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2009年8月16日 (日)

戦国百首の地名入りの歌と遣唐使と官僚について

三十三  泉   宗房
をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空

宗房の「いづみ」は和泉式部を連想しました。待っているものが来るのを今か今かと待っている。

待つとてもかばかりこそはあらましか思ひもかけぬ秋の夕暮

わきて、を、わいてと書いていましたね。
訂正しました。ありがとう。

和泉式部。恋歌ですね。

ゆふそら。でおもいだしました。
ゆふそらにかかるれいんぼう。かぜがはこんでくる。
これは大貫妙子の歌。
穴井太師に花一匁の句、記憶では
ゆふそらの雲のおばけへ花一匁
しかしどうも間違っているみたい。季語がないもの。
夕焼けの雲のおばけへ花一匁  太
これが正解か。
引き鶴の空に湿りや花一匁  瀧春樹
瀧春樹師はときにとても心ひかれる句をだされる。
いちばん好きな句は、
暗緑の雨冠の山懐史   春樹
あんりょくのあめかんむりのさんかいし。
さっきの花一匁ですが、季語が二つあるのを、湿りというきわめて日本的な情緒の色っぽくさえあることばで、まるでほどよい粘りの付箋ののりみたいにくっつけ、なんともいえない感覚を残す。
鶴が北へ帰ったあとの空。どこか凹んで湿っている。
その湿りは花一匁の湿り。
では、花一匁とは。
わたしは単に花びらをかき集めて手のひらにいっぱい握っているんだというイメージをおもうのですが。
でも、花一匁というわらべ歌はそういう無邪気なものではなく、娘を売買していたころの時代の記憶の歌だそうです。
以上、ゆふ空からの連想で俳句の師二人の句を紹介しました。

地名では「二見の浦」もあります。伊勢神宮の近くの浦。

四十二    鴈(雁)   弘智
いつもきくここちこそせで玉手箱
二見の浦をわたる雁

本歌はこれだと思う。

いつしかと雁はきにけり玉櫛笥(たまくしけ)
二見の浦の明け方の空[藤原俊成]

きおくでしかものをかかなくなる。これではちゃんとしたものかき失格。いま、上のじぶんのかいたものをみて、おかしくなりました。めっちゃまちごうとる。なかでも、穴井先生の花いちもんめの句は花が季語でちゃんとあるのに、、、へんなあたま、われながら。あれは童心の句でした、ひらかなだった。
句をよむとき、なにかで学んだ俳句のよみかた、たとえば切れ字があれば全く上と下はきれているものだなどの約束事は、まったく意識していないものだな。とおもいますね。それは連句でも同様であって、ゆきてもどることなし。なーんていいますが、常に常に過去を気にして、過去中心に付け進むってことにおいては、もどりまくりやもんね。

で、おつしろう。
それらの地名入りの歌の土地へ、作者たちは行ったことがあった。とおもいますか。
伊勢、二見浦、難波津、くるす野、。

わたしはぐうぜんきのうからのコメントと意識の流れをみていて、こんなことをおもった。
中山そらんブログで芦北ってところが海の近くとしりました。そこには歌の碑がある。長田王のだったっけ。廃校になる海の上の学校、で、荒井由実の歌を連想し、それを第二校歌にした学校があったのを思い出し、どこだったか検索すると長崎は五島の島でした。そこらへんには、遣唐使に船出したときの歌があったりする。
えーっと。
なにかがみえそうでみえない。
っていうより、することがいっぱいあって考えがついていかない。こういうところ、だんだん年ですね。笑
遅刻坂連句会、たぶんわれらより五歳上かな、二泊三日で百韻興行合宿を無事おわられたそうです。
いつかしたいですね、百韻。おもて8句、裏14句だったかな。ながながとえまきものみたいに。むかしのひとのきもちをおもうことです。

荒木田守武が1549年に没し、山崎宗鑑が1553年に没し、松永貞徳は1571年に生まれています。
16世紀後半は俳諧史上「空白の半世紀」ですが、橋爪鑑実について「元亀二年 (1571) 正月に俳諧を興行」というのがあります。
鑑実らに俳諧文化を伝えたのは誰?
やはり伊勢からの客人たちでしょう。
客人たちの来訪目的は何?

ところで地名についてですが、いくら創作とはいえ、まったく知らない地名を知ったかぶりで使うのは後ろめたい気分がしますよね。戦国武士たちもそうでしょう。
枕詞としての地名はともかくとして、情景を伴う地名については、そのあたりを旅した経験がある人が詠んだのではないかと思います。
八女戦国百首で遠方の地名を詠んでいる人たちは、客人たちでしょう。
ところで地名で気になるのが、守武千句の中のこの句。

涼しとやぶんごの国にくだるらん
わづらいならぬたびは夏なり

守武自身が豊後へ行くのか、使者が行くのか、いずれにせよ何かの約束で夏に豊後まで旅をしなければならない事情がありそうです。

契しをものにたとへばことし竹
こと/\"しかる夏のタぐれ

刀を見て夏を思う句があります。

道のべの刀をみればあふひにて
夏きにけりとはふもみえけり

刀といえば、こんな句たちがありました。

そゞろには成もはる/\"太刀はきて
天神さこそつらきみちのく
きるといふこともいはぬはみやこ人
旅と太刀とのゆくゑしられず
鷹が音やあかつきをさしてかへるらん
はげたる太刀のつぼめ鳴ころ

「たち」(「立」)と「雁」については八女戦国百首にこんなのがありました。

十二  帰鳫(帰雁)  鑑冨
見るうちもたちぬかずとや天津雁
雲間にきえて立かへるらん

「たち」と「夏」についてはこんなのも。

二十  更衣     鑑實
たちきつる春の袂のおしければ
ぬぎかへがたき夏ころもかな

八女の人たちは、「たち」が帰ってくる夏の日を、今か今かと待っていたのでは。
ところが、その約束をした守武が亡くなってしまい、かといって死者に鞭打つようなことは武士としてできず、思いの丈を歌に託して伊勢の客人たちに伝えたのでは。
歌が詠まれたのは天文24年ですが、できればこの歌は存命の守武に見て欲しかったとの意を込め、干支をひとまわりバックさせたとか。

八女戦国百首「夏日待」には「松」(=まつ)を含む句が8句もあります。

能の鏡板に描かれている影向の松。
橋掛かりにも三本の松。
松は降臨するたましいのよりしろとなる。
陰陽五行の意味がある。吉野裕子の本が役立つ。
十八公というのは松の字を分解したものですが、十八公という名の連句形式もあった、たしか。
わたしは一度も能をみたことがないのですが、あ。あった!
二千一年元旦、岩戸山古墳でのお能、翁。あれもまた、ふしぎなはなしだった。みれてよかった。千年に一度のお能でした。だって、新千年紀を祝うというお能だったから。でも、なんでまた岩戸山古墳の伊勢宮でだったのだろうねえ。わっからん。

かささぎは雑食性なので漫画もたくさん読みます。
まじめによみます、ほかの小説や評論などとおなじくらいの熱心さで。自分で買うことはあまりありません、ほとんど三人の子たちのだれかのお下がり。
これは娘がくれた本で、以前「NATURAL」という漫画を描いておられた成田美名子さんの「花よりも花のごとく」。能楽師漫画です。専門的なことがわかるので、面白い。かささぎは、喧嘩別れしてしまいましたが、冬樹れいに一冊を送ったことがあったな。娘の本なのに。

こうやの宮の正式名称は「磯上物部神社」とか。
磯上は石上と同義。石上神宮と通じる。
物部氏は磐井を鎮圧した豪族。
磐井から七支刀を強奪して石上神社へ奉納した物語が人形になっているのかも。

昭和十七年
父小野氏母石ノ上氏
初ひゝな陸奥と大和の御祖かな  石橋秀野
(はつひいなおくとやまとのみおやかな)

これは秀野さんが安見さんを出産したときの句です。前書つきです。母はいそのかみ氏の出だと誇らかにいってる。
では父は。陸奥の小野氏といっています。戦国時代に系図を買うことがはやったそうですから、本当かどうかはなぞながら、おののたかむらの一族につながると自負している。星野教育委員会に行ったとき、下さった資料の端っこについていた、小野神社。それとは関係ないのだろうか。星野出身なんで気になる。(健吉の一族がです。私の母方も星野)
遣唐使を命じられて断った人、小野篁。おののいもこの子孫なんだね。
遣唐使とか遣隋使とか、どこから船出したのでしょう。しらべたことがない。熊本とか長崎とか鹿児島とか博多とか港はいろいろあったろう。瀬高はなかったのかな。

石上氏は物部氏の直系。
すなわち、大虐殺した側。
八女には、大虐殺された側の末裔とした側の末裔とが混在している。
おそらく、ほとんどのヤメリカンには双方の血が流れているのでしょう。

遣唐使の航路。
   ↓

Wikiの「遣唐使」にあります。海の神様(住吉神社)にお参りしてから住吉津(大阪)からの出航です。

そこで住吉の神様がでてくるのですね。
もし、遣唐使にえらばれたら、喜んでいくだろうか。
いやだとおもいそう。
おつしろうさん。あした十時から二時間ばかり暇とれますか。ろいりさん、ぼん、せいこさんとかといっしょにおふ会しませんか。こないだは四人だけでした。
今からせいこさんちにいちじくやってくる。ひょっとしたら、あるかもしれない。あそこのおうちも、なんでもあるから。ぼんちには又いずれ。雨でぶちゃむくれになっとった。それをかささぎがつついてた。

小野妹子の遣隋使は、出港は難波津で帰港が住吉津だったようです。
航海は1か月。

疑問なのは、言葉の違いをどう克服したのか。
政府派遣の遣中使として中国へは何回も行きましたが、通訳なしにはまったくコミュニケーションできません。
昔の中国だと漢字筆談でできたかも。

それにしても、髭面のおじさんが、なぜ「妹」で、なぜ「子」なんだろう。

一ヶ月も船にのっていたのか。
おののいもこ・・・。
ああいかん。おもいだしてしまった。
じゃーじをはいたおののいもこ&しょうとくたいし。
あたまだけはあのぼうしをつけてる。
なんだったっけ。そうだ、ギャグマンガ日和だ!

むかしもきっと通訳つきでしょうよ。

おつしろう。このぼんちゃんちに書いたかささぎのコメントを読んでん。
前からいおういおうとおもっていた。
保健医療経営大学はとても政治的なところで成り立つ学問をまなぶところだよね。もろ、政治だと思う。
おつしろうは元官僚だし、この時代のなにをどうかえたら少しはましになると思っているのか、それをきいてみたいよ。でも政治家みたいではなくふつうに。世間話のように。おふ会、でてきてほしいよ。

物言えば唇寒し秋の風

政治の季節、特定の候補者や政党の肩入れも批判もしにくい。
日本の政治家は一部の声の代弁者。
誰を代弁するかで政党の色が出てくる。
大きい声の代弁者が政権を取ることが多い。
多数決原理の民主主義。
小さな声の代弁者が政権を取ったら困ったことになる。

日本の官僚は、いくつもの声の調整者。
官僚には色がつきにくい。
官僚には、大きな声と小さな声との格差を調整するベクトルが働く。

政治家が、意思決定より執行に興味を示し、それを「政治主導」と称して官僚の調整力を削いできた。
政治主導で勝ち組と負け組を峻別するベクトルが生まれるのは必定。

三権分立を義務教育の社会科で習った。
立法は政治家の仕事。
行政は官僚の仕事。

ところがこの国は、法律のほとんどは官僚が原案を作る。
そして政治家は行政執行への口出しに力を注ぐ。
おかしい。

国の大きな方向付けは政治家が行い、行政は官僚に任せる。
そんな国であってほしいと思う。
まずは、大きな方向付けを誤らない政治家を選ぶことから。

おつしろう。といつも呼び捨てにして悪かった。
でもたぶんこれからもする。対等にたちたいから。
七月はじめころのそらんさん事件のとき、(そらんさんは被害者なのにこのいいかたはない、でもほかによびようがない)あなたは現場監督みたいな顔で私をしかりつけましたね。それを実はずっとうらみにおもっていた。でもおかど違いだったとおもう。すみませんでした。
さかうらみしていたことをおわびいたします。
そうですか、調整役ですか。
大きな方向付けが正しいか間違っているかは、あとになってしか見えないことのほうが多いと思いませんか。この世は善悪では動いていないから。それに方向付けがまちがっていたとして、引き返すことができればいいが、そのままいけるだけいくのが現場であろうとおもいます。なるべく責任の所在をぼかしながら。それも大事な官僚のしごとなんでしょうね。

色がついていない、か。このいいかたはいいな。
あなたのいろにそまります、ってうわーきもちわる!
でも、政治家の色にいちいちそまってはいけないんだろうね、優秀な官僚は。

日本国憲法第15条2
すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

色にそまらないことが憲法で守られています。

▼橋爪鑑実について「元亀二年 (1571) 正月に俳諧を興行」というのがあります。
鑑実らに俳諧文化を伝えたのは誰?

わかりませんが、かささぎが『お伊勢まいり』を斜めだだばしりで読んで直感的に思うことは、お伊勢まいりという国家神への信仰が国中をかき混ぜていた事実です。
たくさんの地方のだんなさんたち(権力者)がお伊勢まいりをしてはいろんな遊興をして帰った。文化的なものが混ざり合うるつぼだったのが、伊勢だった。
それはでは、いつごろから始まったのだろうか。

最初に「荒木田」氏が登場する場面をそのまま引用させて頂きます。

以下引用。
文章:西垣晴次『お伊勢まいり』岩波新書252。

【参宮人十万】

 承平年間といえば、平将門や藤原純友の乱が東国、西国で起こり、都の貴族たちの心胆を寒からしめた時代である。その承平四(934)年の九月十六日、神宮では一年のうちでも最も重要な神嘗祭の主要部分が終わり、直会にうつった。神事のあとの酒宴である。

 夜も十時頃のことである。どのようなことからか、神宮の酒殿預をつとめる荒木田希雄と斎宮寮の官人佐伯真道とが突然どなり合いをはじめ、希雄は真道にたたきのめされた。希雄の叫び声で、希雄の神宮側と真道の斎宮寮側とが入り乱れての乱闘が展開した。寮側の責任者の寮頭が、ことのおこりを問いただしているところへ、神宮側の代表者の禰宜荒木田最世が事情をよく確かめもせず寮頭へつかみかかり、混乱はひろがった。それまで傍観していた都からの勅使たちが、両方をなだめるために座を立って中に入ろうとしたところ、突然雷が鳴りひびき、激しい雨が降りだす。そこで、「参宮人十万人、貴賎を論ぜず、恐れ畏み心神を迷わし」われ先に退出した。
 この事件は「大神宮諸雑記」にみえるところのものである。

 さて、ことは、今日でもよくある温泉宿の団体客同士の乱闘事件と同じもので、酒を呑めば今も昔も変わるところのない人間の悲しさ愚かさを語るものである。しかし、ここで注意したいのは、その文中にみえる「参宮人十万人」という部分である。この部分は別の写本では千万とある。いずれにせよ、十万、千万という数字は実数ではない。千万はともかく十万にしても、それだけの人間が直会の席にいたわけではなく、それは数えきれないほどの人数というほどの意味である。
 ある人びとによると、この「参宮人十万人」という表現が、承平の十世紀から伊勢神宮に参宮する人びとのいた証拠であり、神宮と国民は十世紀の頃から太いきずなで結ばれていたのだということになる。
 この意見はいくつかの点で明らかに誤っている。
 まず、神宮の重要な祭りの一環をなす直会の席に、近世にみるような一般の参宮の人びとが列席することなどはありえない。誰でもがとがめられもせずに直会の席に立ち入れるほど、神宮の秩序は乱れてはいないのである。
 
 つぎに、参宮という言葉には、用いる際に一つのルールがあったようである。今日でも伊勢参宮とはいうが、住吉参宮、日枝参宮とは言わず、「住吉さんに参詣した」「日枝に参拝した」という。そこには参宮とは伊勢に限るのだという伝統的な感覚がひそんでいるようである。さらに神宮の記録、たとえばこの「大神宮諸雑事記」をみても、勅使の参宮、斎王参宮とか「穢れを恐れて参宮せず」と勅使の行動を記しているように、参宮という言葉は公の立場で神宮に参拝した場合に限って使うのだという慣例があったらしい。だから神宮でも、私的なものについては「私の祈祷を成さんがために神宮に参拝す」と参拝の語を用いている。
 さらに、十世紀には、多くの人が自分の自由意志で神宮にやってくるような社会的な条件がととのっていたとはいえないように思う。
 とすると、この承平の参宮人の実態はどのようなものであったのだろうか。九月の祭りに勅使とともに都からやってきた人びとである。だから、そこに「貴賎を論ぜず」という表現も見られることになる。貴賎の貴は勅使であり、これに従って都からきた人びとが賎ということになる。その貴賎が心神を迷わしたのであって、不特定多数の人々のことを言ったわけではないのである。
 だから、この史料をもって、近世にみられる参宮の民衆の姿が十世紀から神宮にみられたのだとするわけにはいかない。ただ、これら勅使に従って伊勢の地にやってきたいわゆる「参宮人十万人」の人びとが、伊勢神宮についての情報を多くの人に伝え、それが伊勢神宮の存在を広く民衆に知らせるのに大いに役立ったであろうことは、確実な史料はないにせよ、疑えぬ事実と考えられる。

(つぎに書かれているのは、承平から一世紀あとの藤原道長時代、受領のむすめだった人がかいた「更級日記」には伊勢神宮の存在を知らないことが書かれており、ということは支配階級の人が知らないくらいの認知度しか、まだこの時代にはなかったということらしい。)

そのような伊勢神宮が、いつどのようにして、一生に一度はお伊勢さんにと言われるようになっていったのか。という考察がまず、行われます。この項、つづく。

かささぎは五年ほど前になりますか、九州俳句誌で暦論という随想を四年ちかくにわたって気持ちよく連載させていただきました。そのとき、明治の改暦のことをわりと詳しく調べてたのですが、この「お伊勢まいり」の本にも、まさにその明治の改暦が原因で伊勢神宮のさまざまな降格政策が行われる、そのことを具体的に述べながらも、これもまた、あの数年前に引用した小島直記の『無冠の男』同様、暦がかわったことについては何一つ言及がありません。考えてみれば、これほどふしぎなこともありません。それほど、暦というのは、人にとって無意識の領域に存するものなのかもしれませんね。

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コメント

今日(20日)は投票日。
といってもアフガニスタンの話。
大統領選挙ですがこんなことになってます。
14日、カブール市の空港地区にロケット弾が打ち込まれる。死傷者なし。
15日、カブール市の国際治安支援部隊(ISAF)本部前において、車両を用いた自爆テロが発生し、7人が死亡し、91人以上が負傷。
18日午前、カブール市の大統領官邸近くに迫撃弾2発が着弾。被害等は不明。
18日午後、カブール市の主要都市道路で車両を用いた自爆テロが発生し、7人が死亡し、50人以上が負傷。
ここに書いてある場所が報道映像で流れていますが、いずこも見覚えがあります。
あれから何年も経っているのに、一向に平和が訪れないのがもどかしい。
復興支援の仕事やってると、銃声が身近です。
パン、と短い乾いた音。

リアルな情報、ありがとうございます。
何もない日常を暮らしていけることに感謝です。平和ボケにならぬよう、気をつけないといかんね。
自爆テロ  特攻の人たちと同じような教育がなされているのだろうか。彼らも「お国のため」なんだろうか。やはり「おかあさん」といいながら自爆するのだろうか。
ニュースを見るたびに思っています。

さっき、偶然
庚申待ちのタイムワープドラマを見た。
無意識力という能力(名付け・かささぎ)で、じぶんが気づかずにへまをしたようなときに限って、上司がたまたま気づいてくれることが以前からよくあるのです。ちょうどのところに石が落ちる。
警備会社のときには、女ボスの専務が直感鋭い人でしたが、何度かやってくださった。
整骨院のときには、先生が。
今は三十代半ばのボスがその役自然に。ことばで説明できない。ボスは笠原出身だそうで、。

考えてしまったのは、わたしが笠原の奥も鰐八というところに、母の幼い頃の思い出をたよりに六地蔵を探しに行ったのと、そのわにばちには、人形浄瑠璃が残っていて、それを主役にした地域発のドラマがあったのは、どっちが先だったかなあ。ということです。
しらべさんと出会ったのと、調城哀話を打ち込んだのは、どっちが早かったか、それはまず、行空の碑があって、星野村入り口の黒木谷にこうやんどうがあって、それをしらべるために星野村教育委員会にいったら、黒木町の教育補助教材としての伝説があったから下さったので、それを知らなかった私は、ネットに載せた、そしたら、調一族のしらべうたまるさん(俳号)からコメントをもらった。というのが、順序でした。
ときどき、シンクロが激しくて、ゴタゴタになって、わからなくなるから、整理しなきゃならないのです。

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