてよかったのは、正直言って助かったよね。

学校給食が始まったのは、貧困のため弁当を持ってくることができない子供がいたからと聞きました。農村部に学校給食が根強いのは貧困層が多かったからでしょうね。
自校方式をセンター方式に切り替えるためには、生徒数が少ないといろいろリスクもあるのです。予算的にね。生徒数の多い都市部はセンター方式が主流です。費用対効果が高いからできることという見方もできます。一番のハードルは現行の調理員を首にするわけにはいかないってこと。それがネックで、自校方式のまま、現在にいたってるところも多いのです。
ちなみ、広川町は段階的に外部委託に切り替える準備段階にはいっていて、調理員のかたが数ヶ月ずつ事務職体験をされているようです。

ろいりーさん、せーこさん。
いろいろとくわしいおはなしをありがとう。
チバガイギー、ひゃあひさしぶり。なつかしい。
かささぎは個人的にチバガイギーとアストラゼネカがなつかしかとです。
けっきょくさ。ひとってじぶんのかんけいしたことしかよくしらないよね。そんでもっていろんな文句いったりしますよね。その逆もね。そんなもんだろね。

で、つかれたのでもうねます。
バッテリー残量ぜろっす。

給食室の匂いって独特で、永遠に覚えていると思います☆
この頃は食品アレルギーの子供とかいなかったように思うけど、環境汚染もあるのでしょうね。
それにしてもDDTをふりかけられてもいまだに元気な私達でよかったです@@
あの時DDTの言った容器を覚えていますか。
左手で抱えて右手で平行にシュッシュッと押すと先端から噴射するしくみのやつ・・☆
昨日は風呂敷頭を実演しようと風呂敷まで持参していましたが、披露できませんでした。
またいづれ(爆)

学校給食の思い出
一つはわさびいりのポテトサラダ。この味が忘れられなくて何度も挑戦するのだけれど、これだ!と言えるものはまだできていない。
二つ目はグループで食卓を囲むスタイル。
入学前年に火災が起きて、何もかもが新しくなっていく時期に入学した。当時の最先端だったろうから見学者も多かった。
肉が食べられなかった私はグループで(5~6人ぐらい)食べる給食に助けられた。太田君やゆりちゃんが肉好きで沢山食べてくれたから。見学者があるときはいかに見つからずに肉をどけるかで苦心した。一度指摘された事があったように思うが見学者の方の指導だったので、おおごとにはならなかった。

変なことを思い出してしまった。(笑)
三潴も弁当持参組。パンの日もあり、子供は多めに金額をいい、それでお小遣いを浮かせたとあとできいた。給食でも弁当でも食べられたらそれでいい。

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