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2009年9月23日 (水)

水神への接近 4 八女の中島氏

真夜中に起き出して、気になっていることを整理してみる。

このところ戴いた縁のなかにそれはあった。

八女戦国百首和歌『夏日侍(なつひまち)』関連でコメントをいただいた倉敷の中島道夫氏からのお便りに、こう書かれていたことが突然気にかかってくる。

>うちの父も旧姓は中島です。高塚というところに住んでいました。
>中島って姓は八女には多いのかもしれませんね。(姫野)

懐かしい高塚という地名を拝見しました。
 吉田の私どもや、黒木町の田本の中島は高塚と深い関係があります。

中島両家とも、1615年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したとき、旧知の
田中家(筑後柳河藩主、田中吉政)三男が領していた筑後福島に
逃れています。
 大坂城馬廻り七手組(要するに豊臣家の親衛隊、旗本衆)の組頭の一人、
中島式部少輔氏種一門の関係者です。
一部は、大阪の枚方に逃れ、江戸時代は紀州徳川藩の本陣庄屋として
知られています。
 筑後福島に逃れた後、私どもは吉田に定住して、旧吉田氏が管理していた
地域で生活することになっています。内蔵助という官職名を名乗れたのは
氏種の子供の一人であったからです。片田舎の単なる庄屋が名乗れる名前
ではありません。内蔵助といえば、普通、大石内蔵助などを思い出すように
家老クラス(会社でいえば、部長?)の官職名で朝廷から戴くものです。
 高塚には、夏の陣で移ってきた中島一門は多いはずです。私が高塚の
地名との関係を深く知ったのは、田本の典三郎おじが京都大学在籍時の
演習課題で取り上げた家系調査記録論文からです。

姫野さんとは、ご縁がありそうですね。 
ついでに、氏種の前の代は、中島豊後守で、織田家家臣です。犬山城主
織田信清に仕えた後、信長に従っています。現在の、尾張一ノ宮、岐阜
羽島(葉栗郡と中島郡)の木曽川あたりは、尾張中島郡と云われた地域です。
木曽川の氾濫の歴史が当時もあり、田中家や中島の先祖も水とは
格闘していたと容易に想像できます。田中吉政は、愛知県の岡崎城主時、
現在にも残る水路構築と深く関わっています。(中島)

ここで八女を流れる星野川(矢部川支流)の治水にからむ人柱伝説のあるじとなった八女市吉田の庄屋・中島くらのすけ(内蔵助)について、詳しく書かれた資料を貼り付けようと思い、なにか資料はないか。とネットで検索してみましたところ、自分のブログがヒットします。あれ?書いた記憶はないけど・・・。
なんのことはない、竹橋乙四郎が以前調べて書いてくれていたではありませんか。
灯台下暗しとはこのこと。これをよめば、筑後の人柱伝説だけでなく、全国のおなじころの似たような伝説がわかりますので、どうぞみなさま御一読ねがいます。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-e5c8.html

さて、気になっていることをまとめます。
以下の情報は戦国百首和歌の所有者である中島道夫氏(治水のため人柱にたたれた中島内蔵助本家14代当主)からのお便りから、引用して御紹介するものです。

メールでお答えできる部分は、少し書いておきます。

1)なぜ、私の家に百首和歌があるのか?
ご存知のように、この歌会は、戦国時代の筑後の武将が戦いの前に
行ったものと言われています。今伊勢は吉田大神宮として伝わっている
場所にあり、その神宮へ戦勝祈願のために奉納したことになっています。
 天文(後奈良天皇)時代は、各地で戦乱があり、当地でもいくつかの
勢力が互いに群雄割拠していたと思われます。
 吉田を領していた吉田氏(鎌倉地頭の系譜)は、大分を本拠とする
大友家と関係する系統でした。奉納後の詳しい経緯は分かりませんが、
ともかく、和歌は吉田氏の管理下にあったと思われます。
 我が家には、中島の家紋(長剣梅鉢)とともに、大友由来で良く用いられ
ている杏葉(ぎょうよう)紋も家紋(花抱杏葉)として残っています。
杏葉紋でよく知られているのは、京都知恩院の月影杏葉や、肥前鍋島、
柳川立花などです。
 ともかく、以前お話しました大坂夏の陣後、1615年に先祖が吉田に
住み着いた時に、受け継いだものと考えられます。東大の資料編纂所が
所有する筑後関連の資料では、吉田中島の家系についての記載中に、
「吉田氏から故あって中島氏に改名する」と書いてあります。
 我が家は4代続けて養子の家系です。幼児のころから伝え聴く機会が
親の代も余りなかったので、伝承で伝わる事項に不備があるのは仕方
ありません。
 父は、中島本家関連の伝承事項を、新宅の一之おじ(初代の八女市長)
や、その弟第三おじ(海軍少将)から聞いていました。
私も幼心に両おじから、分からないなりの受け留め方ですが何かと教えて
もらっています(私が長峰小学校の低学年の時亡くなりましたが)。

2)百歌存在の確認時期
 実は、我が家に巻物が存在したことは戦前は分かっていました。
戦後、一度父が吉田に戻った後(私共が小学校を過ごしたころ)、おじ達が
家の由来に関する資料を調査していたところ、なかなか見出せませんでした。
久留米の図書館に貸し出していた書類などは、1953年の筑後川大水害で
消失したので、一緒にだめになったのか?などと残念に思っていたようです。
 私がひとり立ちして1980年以降、両親は再度吉田に戻りました。その時、
資料の整理を本格的に行い、改めて百歌の存在が確認できました。
父は、やっと見つけられたと非常に喜んでいました。亡くなったおじ達に
見せてやりたかったと申していました。
 市の文化財にとの話には、当時八女市の文化財委員をされていた、杉町で
絵の教室をされている杉山洋先生(坂本繁二郎の弟子)が関係されています。
解読を松崎英一先生に依頼し、関連書類を作成してもらったようです。
100首というのに、99首しかないことや、文字の一部が解読困難なところも
あったようですが、ともかく和歌の存在と文言は明らかになりました。
 発見当時、巻物は無残な状況で、広げられない状態だったようです。
義理の父の趣味が高じて、表具の技術を身に付けていたことも幸いして、
百首和歌は上手に修復でき、全体を広げて見ることが可能になりました。
なお、資料登録時にカラーコピーがなされていますので、かささぎの旗では
その写しを利用されているものと推察します。(中島道夫)

▼かささぎのひとりごと

縁というのは奥深い。
中島道夫氏に教えていただいて知ったのですが、山本健吉も中島一族につながり、最近私の父のがんをみつけてもらった胃腸科の先生も中島一族らしく、そしていまネット検索で矢部川関連を調べていて出会ったサイト「筑後川水系ネット」ということばに思い出した筑後川水系事務所、ああそういえば、若いころここで半年近くバイトをしたっけな。父の実家である高塚の中島家の二女が嫁した人が今そこで所長を勤めていることも、もはや無関係だとは思えなくなってきたかささぎです。(ちなみに矢部川に関する史料は筑後川ほどは残っていないらしいのは、単に書き残す余裕がなかったんだろうか、文字を持っている階層が少なかったんだろうか。文化というのは、書き残されたかどうかによるところが大きいとつくづく思う)。

そういう縁を今しみじみおもうとき、かささぎの旗がこういうことをなんとなくやり始めたことも又、理由のあることなんだろうかと思わずにいられません。

この中島氏の返信のなかに、そして乙四郎のしらべたことのなかに、かささぎが百首和歌へ一歩でも近づきたいと今年せっせと打ち込んだ、鶴崎裕雄先生の『連歌師ー政治的な、あまりにも政治的な人たち』で取り上げてあった連歌師たちと武士の付き合いを想像します。織田一族。伊勢にも中島。人柱。

すこしずつ、すこしずつ。みえてくるもの。

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コメント

いま、ひょっこり思い出しました。
倉敷の中島先生。ごらんになられることが、いつかあるかもしれません。それで、ここへ書き込みます。
きのう、私は八女の文化財のことに最も詳しいと思われる杉山洋先生(85歳)を用があってたずねました。その会話のなかで、先生のご先祖とおぼしき、初代八女市長の中島氏の話がでてまいりました。
とても立派な方だったそうです。杉山先生はその市長のもとで働かれていたそうです。市長直々に命じられて、古墳の石人石馬の写生をやっていた、とのこと。だから、どの石人がどこにあったかまでよく覚えておられ、それが意外なところに移っていたら、確認に出かけたと。
また、八女の火葬場、昔は川崎地区にあったそうです。そこはよくどざえもんがながれつく場所だったそうです。川崎、すなわち、くらのすけさんが人柱にたたれたところではありますまいか。

これを久しぶりに今日読み返しまして、はっと気づきました。そうかそうか。ここに書いてありました。
「氏種の前の代は、中島豊後守で、織田家家臣です。犬山城主
織田信清に仕えた後、信長に従っています。現在の、尾張一ノ宮、岐阜
羽島(葉栗郡と中島郡)の木曽川あたりは、尾張中島郡と云われた地域です。」
うちの長男、岐阜に半年行っていたことがありまして、そこへ私も尋ねていったとき、大きな川を二つ渡りました。岐阜羽島の駅のなんにもない、広々とした駅前のさびしさ。それとともに、滔滔たる大河が二つもあったどこか恐ろしげな記憶。それがどこかに残っていたから、犬山祭りっていう祭りからくりにひきつけて八女の灯篭人形も考えてみたかったのかもしれません。あたまはごくかすかな断片でも、わりときちんと仕舞っているもののようです。

 岐阜羽島駅と聞いてすぐ思い出すのは、典型的な政治家路線による政治家駅。東海道新幹線はここを通したために、関ヶ原に大雪が降るとすぐ止まってしまうようになった、と聞いたことがあります。真偽のほどは定かではないですが。
 加山雄三の全盛期、「何処へ」という映画を見に行ったら、ラストシーン、どこかの閑散とした新幹線の駅で、加山雄三が踊り出すというのがあって、何でこんな田舎の駅に新幹線がと思ったが、これが岐阜羽島駅だったらしい。九州新幹線の某駅もそうなるのかな?

筑後船小屋駅は、時々、遠巻きに見ています。
なぜ遠巻きかというと、近づくためのアクセスがよくわからないため。
周辺に人口がなく、道路もない。
   ↓

ろいりーさん。そん加山ゆうぞうのいづこへ、題名がかっこいい。ちょっと思い出しそうですが・・・。
だれもいない駅で踊りだすゆうぞうさん・・・いや、わすれた。きっぱり。そんなのおぼえちゃいねえぜ。すんまへん。
岐阜羽島、で一句よむべな。とはおもっている。なんか雰囲気あるから。どこか浮羽郡と通じる。

岐阜羽島

文字だけ見ると、日本テレビの羽鳥アナウンサー、(大ファン)を思いました。

突然ですが。
さっき、ふと気になり、長剣梅鉢紋というのをしらべてみましたら、おや。安武鑑教とおなじ紋みたいです。中島家は安武家や大分の仲家とも紋がおなじなんですね。仲家、と書いてあったから、かささぎは以前連句でごいっしょしたことのある大分の元公務員のお方の温顔がうかんだ。山国町史という記念誌を下さった方。
安武鑑教は百首和歌に名を残している武士で、いえ、苗字までは書かれていなかったのですが、矢野一貞がそう書いていて、だけどそれは正しくないような気もしますが(というのはもしこの人ならそして干支が正しいなら、年号が間違いになるから。あきのりは死んだ年がわかるらしくて)
今日、むすこの最後の運動会にいって、そこ、福島城のなにかの遺跡ちかくで、案内板があって、それを撮ってアップしたのですが、。
私の父方の先祖が急に気になりだしました。父の父は左官でした、これは何度も書きました。で、おばにきくと、父の父のそのまた父も左官の棟梁だったそうです。そして仕事は主に福島町。町家がいくつも残っていますが、あれらはみな高塚の中島がむかしは手がけていたそうです。似たしつらえです。
で、おもうのは、どこでそんな町家づくりのあれこれを学んだのだろう。だれにもきけないことではありますが。ひとりでおもうだけですけど。
高塚とか酒井田に落ち延びているんですね。
であれば、その一族の可能性はあるんだ。
でも、まだ家紋さえたしかめていません。
こんどみせてもらってきます。あんまり興味が無かったのが、急にきになりだしました。

ええっと。
こないだ、「あらこ」検索でかささぎの旗においで下さった方がありました。
荒籠とかきます。川の流れをコントロールする築堤術の一つみたいで、高橋甲四郎先生のお宅をたずねたとき、矢部川と花宗川とに分岐するあたりでみつけたので、写真におさめてアップしたことがありました。
で、おなじころ。砂漠に井戸を掘った医師、中村哲先生が洪水の川を修復する写真を新聞でみました。それがこのあらこにすこしにていた。

おもいついたときに記しておかねば忘れます。

明善堂を興した八女川崎の本荘星川(ほんじょうせいせん)。ほしかわと名乗ったのは、星野川のそばで育ったからなのでしょうね。せいせん。いい名前です。星の川、みるきーうぇいみたいです。

水神への接近を面白く読ませて頂いています。
私の先祖も八女郡忠見村大字本に住んでいた事が分かりました。現在は八女市本という住所になっていますが このあたりには今も中島一族が沢山住んでおられる様です。 この一族も「中島氏種」と関係があるのですか?

精秀丸さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
中島氏種と何か関係があるのですかって、いきなり尋ねられても。
はいありますよ。と答えたいかささぎです。

算数で同類項で括るというわざがありますが、同姓もなにかそれに似た関係があるのだろうと思います。これ、かささぎの偏見でも。

かささぎさん早速のコメント有難うございます。年末になると庭の木の剪定草とり忘年会等でPCを見る時間が有りませんでした。
私の質問も考えてみれば かささぎさんがおっしゃる様になんとも漠然とした質問でしたね。この水神への接近を見てから 筑紫次郎の伝説紀行の「庄屋と山の井堰」を読みました。民や後世の為に人柱となる事を考え左結びの草履の緒を自ら結んで人柱になった「中島内蔵助」。感銘を受けました。私も中島ですので先祖が関係ある無しに関わらずコメントを書いた次第です。

精神が優秀な丸。
せいしゅうまる。
おもいつきもしない芸名ですね。
中島さん。
わたしの父もここへ養子にこなければ、中島のままだったんですが、姫野家に十八で養子に入ったので、あまり中島のことは思わずに生きてきました。
じぶんはその人柱伝説を疑いましたよ。
素直な人間ではないというのは、情けないです。
ではよいお年を。またおいでくださいませ。

中島くらのすけさんちは吉田家。
というので、ふと思い出した記事。
杉山洋先生の記事です。はりつけますね。
これ、ブックマークしてたのですが、今よみかえしたら、平のなんとかまでがでてきます。
歴史に詳しい方々が読まれたら、面白いものでしょうね。かささぎはむちもうまい。

ではいってきます。しごと、今日は少し早い。

久しぶりにお邪魔します。個人的な事ですが、最近少しづつ思いだしてくる事があり気になって仕方有りませんので書きました。それは亡き父から私が中学生の頃に聞いた事ですが 「(中島家の昔は八女で大百姓だった)また(駅まで行くのに他人の土地は通らずに行けた)と祖母が言っていたぞ とか 下人も居た・・・」という事でしたが、大百姓というのが本当に存在していたのか、庄屋や小作人は知っていますが「大百姓」とは聞いた事がないし、駅とは現在何駅なのかさっぱり分かりません。ただ明治40年2月まで忠見村にいた中島次市 妻はミサという事までしか分からなくて・・・。この人達の暮らしぶりが気になっています。ずいぶん昔の人探しですがどなたか多少なりとも知っておられましたら教えて頂きたいと思います。この欄を個人的な事に使い申し分ないのですがお許しを願います。

忠見村、中島次市、ミサ夫妻。
明治四十年。
むすこの親友にただみ郵便局の息子さんがいますが、その親御さんも私と同世代だから、おそらくそんな昔のことはご存知ないであろうと思います。
わが祖母(明治29年生)が生きていたら、もしやジイチさんとミサさんについて何か知っていたかもしれない。
杉山洋おんじいなら、あるいはしっていらっっしゃるかもしれません。調べることに関して素晴らしい能力を持っておられますので。

大百姓という言い方、どのくらいから大百姓といえたのかなあ。(発音、おおびゃくしょうじゃなく、ううびゃくしょう、です。そこんとこよろしく)
ある俳人を調べていたとき、奈良の天理のにしいどんど、漢字で書くと、西井戸堂、という地の大庄屋の家で生れ育った人ということだった。じっさいにその地までいきました。そしたら、自分ちらへんと余り変わらぬ農村風景がありました。
庄屋というのは小作を束ねる家、大がつくとさらに大きいのでしょうから、ね。苗字帯刀を許された。

すみません。毎度、なんとも知識不足で、ここにもしご隠居がいたら、カカカカと大口あけてわらわれるにちがいありません。(きょろきょろ、いないようです。ああよかった。)
駅までが自分ちの土地、って、どの駅かと聞かれましてもねえ。
今古賀駅。上妻駅。かな?

おつかれさまです。
矢部線は戦後に出来たので、たぶん「南筑軌道」の駅のことだと思います。
現在の442号線上を走っていて最初は馬車で途中から焼玉エンジン・・
子供の頃、祖母から聞かされていましたが祖母は「ポンポン軌道」と言ってました。焼玉エンジンがポンポンと音を立てていたのでしょうか・・
駅は今のバス停の名前といっしょだと思います。だから、ご質問の駅名は「忠見」かな?
軌道同士がすれ違う場所があって、そこは「すりがい」と呼び、商店だったのでお使いに行く時も「すりがいの店へ」と・・

↑軌道同士じゃなくて車両同士

おお!えめさん、すごか!!
あのね、せいしゅうまるさんのこのコメントをよんで、私が真っ先に連想したのは、南蛮仏の中の著者回想。442号のそばの忠見の家の二階に寝っ転がって、通りをゆく車両をみている、その先のはるかなまだ見ぬものを夢見ている小説家。。。。

と、ここまで書いて、確認したくなり、本棚を探し回り左奥の最上段から割と短時間で見つけ出した中薗英助著「南蛮仏」。
すると、筑紫広門の信仰のこと、その他戦国の世の人の動き、上妻のあれこれ、一度は目を通していた本ですが、そのころはまだ見えていなかった部分がたくさん目に飛び込んできて、ああこれはもういちど読まねば到底なにもわかったことにはならんなあと。

えめさん、たしかにそうでした。
ポンポン軌道とかかれているよ。

その部分、抜きます、

山の庄屋と呼ばれる埜田家かた分家して中薗姓を名乗り、明治十一年にその地方で唯一の県道となった街道筋に。。。。
母がえいきシャーンえいきシャーンと少年の名、英規を呼ぶより早く、ゆるやかな坂道になった街道の方から、はげしい爆発音が起こってくる。風上から坂を上ってくるポンポン軌道である。(10ページ)

おはようございます。
ミニストップ(住所・本)の交差点を東に進むとカーブしながら小学校の前を通りちょうど「忠見バス停」に着きます。この道は古道でしょうね。 周辺にも歴史がありそうですね。
南蛮仏はやせ仏のことですか? まだ見たことがありませんが・・

私はすごい土地に生まれたなあとわくわくしてる

エメさんが書いてくれなければ、というよりせいしゅうまるさんのコメントがなければ、442号にぽんぽん軌道が走っていたとかは思いもしませんでした。軌道といえば、久留米から八女を走っていた三井軌道のことしか知らなかった。だから、2002年の6月25日刊行のこのやせ仏にまつわる物語を読んだとき、え?442号からぽんぽん軌道が見えたんだ、と、自分の中で勝手に、軌道=旧やべ線鉄道と置き換えて読んでいました。

えめさん,
こんど見に行こうよね、やせ仏。
今日おみや掃除だったんですが、うちの寺田ムラのお観音堂に毛が生えたくらいのお堂なんです。失礼ながら。
それより、エメさんは絶対読むべし、この本。
手元に置いておくべし。

中薗英助、これ一冊しかもってませんが、すごいと想う、その情熱が。調べること、想像すること。

うちの娘、小学校五年から六年にかけて不登校となり、まるまる一年半ほど家にいた、それで独り八女に帰ってきてた、中一になり、南中で中園という姓の先生に受け持っていただきました。
いい先生でした。ほんとうに。
毎日人を差し向けてくださったし、ご自分でも祥子を励ましにみえた。そうして、行けるようになったんですが、その中園先生も忠見でした。きっと一族のお方ではなかったろうか。やせ仏さんの近くでした。
そっちの中園先生は定年後、岩戸山資料館に勤められていました。今もお元気でいらっしゃることを祈っています。おかげで娘は元気です、と。

>>その本、いつか貸してくださいね。やせ仏、今日でもいいですよ。
現在の忠見バス停は少し移動してるかもしれません。 3差路の付近だったんじゃないでしょうか。
軌道時代もバスの初期時代も切符を買って乗るのでタバコ屋さんや雑貨、お菓子などの商店があった場所が駅でしょうね。

五十年遡れば、知らない道や文物であふれますね。
でも、こどもの時にふれてた場の雰囲気は記憶のどこかにかすかに残っているようにおもう。むかしの福島町のにぎわい、とか。

うんうん☆彡

うわー!話が弾んでいますね。「ポンポン軌道」写真があれば見てみたいですね これを復元し少しなりとも走らせれば観光の目玉にもなりそうですね。やせ仏様も昔人の何らかの願いがこめられて鎮座しておられると思うとそのいわれも知っておきたいような・・・。八女にも色々な事があったのですね郷土史家に聞けばもっともっと面白い話が出てきそうな。
 父の話がどこまで本当なのか疑問ですが先祖にも良い人や嫌われた人もいたはずで 又 現在は血の繋がった遠い遠い親戚の人達に迷惑がかかるかも知れない事を考えるとあまり先祖の名前をだすのも気が引けるのですが 良い人だった事だけを信じて名を出しました。次市では分からないだろうと覚悟はしておりますが八女に残った次市の子である喜十郎という人は祖父の兄のようです。わたしは次市から以前の家系を知りたいのですが無理かも知れませんネ。かささぎさんは氏神様の清掃等しておられますのできっと良いことがあると思います。

精秀丸さん
コメントありがとうございます  返信おくれてごめんなさい
気になることがあれば書いておかれてください。
どなたかどこかから返信があるやもしれません。
いまのところ、わたしの聞いた範囲では。
お坊さんに尋ねてみました、うちの広川のお寺(祖母は六田のお寺と呼んでいた)は五百年続いているので、たいがいのことはご存知です、そのお坊さんが忠見に中島は少ないとおっしゃった、少なくとも檀家にはないそうです。浄土真宗のお寺ですんで、そうじゃない場合はわかりません。武家や町方とかですと浄土宗が多いですから。
電話帳でみますと、しかし、四件ほど見つかりました。その中にもしや縁戚のかたがいらっしゃるかもしれませんね。とりあえず、ここまで。また何かわかりましたら、書きます。

かささぎさん気にかけて下さって有難うございます。またエメさんコメント有難うございます。ポンポン軌道をネットで調べましたら[八女寸寸語(八女公式ホームページ)]に写真が載っています。何ともユニークな南筑軌道ですね 羽犬塚.黒木間を90分で結んだと書いてあります。こんな軌道はどこにも残っていないはずです。復元の価値ありそうですが・・・。駅名も忠見ではと教えて頂きましたが、私が先祖探しで忠見界隈を聞き回っても今の世の中では誰も本気で相手して下さるはずはないと思い二の足を踏んでいます。しかし八女は歴史がある町ですね。旧家も多く
残っているようで。   どなたからでも返信がある事を楽しみにしています。

ここ、久々に読み返しました。
ありがとうございました。

中島氏種 家紋

中島性について話を少しだけ質問してもいいですか?もし、お気づきになられましたらメール下さいませ!

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