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2009年8月24日 (月)

調一族の血 ー しらべさんからの手紙1

しらべさんからのメールをご紹介いたします。

一切、差し障りなどには配慮はいたしません。

けれども、もし何かございましたら、全ての文責はかささぎの旗が負います。

以下、しらべさんからのメール全文です。

私の本籍は福岡なのですが、残念ながら住まいは九州ではありません。
横浜に在住しています。故あって私も以前からいろいろと調べていました。

簡単ですが調一族に関する説明をしますね。内容は一族に伝わる家系譜に
よるものです。

助能には三人の子供がいました。

・黒木氏(猫尾城)→黒木四郎 (父)助能(母)待宵小侍従

・川崎氏(犬尾城)→川崎三郎定宗 (父)助能(母)築地姫(島津忠久の養女)

・星野氏(妙見城)→星野胤実 (父)後鳥羽上皇(母)待宵小侍従

黒木町にある物語のおそらく元となっている「黒木物語」等に出てくる
記述は多くは当時の琵琶法師によってかたり継がれていたもので、
現在のマスコミのような役目をしていた琵琶法師は知られてはなら
ない部分だけは改ざんして一般受けするように脚色したのだと推測
されます。
※そのような話は全国にもありますので。

この三家を総称して調一党と呼んでいたのは事実ですが、調姓はその
特殊な事情から後鳥羽上皇の子供である星野胤実のみ引き継いでいます。

#ただ、この後に黒木家と星野家は血縁を結んでいきます。

私の姓も調ですが、正確には「調姓星野氏」となります。
昔は姓(かばね)は名乗らず氏を名乗っているのが通常でした。。
元々黒木助能から始まった調姓ですが、星野氏もこれは天皇から賜った
特別なものなので、江戸中期までは調姓は使っていませんでした。

小侍従ですが、これも確かに諸説いろいろあるようですね。
ましては当時文学的に重要な方だったので、現代の第三者が考えると
今で言う京のスターが片田舎に落ちていくイメージを覆すものが
見当たらないかと思います。

年代も年齢が合わないと言っているようですが、
元々高倉天皇に御仕えしていた小侍従は待宵の歌を歌った小侍従とは
別人で彼女の母親のようです。
小侍従(阿波内侍)そして待宵小侍従は(貞政院)となっています。
親子なんですね。二人を一人と見られておかしいと言っているようです。

#ただ詳しい年代は私も資料が乏しくこれから調べてくとこです。

待宵小侍従(貞政院)は母親の小侍従(阿波内侍)と父親は源頼政となって
います。

黒木助能自身は摂津源氏の嫡流で多田蔵人行綱の子供なので、同じ摂津源氏の
本流である頼政の血筋と縁談があってもバランスを考えてもおかしくはないと
思えます。

#助能は別に単なる地方の田舎侍ではないのです(苦笑

また助能は幼児期に島津忠久に預けられ、その縁で築地姫と夫婦なのですね。

また、当時の天皇の背景には政治的には非常に複雑に微妙な状態でした。
天皇の側室の子供の存在はあまり表には出さないのでしょう。

お聞きになっていた六地蔵の件ですが。。残念ながら私は現地事情を把握して
いません。何か場所や手がかりになるものはありますか?場所が星野村に
あるとするならば、星野村は元々星野氏(調一族)が統治していた地域なので
何らかの関わりはあると思います。

#少し調べてみます。

ちなみに星野村には散らばっていた星野氏の先祖の墓が集められています。
星野氏が滅んだ後の調姓星野氏の墓は朝倉の入地にあります。
私も常日頃一族の事をもっと掘り下げたいといろいろ調べているのですが、
遠方でなかなか現地に足を運べずいつも歯がゆい思いをしています。

今年は涼しくなってから久しぶりに星野村を訪れるつもりですので、そのときに
お会いできるかもしれませんね。

#メールでは書ききれません。

調(しらべ)は(つき)とも呼びますね。これは時代が更に遡り、東漢氏と西漢氏の
調氏(つきし)に由来するものです。(つき)とはみつき。。つまり天皇に貢物を
意味するものです。これも長くなります。。

姫野さんは因縁と言っていましたが、どのような因縁なのでしょうか?
差し支えなければ教えてもらえないでしょうか?何か手がかりがわかるかも
しれません。

またご連絡下さい。

    横浜市在住  調

参照記事:

東漢氏考:http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-19.html

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コメント

後鳥羽天皇の子孫です、系図もあります

どうもありがとうございます。
(こういうとき、どう受ければいいかが、ワカリマセンので。。。)

黒木物語、あるいはこども向けの調城哀話、それらにはそこのところはぼかして書いてあったようにおもいます。

星野胤実

8位

拝見させていただき有り難う御座います。
私も同じように星野氏について
長年調べております。
たいへん勉強になり
じっくり読ませていただきました。
また星野氏に関連のある記事を
楽しみにしております。
互いに情報交換出来るといいですね源

コメントありがとうございました。
星野氏を長年しらべていらっしゃるとのこと、そうでしたか。
これは調うたまるさんの書かれた記事です。
一族を物語のなかでおもいます。
最近、星野フサという久留米出身の教育者で社会事業家を知りました。明善高の前身久留米中学で男子生徒に混じってただ一人女生徒として学んだ、開明的な女性です。

かささぎ様へ

御返答ありがとうございます。何度も読み返させて頂きました。
御礼申し上げます。
星野フサ様も一統でありましたでしょうか?とても興味深いです。
私も長年の自身の研究についてブログを開設しようと
しているところです。もしよろしければ
ご高覧下さい。以下にプロローグをご紹介させて頂きます。
1535年星野親忠はいずこへ・・・歴史ロマンへの挑戦
妙見城から大内氏とともに・・・中国地方・・・越後へ・・・足尾郷へ・・・
星野鉱山から石見銀山へと足尾銀山へ(銅山)星野村大圓寺を信仰し足尾郷に大圓寺を創設し一家一城を構え一家一統の星野久之丞を共にし九曜星家紋と星野治部左衛門を名のり九州の血縁と連絡を取りながら九州の名物初期伊万里を手に入れ九州の砂鉄で作られた湯釜をかかえ、後に明国の磁器を手に入れ武士の家の誇りを持ち秘密とされる鉱山開発をし、また火縄銃筒士をそろえ異国の地で戦い立派な子供達を残し、教育にも力を入れ江戸時代を乗り越えてきたのです。1700年代の頃の当主が先祖に対して思い入れが強く、源頼政の墓前に参じ平等院通円(茶屋)製磁器を手に入れ(みごとな5本爪の龍紋様)平等院という院号まで頂いたのです。源頼政、小侍従、上皇、待宵小侍従、これらの先祖を偲び祈ったのでしょう。・・・つづく

うわあ。。。
すばらしい。
長年コツコツと地道にしらべてこられたのですね。

「1535年星野親忠はいずこへ・・・歴史ロマンへの挑戦
妙見城から大内氏とともに・・・中国地方・・・越後へ・・・足尾郷へ・・・」
これをみただけでも、興味をかきたてられます。

ブログ開設されたら、おしらせください。

そうそう。
『はんや舞の研究  筑後星野風流』の著者・国武久義先生も、ブログを開設されるといいなあとおもいます。とてもくわしく熱心に調べておられるから、ものがたりと史実が相即不離に近い関係にあることをしっておられるとおもいます。

星野フサが星野一党かどうか。
それはしりません。けれども、ほしの姓で久留米出身だから、なんとなく。

http://blogs.yahoo.co.jp/genryuu11
こんにちは!
上記のアドレスが
昨日開設したばかりの
私のブログです。
とても不慣れであり
時間のかかるものですが
少しずつ更新したいと思います。
ぜひ
ご高覧頂ければ
励みになります。
何卒よろしくお願いします。

二回行きました
コンテンツがまだ繋がっていないのかなあ
出てきませんでした
時々のぞきますね

滞在時間 27分37秒 閲覧ページ数 2ページ 参照元 足尾郷星野氏

そういえば。
源流さんはいかがお過ごしでしょうか。

このしっぽに、黒木瞳の父方のご先祖、樋口氏が絡んでゆくのですね。
星野の金山の話も実際に聞いたのは私は初めてでした。

昔、営業で星野村とかを回っていた時、山間部にしてはやたら酒屋さんが多かったので尋ねたことがあります。
星野村から矢部に通じて金山の鉱脈があるので、夜は毎晩毎晩たいそうな賑わいだったそうです。
矢部と大分の境に知人宅があって、庭に大きな深い穴がありました。
聞けば金山鉱の跡でした。中学生の頃です。

えめさん、こめんとありがとう。
いろいろわかっておもしろいですね。
星野は鯛生金山と近いので、おなじやまがつづいているのだろうかとイメージしてしまいますが、じっさいはどういうふうになっているんだろう。

たいおきんざん、地底博物館まであるみたい。

こんにちは。
ご無沙汰しております。
こちらへのご返信の方法が不慣れで
わからず
今まで時間を要してしまいました。
失礼致しました。

カササギの旗様
操作方法がわからず大変とご無沙汰してすみません。今教えてもらい書いております。
黒木さんのテレビ見ました。樋口氏の好意も知っております。
星野氏のルーツの追求のはずがいつのまに歴史にまでつかってしまいました。
この星野氏は源頼朝、熱田大宮、足利氏、日光山と深くかかわり日光山村にも
少しの歴史を残しております。
それは日光山天海が江戸時代以前の歴史物は
燃やしなさい。とのおふれが出たそうです。
星野家はかたくなに蔵を守るため開かずの蔵となりました。

かささぎさま

おひさしぶりです。調さんのお手紙(メール)を拝見しました。読みが浅いとお叱りを受けることを承知の上で、とりあえず2点ほど疑問に思うことをのべさせていただき、1点ご依頼したいことがございます。

なお、私は調さんのお手紙(メール)にケチをつける気など毛頭ございません。むしろ教えていただきたいのです。

〔疑問点〕
>小侍従ですが、(中略) 年代も年齢が合わないと言っているようですが、元々高倉天皇に御仕えしていた小侍従は待宵の歌を歌った小侍従とは別人で彼女の母親のようです。小侍従(阿波内侍)そして待宵小侍従は(貞政院)となっています。親子なんですね。二人を一人と見られておかしいと言っているようです。

→これを見ると、待宵小侍従は高倉天皇(1161~1181)に仕えていたという説があって、そうではない、それは彼女の母親だというふうに読めます。しかし、待宵小侍従が仕えていたのは二条天皇(1143~1165)です。大阪府島本町にある彼女のお墓ならびに顕彰碑の解説版に書いてあります。ただ、母娘が同一視されているという点は興味深いです。そこで、です。

>助能には三人の子供がいました。
・黒木氏(猫尾城)→黒木四郎 (父)助能(母)待宵小侍従
・川崎氏(犬尾城)→川崎三郎定宗 (父)助能(母)築地姫(島津忠久の養女)
・星野氏(妙見城)→星野胤実 (父)後鳥羽上皇(母)待宵小侍従

→3番目の星野胤実の父を後鳥羽上皇、母を待宵小侍従とするのが架空の話だといわれるのは、待宵小侍従はすでに老齢であり、後鳥羽院はまだ7歳であるからです。にもかかわらず、母親と同一視されているといわれれば、後鳥羽院は生まれていないことになります。読みが間違っているでしょうか。

何か混沌としてきます。

待宵小従侍を貞政院というのは、どこで付けられた院号なのでしょうか。

〔ご依頼〕
ともあれ、助能には三人の子供がいて、そのうち二人の母親は待宵小侍従だとしましょう。その待宵小侍従の願により高野山講坊(本覚院)を建立したというのは調さんがお持ちの資料のなかにあるのかどうか、お尋ねいただけないしょうか。お願いいたします。
(以上の文章、混濁しています。お許しください)

わわわ!
どちらさまもおそろいで。
わたしは土日とひさびさの連休で、しかも梅雨晴れ間。電話線をひっぱりすぎて切ってしまい、ふつうになっていたのをNTTの業者さんから直してもらったり、そのために(他人さまをへやにあげるために、といういみ)、ごちゃごちゃ散らかっていた部屋を必死でかたづけたり、とにかくいそがしかったので、いま、ひらきました。笑。
それに外!たいへんなことになっている。
草が樹木が。うっそうとしげって。
これらをちょきちょきやらねばならないし。

源流さま。コメントありがとうございます。
まだよくわからないんです、よめていないからですが。だけど、なんとなくつかめるものがあります。
だいじなぶぶんはおもてにあらわれない、ということですね。

すいげつさん。じつはわたしもききたいことがあります。それはほけきょうについてです。
こないだもきいたけどさ。どうもいまの時代のかささぎが思う法華経は、そーかがっかいという教団ごしであり、そのイメージしかないといってよく、どうもこの先入観を払しょくすることがむずかしい。
しかし、ゆくさきざきで、法華経にぶつかります。
南北朝の星野で崩御された親王、それから、行空、うんととんで、いまのこうしつのまさこさまのおうち(これはさいきんネットでしったことですが)。、
法華経がほかの宗派仏教といちちるしくことなるのは、ほかの宗派を否定する所。だとおもうのですが、これはひとことでいうと、どういう宗教なのでしょうか。
わたしはそれをいま、しりたい。

じょうきのすいげつさんの疑問は、きっとみんなの疑問です。
わたしはさ、もうしわけないけど、こういうとき、やまもとけんきちのかいていた、戦国の世の系図買いというものを連想します。
わからないというのがほんとうのところでしょうね。

>星野鉱山から石見銀山へと足尾銀山へ(銅山)星野村大圓寺を信仰し足尾郷に大圓寺を創設し一家一城を構え

あしおごうにもだいえんじがあったのですか!
いつごろのはなしかな?ちょちょっとまって、いますぐしらべる。

おお。ぐぐっても、げんりゅうさんのブログきりしかでません。まさにまさに、源流なんですね!
ここです↓。
真の歴史がひそかに息づいている。

それにしても、もどかしいなあ!
きっと手元の原稿には写真資料もあるのだろう。
それが技術的なことでブログアップできていないようです。
東京のさくらさんに現地へ出向してもらって、ご指導されるとばっちりなんだろうなあ。なんてことをつい本気でおもうかささぎであった。
きっとさくらさんの紹介された東京のだいえんじも、水面下でつながっているから。

「うがやふきあえず」についてしらべているとき、このサイトにいきあいました↓。
おもしろいです。
九州俳句誌に「暦論」をかいていたころ、大友能直のうえつふみにぶちあたりましたが、それがどういうものかは、まったく曖昧模糊としたままでした。
これで門がすこしづつひらきそうです。

カササギ様
御返事遅く申し訳けありません。
星野氏のルーツを探すのが目的です。その過程で
色々な歴史がわかって信じられない方向へきてしまいました。(これがほんねです。)

この歴史遺物の写真の掲示も考えましたがチユウチヨしております。誰か歴史研究者が発表されたほうが有意義と思います。(どう思いますか?)

九州星野親忠、星野治部左衛門
熱田大宮司、星野久之じよう
二家が足尾郷、日光山村に歴史を残しておりました。

>この歴史遺物の写真の掲示も考えましたがチユウチヨしております。誰か歴史研究者が発表されたほうが有意義と思います。(どう思いますか?)

躊躇なさることなく、公開なさったらどうでしょうか。
どなたかが、というようなおきもちは、ちょっとうるわしくもありますが、しかし、じっさいは、こういう研究は個人のものです。個人がみつけたものは、個人が世に出すべきです。なぜなら、そこには個人の思い入れがあるからです。
それは偏狭な考えからではなく、世の中と歴史を信じるからこそ、そのようにおもいます。

きょうのクローズアップ現代、みられましたか。
ブログとかのパソコンのデジタルメモリーが、遺品として残ることについて、しまい方をどうするか。でした。
それとおなじように考えればいいのでは。
つまり、電脳の巨大な宇宙に、源流さんやかささぎやがちょこちょこっとしらべてかきこんだ、資料がのこされるとします。そうしたら、いつかだれかが一行でも目にとめて、なにかの参考にしてくれないとも限らない。
また、もしまちがっていたとしたら、だれかが訂正記事をかいてくれるかもしれない。

そういうことをおもうと、わたしはこれまでかいてきたことを、どんなにしようもないことでも、けしたくないなあ。とおもいます。はじみたいなこともです。
なかば、意地みたいなものですが。

ところで、源流さんは、栃木の方ですか。
と、こんきょもなく、とうとつにたずねるかささぎ。
そして、ほしのいちぞくのおかたですか。
なぜ、ほしのいちぞくにきょうみを持たれたのですか。
また、気が向かれたら、教えてください。

新発見!美濃守鑑述と鑑実の関係
~~~~~~~~~~~~
13世紀なかごろ、大友能直の六男の時景(大和守景直)が一萬田氏を興す。
一萬田氏は、景直-光景-宣景-宣政-真政-貞直-直政-直泰-常泰-親泰-親実-鑑実と続く。
戦国時代初期、一萬田常泰は、大友義長、義鑑、義鎮(宗麟)の加判衆をつとめた。
常泰の孫の親実も宗麟に仕える重臣であったが、天文22年(1553年)、宗隣は親実の妻を寝取り、宗麟の命により親実は切腹となる。
親実の嫡男の鑑実(あきざね)が一萬田家の家督を相続するが、鑑実は宗麟を恨むことなく仕え、鑑実の嫡男鎮実(しげざね)は宗麟の娘を妻とし、鎮実に一萬田家の家督を譲り、鳥ヶ鼻城主(橋爪)を継承して橋爪氏となり、鑑述(あきのぶ)に改名した。鑑実の官途は美濃守。
鑑実は城に住まず、山々を見下ろす景色のいい館に住み、色々な花木を植え育てた。中に「黒染めの桜」という珍しい桜があり、天正初年、宗麟を迎えて二夜三日の大観桜会を開いた。1571年には正月俳諧を興行している。
~~~~~~~~~~
八女百首は美濃守鑑述が取りまとめ、読み手のひとりに鑑実がいるが、同一人物くさい。
また、八女百首が詠まれた天文24年は、宗麟が父親を死に追いやった直後であり、その心中や如何に。

乙四郎先生、ありがとうございます!

もう二度と呼び捨てしません。
影さえ踏めないかんじです。笑。

すこしづつ、すこしずつ、ひらけてきましたね。

ところで、けさ。

調一族のかたに新聞でばったりあいました。
基山町住職、しらべ・かんがさん。
寛雅さんは8年前86でなくなりましたが、タイ北部で日本兵の遺骨収集をされていたころ、タイの恵まれない子供たち6000人に奨学金を送った、という報道記事です。NPOえとう。慧燈。

おおもとをみたければ、すえをみればよい。
ということばがありますが、しらべさんは、ほんとうにあの伝説のあるじにつながるきがします。

カササギ様
1、大圓寺のはい寺は江戸時代中期と思れる。そのころの絵図に記載があるそうです。
2、現在日光在住、星野です。
3、あかずの蔵、星野久之じよう家の中身に私の系につながる古文書が出たのです。
4、それは足尾郷の星野治部左衛門につながっておりました。
5、あかずの蔵の中身は二家に分けられるほど整然とし保存されていました。
そこから研究が始まったのです。

星野一族のお方なのですね。
多分そうであろうと思っていました。
自分は何処から来たのか、資料があるなら 、とことん調べたいのが人だし、歴史に埋れてしまった秘密の扉をあけて、ひなたに出して、虫干しすべきです。
蔵にたくさん、整然とある、と聞いて、私は伊丹のかきもりぶんこを連想しました。それはそれはすごい宝でございました。資料館として、公開されることもありうるのではないかと思います。
歴史は生き物、わくわくしてます。
見たいなあ!と、星野一族は皆さん思われるだろうなあ。

40年程前に熊本の玉名で調一族の集いがありました。当時の、熊本日日新聞、西日本新聞に掲載されました。ご存知かとは思いますが、お知らせします。

カササキ様
色々御配きよくださりありがとうございます。
8月1日、越後相川のI,hさんがおみえになりました。足尾歴史館を訪ねて、本のr,Iさんにあわれ私のところに連絡が入り、会いました。大変熱心な方頭が下がリます。
私の連絡番号がわかっております。
足尾の方々は何もわかっておりません。歴史を敬遠している風土なのでしよう。
日本の公害の原点などとゆわれているせいか??
そのためにも歴史を調べ公開し先人の活躍を知らし公害の原因を検証し、国、私会社、と話し会う。
鉱山は各毒がつきもの、おいしいものだけ、は虫が良すぎる。
越後相川さん時間がなくてかんじんなところが見られずお帰りなさいました。ブログを見ればなんとなくわかると思います。
また田布施流秘伝書の中に大切な文章がありますので書こうと思います。   

源流様
コメントありがとうございます。
源流さんが片仮名でカササギさんとかかれるたび、私は岩明均のまんが、「七夕の国」にでてくる不気味なカササギ族になってしまう気がします。笑。
それと、どなたか存じ上げませんが、調一族の集会があったはなしを教えてくださいましてありがとうございました。わたしは一族ではないし、なにもしりません。またいろいろおしえてください。

ところで。今朝、八時四分でした、ここをでたの。
遅刻だと思いました、ラジオの宇宙人ジョーンズがうちの門を(ほんとはとなりの門です)まがったところで、すぐでてくるほど、遅れていました。
しかし、とうちゃくしたのは普段と同じ時間だった。

そんなことはどうでもいいんですが、あわてていたので、携帯に充電を忘れ、休み時間は本をよむことしかできず。
いけのりょうこさんのほん、167頁までいきました。
で、ふときづく。
地名について。
わたしは日曜日、九州王朝説がらみの動画をいくつかみたのですが、どれだったかなあ、銅鐸のなぞをとく、みたいな話をききました。そのなかに、野洲というところがでてきたのです。どうも↓、滋賀のやすしというところみたいでした。
しかし、わたしは、池野さんの足尾の銅山の本で、野州阿蘇郡足尾村、という地名をなんどかめにしていたため、野洲(やす)と野州(やしゅう)がごっちゃになってしまいました。
ついでのことに、しらべうたまるさんが、やめにくるたび、あさくらによらねば、といわれるのがきになります。あさくらのほうに、やす、ありませんか。やすはやすでも、夜須とかくやすです。

夜須町(やすまち)は、福岡県朝倉郡にあった町。2005年3月22日に、三輪町と合併して筑前町となった。(うぃき)

がーん。なくなったんだ。ばかじゃなかろうか。
なんでもかんでもけしてしまって。

みわまち。さいきん、みわにかんするこんなわだいをよんだ。鍬塚聰子ブログ↓

アドレスをいれそこないました。
さとこの日記のひろばブログ、から、「奈良聖林寺」

暑中お見舞い申し上げます。
今年も暑いですね。お体ご自愛くださいませ。
夜須、仕事で昔よく行ってました。
市町村合併でたくさんの地名が消えていますね。
甘木市も朝倉市になっちゃったし・・
でも通ると今でも昔の地名で言いますが・・

えめさん、あちこちいっておられるから、おくわしいですね。あまぎがなくなったなんて、しらなかったな。

ところで、源流さんのブログへいくには、ある程度よびちしきをいれてからでないと、まったくこなれてくれません。池野亮子氏の本はすごくいいです。
よんだら、まわします。
そういえばあの本もまだわたしていなかったなあ。

飛んできました。

やまももさん、ありがとうござんす。
なつやすみ、ながいですよねえ。
なつ、ながし。

こないだ、レッドクロス、みましたか?
わたしは大東亜戦争のこと、しっているようで、まったくしらない。
第一夜は途中でねていた。
第二夜はさいごまでみた。
侵略者としての日本軍、えがかれたのはじめてでは?となにかしら感慨深かった。
せっかくのドラマは、なぜ九州弁をつかわなかった。そこが失敗の最大要因だと私は思う。
ヒロイン、黒木瞳にやらせれば完璧だったのに。

ところで、ロケ地に足尾銅山。↓

従軍看護師も赤紙が出たということをしりませんでした。
九州国連病院、とか、はじめて聞きました。
まったくほんとうに視野がせまい。
ひとをたすけるような人は、こどものころから身近にそんなおとながいるのですね。

うたまるさんのご一族のお墓、大丈夫だろうか。

それから、ここのコメント欄で、
水月さんにまっすぐ聞いてしまっている件、
昨日でしたか、あるかたの研究論文を読み、
へえーと思いました。
親鸞の、書いていることと話したこととの差について、だった。
なぜ教行信証には法華経からの引用がないのかについての考察。

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