無料ブログはココログ

« 調一族の血 ー しらべさんからの手紙1 | トップページ | 農家の中庭 »

2009年8月25日 (火)

調一族の血 しらべさんからの手紙 2

きのうセイコさんところへイチジクを持っていったとき、調さんのことを話しました。
知り合いに黒木町の調さんがいるとのこと、だけどあまり黒木には調姓はおられないそうです。歴史的な意味合いがあるのでしたね。(しらべさんのお便りの中に少し触れられている、朝倉の入地って地名が関係するんでしょう。)

調さんの手紙に対してのかささぎの返信は省略します。
と思いましたが、初めてのかたのために、引用します。
調さんとの縁は「黒木城哀話」を引用した所からですので、それ以前の伏せんを。

調  様

さっそく返信をいただき、ありがとうございました。
読んですぐ、なるほどとすうっと腑におちました。
あの黒木城哀話を書き写しながら、なにか奥歯にものが挟まったようなかんじといいますか、
隔靴掻痒感めいたものを感じました。それは、小侍従のおなかの子はだれの子だろうか。

という疑問です。後鳥羽院とすればいっそすっきりとほぐれるのになあ。と思いましたもの。
琵琶法師の語る物語では恐れ多くてそこまではいえなかったのでしょうか。
物語の中では、後鳥羽院というお名前さえぼかしてあったような気がします。
わたしはそれとはまったく別口で、ちょうど塚本邦雄の後鳥羽院の歌に関する本を読んでいまして、
だからはっきりと書いてくれてたら、もっと黒木助能の一族の物語について興味が湧くのになあ。
と、まずそのことを思ったのでした。あれをブログに書き写したときに。

ところで、調様は八女が本籍なのですか。
本籍が福岡にあるということは、何かにつけ、福岡の本籍地へ戻らねばなりませんね。

こんど、秋に戻られるときには、ご連絡ください。
なにか、お会いしたい誘惑に駆られます。笑
えーっと、私のほうの因縁ですか。
これはです。書けば書くだけつらいものが湧き出てきますんでちょちょっと。
ざざっと書けば、私は八女市内に住んでいますが、昔は母親の親里で
出産したでしょう、だから母の里の黒木(笠原、八女茶発祥地)で生まれたのです。
ずっと母は黒木が里と思っていました、ところがよく聞けば、母の父も母の母も星野村の
出だったことが解りました。谷一つしか違わないところではありますが。
で、その先祖に拘る猫のひたいほどの土地があって、それが公道になるために私の一族の
印鑑を集めなければいけなくて、それを依頼に星野村役場の人たちと星野村黒木谷の製茶業をされている原口さんとおっしゃる方ともう一人が我が家にお見えになったのです。
これが一年半ほど前のこと。うちの母が最長老になっていましたので。それで私もその印鑑証明を集める手伝いをして、最後の一枚を福岡まで行ってもらって来、星野の役場にだしました。
それでやっと公道ができたという次第です。ちいさな道いっぽん作るのにすごい苦労。
この公道が、「高野堂」への道だと原口さんから聞き、もともとそういうことに興味ありますんで、
高野堂とはなにか、私は一人で見に行った、それはブログで写真をアップしています。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b7a9.html

星野黒木谷、高野堂、で検索すれば出ると思います。五枚くらいの写真。
で、ひとことでいえば、高野堂は「行空上人の墓」でありました。
その小さな祠の横に、星野教育委員会が書いた看板があって、写真をアップしたのを引き伸ばして
読んだところ、黒木太夫とか待宵小侍従とか書かれています。
まっさか、うそでしょう、って気分なわけです、だって小侍従といえば、あのとっても有名な小侍従しか知りませんもの。

それに、ブログにも書きましたが、お墓を実際に見に行ったら、
天文十六年、とあるんです。
天文年間、それは私がこの十年間、ずっと調べている八女戦国百首和歌の詠まれた年代です。
本こそ出してはいませんが、九州俳句誌(俳句の超結社誌です)に「暦論」を四年間連載したとき、
その中で、歌のよみをやりました。天文二十四年癸卯、卯月二十五日の記入がある百首和歌、しかし
その年号はおかしいのです。えとと年号があわない、という謎をひめている。
そういうこととか、その和歌を預かっておられたのが吉田山(岩戸山古墳)の伊勢宮の人だったこととか、
いろいろとつながっていて、ずるずると入り込んできている、という次第です。
おおやけの書類では、あまり肝腎なことは載っていないようですね。

しらべさん、このメールの内容はどこまで書いていいんですか。
かささぎのきわだつ特徴として、なんでも書いてしまう癖があります。
あまり隠し事は得意ではありません。ですから、絶対に秘密にしなきゃいけないことは、
教えないでください。
長くなりますから、この辺で。  

                 かささぎの旗、ひめのより

姫野 さん。

こんにちは。

私の本籍は星野ではなく福岡の朝倉入地になるのです。
実はこの朝倉の地にも先祖にとって別の深い意味があるのですが。。

ご存知かもしれませんが、星野氏は島津方につき豊臣連合軍によって
滅びました。その後は鍋島、有馬、久留米、黒田藩等々に散らばって
いくのです。ちなみに蒲池家もそうですね。蒲池家とも調家は深く
関わっています。
(全く何一つ知りません。歴史音痴です。姫野脚注)

行空上人の事は把握していませんでしたが、平安後期から鎌倉初期の
方となっていますね。

#どうも件を見ると空也上人にだぶり気になるのですが。。。

平安後期だとすると助能と小侍従の時代で間違いはないでしょう。
高野山は小侍従の一族ゆかりの場所です。
そこから現在までの高野山と縁ができたと聞かされています。
確か本覚寺は小侍従が建立させていましたね。。うろ覚え。。

六地蔵はその場所に星野ゆかりの墓があったのではないでしょうか?。
現在は一箇所に集められたと聞いていますので。

#今度是非案内お願いしますね。(^ ^;

星野氏の里に古くは行基や柿本人麻呂等々も訪れ滞在していました。
もっと古くは景行天皇。。
また懐良親王、長慶天皇、楠正行一族、前田一族も(尾張→加賀)
訪れそれぞれ匿っています。

表に出ている歴史年号も事実とは限りませんし、多少ずれが生じている
ケースもあると思います。
この場合は多少のずれではありませんが、意外と同じ名前を引き継ぐ方も
いらっしゃるので、断片的な年号だけでは判断しづらい面もあります。

#ただ、いずれ明らかになりすっきりしますよ(笑

因縁とは不思議なもので何か明らかにし無ければならない祖先からの
メッセージだと思っています。自分では意識していなくても何か取り組む
理由が隠れていると思います。
そして姫野さんのご先祖様と私のご先祖様にはつながりはありますね。
因縁も共通部分があるような気がします。


ですので、こうして行動されている事は非常に重要な事ですので引き続き
粘ってお願いします。

#個人的にはインスピレーションが大事だと思っています。
私も直感から事実にたどり着いた内容が多々ありますので。

     調 

1 調さんがお願いされた六地蔵への案内、わたしもまだ行ったことがないです。
しかし、場所はだいたいわかる、黒木とありますんで。荘厳寺境内。
六地蔵つながりで、広川村、熊本にちかい鰐八、そしてここ。
そういえば、文化財課の古賀の音彦さんがいってた、地蔵信仰は十四世紀にいちばん盛んになる。だったっけ?十三世紀だったかな?ああもうわすれてる。あたまわる。
 しらべさんが、今度の連句合宿にいらっしゃれば案内できますが。黒木でやりますんで。それまでに調べておきます。
2 柿本人麻呂。この人、きたのですか?
そういえば、竹橋乙四郎が以前かいていたような。人麻呂神社があるって。

« 調一族の血 ー しらべさんからの手紙1 | トップページ | 農家の中庭 »

コメント

しらべさん。
さっき、元銀行員のともだちと話していたら、しらべさんの話題になりました。彼女はやっと最近ときどきはこのブログをみてくれてるみたいです。顔がひろい、なぜなら三十年もこの地を回っていたから。てことで、しらべ、という姓から何を一番に連想したか、ききたくありませんか。
八女にお寺があるそうです。そこのお坊様がしらべ姓とのことでした。

追伸、上記の八女は八女市内の意味です、自分たちの住んでる。

今日、親戚の法事で、八女で最も古い、幽霊の掛け軸が今ごろ掛かっているお寺のお坊様がおいででした。確かに「調」姓でした。黒木助能がルーツでやんごとなき筋からいただいた姓だとおっしゃいました。

おはようございます。風は少し収まりましたね。
黒木で調氏にお伝えしたのはこのお寺の調さんです。
お寺>>鎌倉時代からと聞きます。
博物館で見た石人石馬の所有者です。もともとからこちらにあったと何かで読みました。もしかしたら鎌倉時代よりさらに歴史が・・・☆

あ、そうだったのですね。あのとき、うたまるさんにみょうえいじのことを教えてあげたのは、えめさんでした。黒木すけよしの三人の男子のうち、星野にいって妙見城をまもったのが星野調一族の祖でじつはすけよしの胤ではなく後鳥羽院の・・という伝説でした。うたまるさんにいわせれば、しらべという姓はずうっと古い家柄みたいです。
えめさん。その博物館の話ですけど。いわいの墓からもってきたものではない、石人石馬があったのですか。ああ、そうか、室町末期の長野に最初明永寺はあったから、でしょうか。
去年の黒木合宿はすごかったですね。
すけよしにともなって京からくだってきたやんごとなきお方に樋口小路から従ってきたという七人の従者、そのうち3人までがそろっていました。小説書いたらどうでしょう。

お寺>>いえ、調氏に伝えたのは乙氏が↑昨夜書かれた福島の正福寺の事です。 
調性で幽霊の掛け軸があって石人所有のお寺。
お寺さん同士は縁戚になられるのでしょうか。
ところで関東の調さんはお元気でしょうか☆

コメ↑あわてもののエメでした
正福寺の石馬の話をプリントしますね^^院に持参します。

どこまでも果てしなく粗忽者ですみません。
おなじ調姓なのでてっきり。
これですね。↓

樋口小路=万寿寺通
内容概要
京都市街地中央部の東西路。東は木屋町通から西は御前通までで、京都市立病院、JR山陰線などで中断。平安京の樋口小路に当たり、旧称は樋口通。通り名は柳馬場西入に禅宗京都五山の一つ、万寿寺があったためという

木屋町界隈、下京の。あそこだったのか。
秀野最晩年の地です。平安京の通りの名とは。

はじめまして、僕は、星野村出身の樋口といいます。ご先祖のことを探していて興味をもちました。

はじめまして。
かささぎの旗へお立ち寄りくださいまして、ありがとうございます。
現在、「唱導文学としての黒木物語」という題でかかれた学者の先生の研究論文を打ち込んでいます。これから後半の文献の箇所にはいりますので、ご興味がございましたら、どうぞ引き続きお読みいただければとおもいます。
しらないことばかりで、かささぎの旗はとても勉強になります。なにか感想やきづかれたことなどございましたら、コメントいただければ、うれしくおもいます。
ありがとうございました。

ここをクリックすれば『唱導文学としての「黒木物語」』が新しい方からずらずらっとでます。↓

おはようございます。
昨夕、ご飯の支度をしながら 調さんとろいりさんはお元気かな~とか、思っていました。
お二人とも新茶歌仙に参加されるといいね☆

こんばんは。
休みの日には母をつれて父の入院先にいったりと用事が多くて、これはこれでくたびれます。

えめさん。ろいりーさんのコメントをあらためて思い返しますと、御父上がなくなられるまで休職して付き添われたということは、りっぱだったな。とおもいます。いろいろ入院先の病院には御腹立ちもおありだったようですが、やるだけのことはやった。という思いはのこったのではないでしょうか。
おやごさんがなくなられたあと一年ほどは体調をくずしたりしがちなので、どうかご用心ください。


しらべさんですが連句へおさそいしたい思いは重々なれども、わたしのからだがくたびれぎみで、お声かけしそびれています。
しらべうたまるさま。もしごらんくださっていたら、なんでもいいですから、一句でも二句でもどこでもいいから句をくださいね。

初めまして、旧姓黒木でございます。
とても興味深く読ませていただきました。

ありがとうございます

おお、旧姓黒木torakoさま。ようこそいらっしゃいました。
なんとクラッシックでありつつ今風なよきお名前。
どうぞまたおいでくださいませ。

調家の系図とその歴史の本があります

どうもコメントありがとうございます。
古い由緒ある家、なにか知らずワクワクしますね。そういう一族の本が出ているということ自体、オドロキです。

後鳥羽天皇の子孫です系図をあります

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 調一族の血 しらべさんからの手紙 2:

« 調一族の血 ー しらべさんからの手紙1 | トップページ | 農家の中庭 »

最近のトラックバック

2020年7月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31