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2009年8月 5日 (水)

ひさかたの(枕詞じゃないよ)乙四郎語録のまとめ

勘違いなのかどうか、私も小学校の時、日食観測を学校でした記憶があります。ガラスにすすをつけて。
あのわくわくをもう一度と、木曜日に星の文化館まで日食グラスを買いに行きました。電話で聞いたら「2日前に200個仕入れたら、1日で100個売れました。すぐ来たほうがいいですよ。」と言うので。帰ってから長期天気予報を見たら、22日は雨マーク。がっくりしていましたが、今、明日の予報を見たら、何と「晴れ」!降水確率ゼロ!見れるかもしれませんね。

2年続けて皆既日食が観察された年があります。
西暦247年3月24日の夕方。
太陽が欠けながら沈み、月明かりもなく夜通し真っ暗闇。さぞかし人々は、先行き不安になったことでしょう。
天文計算上のことですが、史実として、この日に日食があったことは『魏志』斉王紀に記されているようです。
計算上、インドから韓国あたりまでが皆既日食で、福岡では93%、奈良では56%の部分日食だったそうです。地球の自転が少しずつ遅れてきているそうなので若干の計算誤差があり得ます。皆既日食帯が九州北部くらいまでずれていた可能性はありますが、奈良では世界を暗くするほどのことはない程度の日食でインパクトは弱いでしょう。
翌年、西暦248年9月5日の朝。太陽が欠けたまま昇ってきました。
福岡では84%、奈良では42%の部分日食でした。
これらの年は卑弥呼の死亡推定年です。
卑弥呼は日食を予測し損なって権威失墜し失脚したという説(ネット上にたくさん出てきました)がありますが、卑弥呼の死と日食との関連が深いということであれば、九州説が俄然有利となってきます。

まりさん。今日上司(えーと65くらい)が「じぶんも小学校低学年のとき、運動場で日食の観測をした思い出がある。唐津小学校」というはなしをしてくれました。今六十代の人の低学年のころっていつだろ。
おつしろうが書いてくれた資料のきっと昭和33ねんのだ、と思ったけど、計算があわないな。

星の文化館までも買いにいったの。すごいね。久留米のほうが近くない。六月だったっけ。らんちゃんと星野へいったとき、そこまで登った(車を途中にとめて)けど、あのとき、たくさんアプローチに見事なヤマボウシが咲いていました。みずきの花とにてるけど、真っ白でね。きれいかったよ。

まりさんが記憶してるってことはよ、わたしたちより一学年下だし、ひょっとしたら、おつしろうの記憶もほんとうにあったことかもしれないね。

おつしろう。
ひみこの時代の日食をしらべてくれてありがとう。
九州説はゆるがない。

今日の講演会は盛会だったそうで、おめでとう。
そのうち、親衛隊ができるかもしれないね。
いちどもきいたことがないので、きいてみたかった。
せっかくだから、ここに代表で東妙寺らんのコメントを、出血大サービス。やきもちを焼く御仁もいるかもしれんけど、かんにんえ。

「章さんの講座とても解りやすく良かったよ!
この世界から戦争をなくすために~
老婦人たちにも評判良かったみたいよ。また機会あったら講座受けたい(ぴーすさいん)」

イモトアヤコよりたくさんの国を訪問した・・・

のツカミで老婦人たちにわかってもらえたかどうか。
アフリカ植民地支配
ロシア語講座
タイ語講座
カンボジア国史
磐井の虐殺
ヒンズー教講座
ユダヤ教講座
イスラム教講座
国際協力論
・・・こんだけの話題を80分間にぎゅうぎゅう詰め込みました。

イモトアヤコさんのお名前が出たとき、あちらこちらで、「ああ、あの眉毛がつながってる人」のリアクションが出ておりまして、マスメディアのちからってすごいなと妙なところで感心しました。
おばちゃまたちからも、わかりやすかった。もう少し聞きたかった。また聞きたい。の声が主催者のほうへ届けられたと聞きました。
まったく眠気を感じさせない80分。
乙さん、学長はさすがですねえ。

井本あやこさんて、このひと!

参照リンク記事:

「戦争をなくすために」31文字倉庫(山下整子ブログ)
http://tanka-souko.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-25e1.html

先進国とはあまり縁がないのですが、ザルツブルグへは2回も行きました。
2回目の訪問は8月でした。ザルツブルグ音楽祭の開催中で、和服姿のセレブも見かけました。
サウンド・オブ・ミュージックを観てなかったら、おそらく訪れることはなかったであろう古都です。映画の影響って大きい。
八女の町並みはこの数十年ですっかり変貌してしまったけれど、この古都は何世紀も前からずっとそのままであるかのよう。少なくとも、50年前のスクリーンで観た町並みはそのままでした。魔女の宅急便の町並みもそんな感じ。あれはタスマニアがモデルだったっけ。
こういう街に住みたい。
星野村の風景、おさなごころに刻まれています。50年近く行ってないけど、そのままだろうか。行ってないのは失望するのが怖いからかも。

おつしろう、星野村に五十年近く行っていないって記憶してるところがすごいね。じゃちいさいころの記憶が強く濃くあるのですね。それはなんで?
八女百首にも行空の碑にもたまたま行きがかり上出合ってしまって、どっちもまだよく調べてはいないけど、とっても地域にとってはだいじな文化財であり、きっちりともっとわかればいいなあとおもう。
投稿: ひめの | 2009年8月 5日 (水) 05時03分

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コメント

目の前の興味に精一杯で、天体のことはとんと興味がありまっせん。

もうすぐ66歳の私が年代のことをお話します。
mariさん。

昭和25年 小学校入学
昭和28年 小学校4年 大洪水の年です。

himenoさんは、いつもぜんぜ予期しない時に電話かけてくる。
電話って大体そうだけど、himenoさんから電話があるなんて思わず暮らしているもの。

それで、どぎまぎというかしどろもどろという状態で要件だけで切ってしまう。
話したいことがありすぎるとこうなるのかも知れないね。

 

上司65歳はかささぎさんでしたね。
間違えましたがいいですよね、mariさん。

なんのなんのさくらさん。勘違いは私の専売特許かと思っていたら、さくらさんも間違えてくれてうれしい。

なんのはなしだ、勘違いや取り違えならまけませんよ。笑
わたしが苦手なのは、情報整理であります。
さくらさん、今日はごめんなさい。
本天沼までは覚えていました。
これは鍬塚さんの住所もそうなんですが、町の名前はちゃんと頭に入っているのです、でも番地までは記憶できてへんねや。だから電話でたずねました。暴挙でありまする。きっとさくらさんはそうめんつくってはるとこやろな。っておもいましたけど、・・・

こないだのさくらさんのコメントで、だいじなことを書いていただいていたのがあって、それ整理しようとおもってたのに、わすれていました。ごめんなさい。さがしだします。

こんどのれぎおんに川端秀夫さんが石原莞爾のことをかいておられました。このひともちょっとふしぎなとこがあり、つながってるなとおもうときがある。(年すこし上。)れぎおんは東京方面の書き手が最近増えていますねえ。
鈴木りょうさいってかたが赤城神社について書かれているのを読んで、乙骨太郎乙の八十の賀を祝す漢詩の会があったところじゃなかったかな。とおもいだしました。その植木が一網打尽にされたとか、ひどいはなしです。鎮守の森がなくなってしまったのですね。都会でもそれがあるから神社らしいのに。
川野蓼草先生、病から復帰されたみたいで、よかった。うちの父とおない年、誕生日が数日ちがうだけ。かるいのうこうそくだったそうで、人ははちじうになるころにはちゃんとがたがきて、もうすぐあがりですよとサインをおくられるものみたい。しつれいなっておこられそうだけど、かささぎはほんとにそう思ってる。

うんうん私は明確にそう思ってる。
昨日もNHKテレビの深夜番組で、ビルマで戦った龍兵団(久留米の師団で屈強なことで有名、篠山神社に慰霊碑がある)の生き残りの人達が久留米弁でコメントしよんなさったけど、あの年代のおじいちゃんたちは本当に今も屈強で、あきれるくらいなんだけど、その屈強な人達が80歳を超えると次々に死んでいく。
ほんとに80歳を境にがくっと折れるように弱られる。
80歳はそんな年齢だと思う。

石原莞爾とか板垣征四郎という名前はしなじへんのころの中心人物としてゆうめいな軍人。

指揮者の小沢征爾さんも当時中国に住んでいて、その両方の名前からとってつけられたそうです。

雑学。
大化(645年-)以降、日本の元号で24年以上続いたのは、延暦(25年:782-806)、応永(35年:1394-1428)、天文(24年:1532-1555)、明治(45年:1868-1912)、昭和(64年:1926-1989)の5回のみでした。
25年に小学校入学と言って延暦25年か応永25年か明治25年と間違わないよう、昭和を冠しますが、46年以降の出来事だったら元号を冠する必要はありません。

読むだけで投稿してない某ブログ(みえみえ・・・)に「徳積み」の話題が。
タイの田舎町での生活を始めて、挨拶の次に身近だった言葉が「タンブン」(徳積み)でした。
タイ人の価値観の中心にどで~んと居座っている言葉です。
   ↓

善行の貯金。
タイ国にも徳積みを意味する言葉があるとは。これも、宗教の根っ子が同じことのあらわれなのでしょうね。
でも、物乞いに喜捨するほうが感謝しなきゃならんって考え方には、びっくり。
宗教心の厚さが日本とは違いますね。

ばどさんのいきかたをみていて、いつもおもっていたことです。かれのいきざまはめちゃくちゃにみえるけど、いつっだってたのしんだあとはうんと苦しんでいる。そのあげさげがはげしくて、でも、底の時には必ずどこかから、ばどさんへ愛の喜捨がほどこされて、かれはふしぎとすくわれる。
よのなかの幸不幸の量はつねに一定で、きちんとじぶんのつとめをはたすことで、その課税みたいなカルマを人は果たしてゆく、なんだかせつない。
またあめがふっている。

さくらさんへ。
石原莞爾と板垣征四郎をたして二で割った名前、かっこいいですね。ただ、そういうえらいひとのなまえをいただくばあい、その当時はえらくても、あとでえらいこっちゃになるばあいもありますよね。以前、れぎおんでおなじみの俳諧小説家の別所真紀子氏がおしえてくださいました。本名は、満紀子だった、満州国が建国された年にうまれたから、でも、思春期にそれがどうしても許せず、じぶんで改名した、となにかに書かれていました。

おつしろうへ。
〈天文〉
天文はてんぶんとよんでいるけど、ほんとはてんもんとよみたい、そっちのほうがなんでかきもちいい気がするから。どっちでもいいんだろうか、よみは。
二十四年のたしか秋に改元されていますが、そういう情報がいなかにまで伝わってくるのにどんぐらいのタイムラグがあったのだろう。
と、八女天文百首和歌をさいしょにしらべはじめたころ、まずは考えた。でもなんの本を調べればわかるのかがわからず、せからしくてそのままほっぽった。

せいこさんへ。

くるめの花火大会へはいちどもいったことがありません。隊員さんたちに昨日は午前中から百個のおにぎりをにぎりましたよ。ボスとふたりで。
二升五合の米。
紫蘇をきざんでまぶしてね。一人二個ずつラップにくるんで。暑かったらしいです、ほんとにきつかったって。おつかれさま!こどもたち、喜んだでしょうね。

天文の日食

佐賀~筑後地方に皆既日食があった年がありました。福岡や大分や長崎や熊本では部分日食なので、かなり限局的な出来事。
1553年1月14日午後5時59分頃。
日没後の時間なので、日食そのものは見えないが、午後6時すぎくらいまでは市民薄明(Civil twilight まだ十分に明るさが残っていて、明かりなしで屋外で活動ができる明るさ)の時間なので、急に闇が訪れ、また明るくなる現象はあったはず。
天文22年のことです。

ふうん。こまかいことまでよくしらべる人ですね。
冬のその時間帯はもう暗いよ。だけど、いまと当時では太陽とか月とかにむける人々の関心は、信じられないほど、むかしのほうが感度が高かったと思います。一月だとかささぎの想像ではこれといった農作業もなく、そういう変化に敏感に反応したかもしれない。
市民薄明ということばは、はじめてみた。
市民戦争しかしらなかった。(市民、ってことばは、あっちのことばではありませんか。

>こんどのれぎおんに・・・・石原莞爾のことをかいておられました

正直な感想を書くね。

あの文章は後味の悪い文章でした。
片方は持ち上げておいて、片方を奈落のそこへ突き落とす教授の言った言葉をそのまま取り上げてあるんだろうけど。
軍人に限らずどこの世界にもライバルというのはいて、相手を蹴落とすためにはどんなことでもしてるのが世の中です。
軍人を極悪人と決め付けてレッテル貼ってた時代の学校の講義風景だったのでしょう。
その前の文章の内容(後で生徒が傷つくから男女ともにゼミの成績は優にした)とか、なんともゆるい先生なのに、ある軍人の一部分を取り上げて「教室大爆笑」が気に食わない。

さくらさん、良くぞ言ってくださいました。

そういう本音をこれまではだれもいいませんでした。
でも、いわなければいけない時代になっている。
もうゆるくてゆるくて、どうしようもないところまでいっている。
その結果が、橋爪章氏が書いている学長ブログにあるような借金だらけのいきづまり国家です。


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