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2009年9月10日 (木)

水神への接近  3  「黒木物語」

『黒木物語』についての疑問と考え方

  和田 重雄

(一) 黒木築地殿前霊社の生木焚き神事(12月18日)について

1 地元の説

「黒木物語」の記述のとおり、築地の瀬(窪)にうちあげられた城主の正室(奥方)春日局の蘇生を願って、生木を焚き身体を温めたとする説。

2 氏神と水神に感謝する行事説

11月18日(築地御前霊社でも、従来は11月18日であったが、一月遅らし12月18日となる)に行われる行事で、全国的な信仰行事です。平安時代から宮中の行事として冷泉家の座敷で行われていたのが、民間にまで伝わったものです。神への感謝を表す行事です。
 築地御前霊社の生木焚行事は、春日局入水物語と一体となり、永く実施されたものです。生命をもつ神聖な生木を焚き、矢部川の水神を迎え、感謝と祈願をこめた行事です。
 当日、築地の氏子、早朝より大木を伐り集め、山積にして火をつけます。上空へと立ち昇る白煙と、淡紅の火焔は水神を招きます。午後は氏子全員参拝し、残り火をかこんでの酒宴で、他所にみられない珍しい、美しい伝統神事です。

3 黒木大蔵太輔源助能(おおくらだゆうみなもとのすけよし)は、薩摩国大根占(おおねじめ)、高城城主で、源頼朝の命で黒木に移った。当時は平家の城であった猫尾の城を攻め、二年三ヶ月の後、これを落とした とあります。
 平家方の将兵をうち亡ぼして城主になった助能は、さっそくこの地の開発にかかったのです。ところが黒木、豊岡盆地を東西に流れる、急流矢部川の氾濫、旱魃、に何回も悩まされ失敗しました。  これを平家の怨霊のたたりとおそれた。

 この考え方が、「黒木物語」になり、待宵小侍従が語られ、黒木四郎定善の死となり、更に築地御前霊社の出現となったという説。
 「生木焚の行事」も春日局らの怨霊を鎮めるための行事だとも考えれます。この考え方から「黒木物語」を「筑後の平家物語」と呼ぶ研究者もあります。
 築地御前霊社の御本尊、木造春日局坐像は、三面宝冠を戴く観音さまですが、印は釈迦の定印です。蓮台でなく畳座です。
 左右の脇侍は、乳母の紅梅(老婆)と女房頭の濃君(こききみ)です。ともに神像です。当時は神仏混交の時代で、この姿でよいのです。
 春日局像の造立年月日は、赤外線撮影(九州歴史資料館)により、慶安三年1650、12月27日と判明しました。第二代目の仏像と思います。

 郷土の史話 『貞享版 黒木物語』和田重雄・著より引用しました。
 

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