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2009年10月23日 (金)

追悼 加藤和彦 6 フォークソングとロマンポルノと

さとえりじゃなくてさりえりね^^(さとえりファン♪)
アマデウス>>よい映画でした。
この映画はサリエリがいたからこその映画だと思いました。 ぴったりの役者さんでした☆

サトエリなら知ってますが、サリエリってなにもの?とうきぺでぃあ君にたずねたら、教えてもらいましたが、知りませんでした。笑

坂崎さんが骨董収集家であって骨董市でカメラを売ってたのに遭遇したさくらさんといい、渡邉けんさんが、新聞に投稿していたのを見たかささぎどんといいい、へえ~っと感心させられるばかりです。

坂崎さんのすごいところは若い世代のアーティストと往年のフォーク時代のスターの架け橋になってくれているところ。坂崎さんがいなかったら、吉田拓郎がキンキキッズとタッグを組む番組なんて実現しなかったんじゃないかと思います。

坂崎さんの骨董品の本出てるよ。
明治大正時代のガラスのお皿とか素敵なものばかり。

歴史の道具ということで、靖国神社のミュージアムでも売っています。

子供のころから回りに音楽やものづくりなどが好きな兄弟や親戚のおじさんとかいっぱいいたから・・・・と言ってましたよね。

 高田恭子が加藤和彦の恋人だったかどうかは、単なる噂話ですよ、関西フォーク関係者の。どっちみち「恋は短い夢のようなものだから…」。

で、「ど」がつくという意味はわからんけど、「竹田の子守唄」がフォークソング化したのはちっとも変ではありませぬ(この歌はアマチュア時代の高田恭子らの自主製作LPにも入ってた)。

そもそもFolk songのルーツは米国白人の民謡で、だから日本にもこんないいFolk song=民謡がありまっせ、というわけで、フォークルも「ソーラン節」や「こきりこ節」をフォークソング風にアレンジして歌ってたし、五つの赤い風船は「貝殻節」を、山田パンダやイルカの夫らがメンバーだったシュリークスは「からめ節」を(ちなみに森繁節の「知床旅情」を最初にレコード化したのもこのグループ)…と、数え上げれば結構ある。

で、拓郎・陽水・かぐや姫あたりから、日本のフォークソング・シーンは売れ線狙いが増えて、こんなのフォークじゃないという反発もあって、ユーミンの別にフォークソングじゃなくてもいいよなんて発言もあり、いつしかニュー・ミュージックなる言葉がそれに替わっていって、というのが1970年代の流れ。(かささぎのことば:きゃーなつかし!ニューミュージック、なんて古いことばなんだ)

 神代辰巳が、そして日活ロマンポルノが初めてキネマ旬報ベストテンに現れたのが「一条さゆり 濡れた欲情」、その後、「四畳半襖の裏張り」(かの谷崎潤一郎が書いたのではないかと言われている「…下張り」が原作)など続々と傑作・佳作が出てきたが、ちょっとタイトルがね。(かささぎの声:うんうん。題名きいただけで、ひきますもんね。でも巨乳なんとか爆乳かんとかという類の題名よりは救いがあるよ)。
「青春の蹉跌」も良かったけどこれは一般映画だし。

私が個人的に好きなのは「赫い髪の女」、これがいいのでは?

日活ロマンポルノと言わずに、映画通のふりして神代辰巳監督の、と言えばいいし。
私が好きだった憂歌団が音楽やってるし。
おっと、今調べたら、原作は中上健次だったのか。
ま、レンタルとかで見つかるかどうかがまず問題ですね。
こないだ書いた元文部官僚もたぶん推薦すると思います。

おお。そうだったんですか。
いろいろと知らなかったことを教えて下さって、ろいりさんかたじけないです。
さすが底意地の人ろいりーさん。

映画の題名を教えてくださったのは有難いのですが、八女にはなかろう。
ドヌーヴのインドシナやシェルブールの雨傘さえなかったし、そんなマニアックなのが置いてあるとは思えません。
題名、赤い髪の女、赤赤ですね。中上健次原作。はいわかりました。
意識のすみにおいておきます。

ほかに長男に頼む、という手も考え付きました。
でも断られました。
「張形としての俳句」を書いていたころ、江戸の春画の本をどうしても読む必要に駆られ、買ってきてと長男に頼みましたときは、いやな顔もせず買ってきてくれましたが。
おんなが思うエロスと、おとこの思うエロスとはまるで違っている。よね?
かささぎは独身ですので、女である自意識を保つ必要性をかんじます。
このいいかたはとっても変かもしれませんが、意識しないと女になれない。
そのうえ、おんなでいることは、かささぎにとってはとっても苦しい。

先日むすめが帰省したとき、あのね、子供のころ、おかあさんが化粧をしていなかったのが私はとってもいやだった。と言うのを聞いて、へえそうだったの。と反省させられました。
だいたい、三人も子育てしているときに、化粧なんてしてた?
していなかったよね。
しょうこ。あんたも母親になったらわかるよ。(kasasagi)


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コメント

こんばんわ。
化粧>>仕事を持ってるとせざるをえませんが、同居の叔母が熱心にお手入れをしていたので、大人になったらそういうものかなと思っていました。
牛乳を飲んだあとは必ず手のひらに瓶の底の残りを出して顔に塗っていました
初めてお化粧をしたのは19歳の時からでした。
当時のほうが今より高いものをつけていました。
最近はちふれや生協のものです^^♪

コーナー違うけど話を変えていい?
、、最近子供たちにシラミが流行ってるでしょう。
で、「ろいりさん」に質問です。
小学生の当時、私達は白い粉をかけられる日があって、頭にかむる風呂敷をもっていったりしました。
夫はろいりさんと同じ久留米市出身ですが、「自分達は町やったけん白い粉(DDT?)とかかけとらん」とか言います。
ろいりさんは白い粉をかけられた経験がありますか?
ひめさん達はどうでしたか?

低学年のころ、たしか一年か二年生だったと思います。DDTをあたまにぱたぱたされました。回転焼きみたいに、「ハイ次、ハイ次」って並んでいる順に。じぶんの番がきたら、どきどきして目をつむって息をとめました。ふろしきは記憶にありません。

博多時代、こどもが小学生のころ、しらみがはやり始めました。でも白い粉はふってもらわなかった。笑
どうやって退治したのかいなね


 私らは頭髪検査のようなのがあって、シラミのいる子だけDDTがかけられてました、それは小4ぐらいの時?クラスに数名だけで、それで不潔な子という烙印をおされた。全員が、というのはありません。小学校・中学校は市町村の教育委員会が管轄しているので、それによる違いでしょう。それか、八女でシラミが流行っていたからか?とにかく教育委員会というのは本来、教育の地方分権化、地方自治のために作られた組織なので、今みたいに文科省の言うとおりでは、無意味な存在だと、つい避けてるはずの政治・思想的なことを言いたくなった。
 かささぎさんの言う「こどもが小学校のころ」は、DDTの人体に及ぼす有害性が指摘されて、使用禁止されていたからです、たぶん。

広川でも、しらみが復活した時期がありました。
いま30歳の子どもが幼稚園児のころ。

わたし自身の記憶も、ひめどんと同じで、小学校の低学年のころにDDt散布があったような気がする。

それで久留米ってふしぎなんだよ。中学に給食がなかったんだって。どこの中学も。(八女はどこの中学も給食がありました。)これはどうしてなのでしょうね?予算がなかったからだろうか、そんなことないよね、八女より久留米のほうがおかねもちだし。
八月いっぱいで首をきられた警備会社がさいごのほうで請け負っていたのが、中学校の改造工事の警備でした。厨房ができるとかで、こんどから給食がはじまるんだといっていた。こんだけアレルギーがふえている時代の給食、大変だろうな。

ろいりさんありがとうございました。
そうでしたか☆彡 検査があってのことでしたか。
あの頃の小学生は全員させられたのだと思っていました。
風呂敷で頭を包む>>普通はタオルでだったかもだけど、うちの学校はきっと当時の先生のアイデアでしょう。
風呂敷のほうが生地の目が詰まっていて体には悪い粉を通しません。
包み方は明日実演してさしあげましょう。粉を吸うことも無く、息も止めなくてよい方法を^^

今シラミが幼稚園や保育園で流行ってるみたいですね。
今日は耳寄りな撃退法を聞きました。
方法は、シャンプーのあとお酢をつけると良いとか。
お酢の効果は夫の水虫で実証済みです

えっ、絵目さんのコメント、ショック。
当時からだにわるいものってわかっていたの。
そんならなんでおしえてくれんのよね。
使いまわしの注射針も、あのせいで肝炎が潜在的にまんえんしたといいます。
でも、まだ、そういう時代だったんですね。
酢ですか。そういや付け句で出したことあります。
竹酢で治る夫の水虫 
 (空想句、夫の名誉のためいいわけ)

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