無料ブログはココログ

« 朝、メールが鳴る | トップページ | 政権交代と医療(8)  乙四郎元官僚語録 »

2009年9月 7日 (月)

朝顔のむらさき

朝顔

 筑後国の「一の宮」久留米の高良大社は、筑後国中の僧侶、神官の総元締であった。
同時に盲僧の元締でもあった。多いときは、二、三千人を数える盲僧を擁し養っていた。
生活費や大社の維持費をまかなうため、芸を仕込んでいた。物語台本を与え、琵琶を持たせ弾じ語らせていた。そして村から村へ娯楽に乏しい山村をまわらせ、町部を渡り歩かせた。そのお布施は高良大社に納め、不自由な身を養ってもらっていた。
二、三千人の盲僧は、高良大社の管理化にあり、盲人座を作ってその監督を受けていました。

 北川藤左衛門尉の作といわれる『黒木物語』は、盲僧の弾じる台本だった。
黒木物語の編集は、紀州国高野山で行われたものとも考えられる。
まず高良大社の社僧を黒木地方へ遣わし、鎌倉初期からの素材=話のもとになるものを集めさせ、それを紀州にもっていったと考えられる。
 高野山には、高野比丘尼(女僧)や高野聖(学僧)という唱導文芸家がいて、教祖的文学を創作して広めていた。弘法大使の伝説がそうしてひろまり、ほかにも数多い。

 以上『貞享版 黒木物語』(和田重雄著)の前書より抜粋

コメント

これを読んでやっと腑に落ちた。
君が代を国歌とした乙骨太郎乙のエピソード中、それならおいどんの琵琶歌のなかにもごわす。といったことばが出てきた理由。
それとまだ全く調べていないけれど、水天宮に神として祀られている入水した安徳天皇の御付のあぜちの局関連の物語は平家物語として琵琶法師が伝えたものの中にあるんだろうなということに。
盲僧二、三千人とはまたすごい数。

守武と筑後が繋がった!
俳諧史は、荒木田守武の時代と松永貞徳の時代との間に半世紀強の開きがありますが、鑑実の俳諧興行は、その空白期に行われています。
仮説ですが、守武の俳諧は、その後、盲僧の世界で広まり、筑後の盲僧へ伝わったのでは。
空白期の俳談に「望一千句」「望一後千句」を著した伊勢山田の杉田望一(杉本望一?)という人(1548~1630)がおり、盲人だったらしい。

へえ、ここでつながったとはねえ。
かささぎと乙。
いや、あんたらすごいわ。
執念だねえ。
盲僧から盲僧へ。
その風景を想像すると、胸にしみるなあ。

おつしろう。せいこ。ぼん。それから古賀の音彦さん。らんちゃん。前田先生、私、調さん。これで予定の人数の8人になる。翌朝早くおとひこさんは仕事で帰る、でもエメさんがみえる。すみたからさんもきて、とまってくれないかな。部屋はまだ余裕がある。こういうときじゃないと、めったにゆっくり話もできない。おいでよ。だいたい、医家の妻なんてほうけんてきにもほどがある。
しゃいんりょこうにもつれていってもらえない。かわいそすぎる。だから、おいでよ。うそでもなんでもついて堂々とでておいでよ。夫や子は時にひとりにするべき。ほたるべき。
それから。この↑のコメントよんでおもった。
おつしろうもその場にいなければいかんとおもう。
星野一族の調さんが見えます。
さっきメールをよんだ。
失職中で英文の論文をひとつ抱えているだけの身とのこと。十日から朝倉(本籍地)、11日は星野、12,13は黒木(連句につきあうって)それから佐賀唐津方面へもいって15日ころに関東へかえるって予定らしく。
乙四郎もおってほしい、調さんにあってほしい。
きっと発見と展開があるような気がする。
なんだか、きもちはだんだん最強になってきた。
がるる!!でとろいとめたるしてぃの松山ケンイチみたく。

調さんが参加してくださるのはとても嬉しい事です。「かささぎの旗」おそるべし。
乙さんの参加もお願いします。
そらんさんが来られないのが残念です。

« 朝、メールが鳴る | トップページ | 政権交代と医療(8)  乙四郎元官僚語録 »

コメント

百人一首の蝉丸も盲僧だった。
日本文芸、文化における盲僧の役割は大きそう。
平家物語のスタンダード「覚一本」をまとめた耳なし芳一のモデル盲僧、明石覚一(1299-1371)は、男性盲人の互助組織である当道座を開いた人。
盲人組織は、衆分、座頭、勾当、検校などの73の階級に分かれ、覚一は最高位の惣検校。
覚一にあやかった名の盲僧が多いとのこと。
望一千句の望一も盲僧(勾当)。
八女戦国百首に7首を納めている「覚元」を調べていたとき、頼朝の時代の美濃坊覚元という盲僧(座頭)がヒットしたが、時代が違うので無視していた。

「覚元」は高良大社か高野山の盲僧ではなかろうか。

ねられん。
海軍ってずっとずうっと反省会をしていたんだね。
戦後。
それをみてしまって。ちょうど特攻隊についての。
みずからの崇高な意志で若者は志願し。
それはそう仕向けられたから。上層部の意志で。
「やましき沈黙」

おつしろう。
盲僧の組織を想像すると、ってあんまり想像できないけど、盲僧がいたんじゃないかというその想像はありうる。
ところで。連句的にとびます。
きくち検校って人がでてきました。あの筑紫舞のはなしのなかで。あの人の伝統こそがおそらくは盲僧にだけ伝わってきた伝統なんじゃなかろうか。ふしぎなはなしで、一度舞をみてみたいものです。たしか、西村光寿斉という舞踊家の。

パソコンをなんとかしなきゃ、重くて重くて時間が惜しい。字の色とか間取りが不自由。いうことをきかない。
ところで、上記コメントのきくち検校は、菊邑検校のまちがい、西村は西山村のまちがいでした。きくむらけんぎょうってひとは、びわではなく、筝曲家とあったような。それとも琴だったかな。
黒木物語の戦国時代の歴史をきちんと引用したくなってきた。
天文年間ではなくそのひとつ先の天正年間です。黒木猫尾城が落城して、長女は高良大社の座主の内室になり、次女は座主のもとからのち、毛利秀包の家臣の妻になる。と書かれています。
この間の消息がとてもおもしろい。
なんでしらなかったのだろう。

ここに繋がる。

すごいなあ。


コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 朝顔のむらさき:

« 朝、メールが鳴る | トップページ | 政権交代と医療(8)  乙四郎元官僚語録 »

最近のトラックバック

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31