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2009年8月 9日 (日)

小男鹿の得ざる妻  (八女戦国百首) 

「小男鹿の得ざる妻」

  竹橋乙四郎

橋爪鑑実がこんな歌を詠んでいます。

四十三     鹿     鑑実
さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん

そして、鑑実はもう一度「萩」「露」を詠み、「秋風」で受けています。

四十五     露      鑑實
をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ

「秋風」は33番から39番までひとつ飛びに吹いていました。

三十三  泉   宗房
をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空
三十五  立龝    嵐竹
昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空
三十七    萩     覚元
ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風
三十九   薄       鑑栄
花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空

「萩」と「露」は、37番、41番、43番、45番と、これも奇数番で続いていました。

四十一   萩    鑑述
龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露

このように、八女天文百首には、いくつかの語彙の組み合わせの集中が見られます。
1番、2番、3番と、81番、82番、83番の6首もそうです。

一    立春      鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
二     子日        鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
三    霞         鑑實
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
八十一  松   弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
八十二   竹    宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
八十三   苔    鑑栄
千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

「秋風」をリードした宗房という人物が気になります。
それなりの立場の人でなければ、後がこんなに続くことはないでしょう。
やんごとなき、遠来の客人ではないかと思います。
そして宗房の「秋風」を受けた「嵐竹」は随行の学識者ではないか。

四十六    槿(あさがほ)  嵐竹
あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花
七十三  来不逢恋  嵐竹
とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな

他の人と違い、嵐竹は本名ではなく、ペンネームくさい。
あさがほといい、嵐(=荒木)といい、竹(=武)といい、庚申といい、守武を意識せざるを得ない。
最近亡くなった守武を偲んで臨時に命名したのではないか。*
宗房も、81番の 神や「守」らむ に82番を「竹」で継いでいる。

当時、松木宗房(まつきむねふさ)という人物がいました。公卿。藤原氏。権大納言飛島井雅教の男。権中納言宗藤の嗣子。
1537年生まれなので天文24年には、まだ18歳。しかし、この方、天文13年、7歳にして従五位下の位が与えられています。
82番の「たけの台」は、京都御所の清涼殿の東庭にある呉竹の台と河竹の台の通称です。

松木宗房と一字違いの松尾宗房は一世紀後の芭蕉のこと。
松木宗房にあやかって命名した、なんてことはなかったろうか。
そして、松木宗房の近くにいた嵐竹にあやかって、蕉門の1人に嵐竹の号を与えたのではないか。
芭蕉も守武も同郷(三重県)。

*

▼かささぎの旗ひめののコメント

守武は天文18年没、なのでまだ死んではいない。
ただ、戦国百首の干支が正しいとすると天文12年、
その場合はいえるかもしれない。

八女戦国百首和歌『夏日侍(なつひまち)』
      : 天文二十四年
癸卯四月二十五日

荒木田守武:1573(文明5年)-1549(天文18年8月8日没)

吉田兼好:1283(弘安6年)-1352(文和元年/正平七年ころ没)

松尾芭蕉(芭蕉庵桃青):1644(寛永21年)
- 1694年(元禄七年)10月12日没
嵐竹は存在感がある。
当時の文化人はどのくらいの歌を読んでいただろう。
図書館なんてなかったろうし。**
戦国時代ですからね。でも、だからこそ、という何かがあったにちがいない。
吉田兼好の歌集などは当然頭に入っていたろう。
じゃないと、こんな歌がこのような席でさらっとできるわけがない。
先日押入れ片付けをした結果、こんどは「荒木田守武」が行方不明。
その荒木田守武はだれかの歌集をまるごと写していたっけな。年譜をよんだ。

その手がある。
いや、その手しかないんだ!

**

『ヒストリエ』をよむと、大昔の欧州にはすでに図書館があるんだよ。
ヒストリエ、岩明均。

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コメント

七支刀がある石上神宮の所在地「布留」ですが、地元の万葉集歌碑には「袖」が冠されていたりします。

未通女らが 袖布留山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひき我れは  巻4-501
我妹子や 我を忘らすな 石上 袖布留川の 絶えむと思へや  巻12-3013

八女戦国百首にも「袖」が多く登場します。99分の7。

二十八  盧橘(ろきつ)   宗右
夢にとふむかしの人の袖の香や
そのまま残る軒のたち花
四十四     雰(霧)   鎮光
明更を遠方人のこころとや
雰うちはらふ袖のゆきかひ
五十二    紅葉     頼運
玉鉾の道の山かげふきおちて
をらぬ紅葉を袖に見るかな
六十五  鷹狩    鑑栄
ふる雪に狩場の鷹の一つがひ
花をはらへる袖かとぞ見る
七十二  不逢恋   鑑冨
今は我見る目も隠す言ふ甲斐も
なく/\袖のうらなみぞたつ
九十二    離別    覚元
中々にうき旅人にともなひて
わかるヽときの袖のくやしき
九十四    樵夫     宗房
けふは又山路の雪を知りそめて
かはる嘆きの袖のくやしき

石上神宮の象徴として「袖」を眺めると、七支刀が見え隠れ。
28番「たち」=太刀
44番「うちはらう」
52番「をらぬ紅葉」=7支
65番「はらえる」
72番と92番と94番で、七支刀が石上神宮へ持ち去られる悔しさ。

おつしろうのこの文章をよんで、かささぎはすぐ誰が書いていたのか忘れてしまったのですが、袖振り考というタイトルの一文を思い出しました。
それはもしかしたら、連句人・故・水沢周だったかもしれません。『青木周蔵』上下巻の著者です。
で、内容は。ごめん。ぜんぶすっかりわすれた。
さよひめのどうのこうのでどうしたこうした。ってのだったような。もっとずっとふかくてややこしい話ですが。
思えば水沢周って人もふしぎな人だったな。

『青木周蔵』は上下巻じゃなくて上中下巻でした。

石上神宮に石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)があります。中央の馬堂と呼ばれる通路が特徴で、日本最古の「蛙股」があります。“柱の上に虹梁を渡して、まさに蛙が股を広げたような広がりの大きい細い線の蟇股を飾って棟木を支えている”とあります。
この石上神社の手前に、布留口池があります。
そして、石上神社には、神宮のご神体を埋めた「瑞籬(みずがき)」という石垣に囲まれた禁足地があります。
近くに芭蕉の句碑もあります。

昔からある水溜りを、古海とも古湖とも古沼とも言わないのに、なぜ芭蕉は「古池」という表現をしたのか。

布留池や蛙とびこむ瑞のおと (とんでも乙解)

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