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2009年9月28日 (月)

山本健吉『虚構の衰頽』 3

 「曙や白魚白きこと一寸」「猶見たし花に明けゆく神の顔」の句解においても氏は事実を重視することによって同じ混乱に到達していますが、ここではくだくだしく申しますまい。とにかく芸術というものは作為の世界、虚構の世界、において成立するものであります。俳句には前書を句そのものと不可分の関係において成立しているものもありますが、それでもその作品の価値は一句として成じているかいないか、いわば如何にそれが実生活と袂別した場所に虚構の世界を現実しているか否かにかかっています。虚構とは事実に対する言葉であって、真実に対するものは虚偽です。虚構の中に真実を貫くのが芸術であります。こう言えば僕の言うのが、必ずしも「ミヤコ・ホテル」流のフィクション俳句ではないことがお判りでしょう。あれは新婚初夜の男女としてありそうなことを詠んだまでなのです。「おや、草城氏は最近結婚されたのですか?」とあわて者の俳人たちが目を丸くすればするほど、作者はにやりにやりと満足の笑みを浮かべるといった他愛ないいたずらなのです。誰にでもありそうなことと言うのは、取りも直さず特殊性を持たぬ無性格の作品ということで、言わば作者の真実は毫も貫かれていないということです。
 波郷君がよく「俳句は私小説だ」と言いますが、この言葉も誤解しないで頂きたいものです。氏は何も俳句は身辺雑誌だとも、事実を詠めとも言っているわけではありません。氏の言葉の裏には、少なくとも葛飾善蔵とか嘉村儀多とか、私小説に命を賭けた、倫理的とも言うべき激しい生き方をした作家たちが思い浮かべられています。だとすればこれも氏の俳句に打込もうとする覚悟が吐かせた言葉です。もちろん此処には生活と芸術との対立を一つの生き方で統一しようという意図が見えます。「俳句は文学じゃない」という言葉なぞも、極力作為と虚構とを排したはてに一つの倫理的な世界として俳句を打樹てようとする欲求が見えます。芸の世界、即ち虚構の世界を、生活とすっかりかぶさり合うような地点に打樹てようとしています。そしてそれは作品の世界が実生活とつながることによって存在を主張しようとするのとは全然別のことであります。それも生活とは別の高次の世界の実現であることに違いはありません。四十以後の芭蕉の行き方に、そのような世界の範例を見ているようです。それは一種の「絶対の要求」に外なりません。真摯な芸術家は、常に実現しがたい夢を胸に抱き己れの実現した芸術境地のはたてに「知られざる傑作」を思い描いているものであります。
 僕はこれは波郷君の覚悟であると共に、俳句という文学様式の固有の方法に対する洞察を含んでいると信ずるのであります。氏は誰よりも「純粋俳句」を打樹てようとする熱意に燃えているのです。かつて茅舎・たかし・草田男三氏の鼎談会をやり、編集子はそれを「純粋俳句について」と題しました。これも俳句が和歌でも散文でも絵画でもないその固有の方法を探究することを志したものなのでした。僕がフィクション俳句結構じゃないかなぞと放言するのも言わば波郷君のような「純粋俳句」の使徒がはっきり存在しているから安心して言えるわけなのです。芭蕉だって「冬の日」までは談林的俳諧とフィクション体の世界を長いことうろついていたのだ。否「冬の日」以後といえども連句においてフィクションの花やかな世界を現出しているではないか、現代にも一つぐらい「新談林派」を以って任ずる俳人のグループがあってもいいではないか、と思うのです。そして、俳諧とは自由体であるという本義から言っても、俳諧的世界を拡充しそれを現代に生かす上から言ってもそのことは望ましいと言うのです。

 Sさん、これで「フィクション俳句結構説」という御注文に満足の行くものとなったでしょうか、往年のフィクション俳句のチャンピオン西東三鬼を論ぜずして何のフィクション俳句論ぞやと言われるのですか。御尤もです。だが氏の近作にはいわゆるフィクション体はないようです。とは言っても

 穀象の群を天より見る如く
 雑炊や猫に孤独といふものなし
 限りなく降る雪何をもたらすや

これらの句の言葉の持つ金属的な響きは往年のフィクション体から脱化したものです。これらは作者の生活に取材されたものですが、作者の凝視する世界は生活を離れて、否、作者の体温すらも離れて、色彩のない冷い硬い感触を持った一つの虚構世界を現出しています。本当すらもフィクションめくところ、まさに波郷世界と対照をなします。これくらい情緒や陰翳を殺して言葉の物質性のみによって立っている俳句は外にありません。だから作者の実生活からこれほど袂別した場所に俳句の世界が組立てられていれば、それは完璧なフィクション世界と言ってもよいし、まずその典型的なサンプルと言うに躊躇しません。このことは作者が米の虫をふるいわけたり雑炊をすすったりしている私生活に形而下的にはつながると言うものの、そのような生活感慨をいささかも含まぬあるいは含まぬことを志していることを意味します。(あしたにつづく)。

山本健吉『虚構の衰頽』

『現代俳句』昭和23年1月号より引用

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コメント

ひーっ。今日のはむつかしさ~。
フィクション俳句結構説。これはよくわかる。
事実を詠めばいいものではない。
事実をいかに詩情をもたせて詠うのか。
あるいはそこに物語性をもたせるのか。
これも、けっこう短歌の世界でも論じられるから。

虚構があっていい。虚構おおいにけっこう。と思う。だって、身巡りの事実しか詠まなければ、短歌は、プライベートもろだしの、あるいは個人情報丸出しの文芸になってしまうっちゃもん。そんなこと、やってられないわよ、というのがわたしの本音であります。

西東三鬼の読みにある「生活を感じさせない句」というのは、私の作っているものと真逆で、非難されているような気がした。
俳句を始めてまだ日が浅いから、写生と言うか実写と言うか、なにかがなければ俳句ができない。長く続けていればできる様になるんだろうか。
連句の時人情句が続くと「次は写生句で」といわれる。なかなか書けるものではない。日頃から意識していないとだめなようだ。

せいこさん、ぼん。ただいまー。七時二十分には帰り着きますけどね。最近大発見。母のこと。母は私がいたら食事の用意を何もしない。しかし、こうなってくると(父が病に倒れたり私が仕事)がぜんしゃきっとなって再び六十代みたいな元気を取り戻す。にんげんってへんだよねえ。きもちしだいでからだはころころかわるから。

西東三鬼の句について健吉が書いた批評のことばをかささぎ語で翻訳すると、「自分をつきはなして書いている」というような意味だと思います。

穀象の群を天より見る如く  三鬼

この句をよんだとき浮かんでくるイメージは、米の中から湧き出てくる穀象虫の群れをじっと見下ろしている男の目と、その穀象がいつしか人間の姿をして戦火の中を逃げ惑っているように思え、極小のものを天から見下ろす神の視線にもなっている自分にふと気づく。・・・という二重構造を感じさせる。「天」=極大、「穀象」=極小との対比がさりげなくなされているからだろうし、言い切ってしまわない言葉尻も効果的。

雑炊や猫に孤独といふものなし  三鬼

これは「猫には孤独はない」といいきってしまった強さが、上五にすえた雑炊をひとりわびしく食べている自分の孤独を浮き上がらせる仕掛け。ことさらにはいわない、ものに語らせるのみ。

限りなく降る雪何をもたらすや  三鬼

限りなく降る雪は海に落ちてくだけで、何もかたちを残さない。そんなイメージしかわかないのは、句のもつプラスマイナスゼロ方式の書き方のせいだと思える。限りなく降る雪→無限大プラス。何をもたらすや→なにももたらしはしないだろうという答えを導く無限大マイナス。
この三句をあわせて、三鬼という俳人の特性を分析すると、じぶんのずるさも欲も悪さも悲しさも全部ひっくるめて、遠くから見下ろしている虚無的な俳人像が見えてきます。
かささぎは、今朝だいぶ探しまくりました。以前かいた黒田杏子のだったと思うけど俳句の本にあった、東京三こと秋元不死男へのインタヴューで、秋元が健吉を悪口をいうのがあったんですよね。健吉は戦時中秀野と二人、三鬼にとってもお世話になったのに、恩知らずだった、みたいなことをくどくどと第三者に話している。それを読んで、かささぎはとってもいやな気分になりました。
というのは、その時も書いたのですが、山本健吉は秀野のことに関しても疎開時代の事に関しても、三鬼にはとっても恩義を感じていたと思われるからです。そのことを本に書いてもいる。それなのに、死者に鞭打つようなことを健吉が亡くなってから言い出すなんて、あんまり美しくないな。と感じました。なにか、恨みでもあったのでしょうか。批評家に。
時間切れでとうとう探し出せなかった、あれはたぶん、水上源蔵という丸山豊の上官についての記載をその本で偶然みつけ、書かずにはおれなかったものでした。

写生の句ってほんとうにむつかしいと思う。
なぜか?
事実のみを31文字にしても、へいへいぼんぼんの報告詠になってしまうから。事実に加える自分なりの発見、比喩がなければ「だから、なんなの?」という歌になってしまう。それでも、見たものを観察したものを文字にするという地道で孤独な作業をしないかぎり、短詩系文学の道は拓けないのだと思うようになった。

いっちょまえにスランプになる。
言葉に頼ってばかりの歌作りだったから。

身巡りのことを題材にした短歌を「ただごとうた」と呼ぶ。この「ただごとうた」は、簡単そうで、じつはおくが深い。身めぐりをよく観察しないと生まれてこない。わたしの一番苦手なこと。だからこそ、今年は写実詠、ただごとうたで勝負する。(ち思うたばってん、ぼろくそにやられよりますたい。笑)

せいこのこないだの歌がよかったのに。しつこくいわせてもらうと、どんな名人でもそんなにいつもいつもいい歌がよめるわけではない。ましてやわれらにそんな歌は年にひとつかふたつくらいが関の山。だから、公開ずみだのどうだの言わないで(そんなこただれも気になんかしちゃいないよ)蝶の歌を核にしてイメージをふくらませて二十首そろえたらよかったのに、とかささぎは思ったよ。余計なおせっかいだけどもね。棄てるには惜しい歌でした。虚構のなかの真実がある歌でしたよ。

さて、ようやく発見。発見してよかった。
秋元不死男と鈴木むりおを混同していました。

seikoさん、気づいておられたのですね。
うまくいえませんが、目新しい語を目の前に差し出され、「どうよ。」と迫られている感じがしていたものですから。
目新しい語を見つけることさえ出来ない私が言うのもおこがましいのですが。

わたしはわたしで句ができないでいます。お茶の俳句大会のを読んで、余計に落ち込んでいます。

なんで思い出したか。まず「水上源蔵という名の言霊」という題名を思い出しました。そのタイトルの文章をまず発見。そのあとで問題の文章を書いた記憶があったので、題名は思い出しませんでしたが、丹念に探しました。

おともだちさん。
そりゃ、自覚はありますわよ。笑
自覚してつくってる。
とくに連句では目新しい言葉を使うことが求められるシーンが多いと思っているから。ところが、そればかりやってると、本来の自分の中からつむぎ出したことばで、つまりありふれたことばで、ありふれた、でも、どこか光ってる歌というのがつくれなくなる。これは致命傷ですね。

ひえ~~~かささぎのあたまごしにはげしいおうしゅう・・おうまいがっ。(おうしゅうかっ)あ、おーべーかだった。もうやってないか。

おっしゃるとおり。平易な言葉でどこか光っている歌・・・
俳句は17文字しかないので、ひらがなだけだと選び抜いた言葉でないと何かを伝えられない。だから漢字に頼ってしまう。
それも画数の多い難しげな漢字に。

先輩方もおなじところで足踏みされただろうと思うけど、ここを越えなければ前には進めない。一歩ずつ進むしかない。

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