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2009年8月 8日 (土)

朝顔忌はまだですが。

朝顔がさいてると荒木田守武を連想する。

旧暦の八月八日が守武忌。(新暦だと9月初旬)

八女百首の嵐竹の歌を竹橋乙四郎が論じてくれたことを思い出した。

http://tokowotome.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-04da.html

その件について、最近きづいたことをかく。

嵐竹の恋の歌、「来て逢はざる恋」。

とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな   嵐竹

庚申の夜には信仰上、一晩中おきていたことがこの俳諧歌の背景にあるのだが、そのことに付け加えて、つぎの吉田兼好の歌にみられるような掛詞的な連想(かの、得ざる)もあったのではなかろうか。いや、たぶんそうに違いない。歌に余裕のようなものが感じられるのは、きっとそのせいだ。すごい歌の知識があった人だったんじゃなかろうか、この嵐竹って人は。

 たまたまネットでみつけた、秦恒平の兼好のうたの読み。
出色ですので、そのまま冒頭を丸ごと引用させていただきます。

兼好の思い妻
     
  
秦 恒平

久しぶりに『兼好法師自撰家集』を読みかえしていて、前半、それもわりに早い部分に、前後を「恋」の歌に埋められ、なにげなくこんな歌の織り込んであったのに気がついた。

  つらからば思ひ絶えなでさをし
かの
     えざる
妻をも強ひて恋ふらむ

 たんに「かのえさる」と題してあるのは、「庚申」の歳に詠んだ述懐歌なのだろう、歌のなかに、きちんと題が詠みこんである。「小男鹿の得ざる妻」に重ねて、どうやら「かの、得ざる妻」という痛嘆があらわれている。
 つらくなると、あきらめきれずに、それ、山の小男鹿がまだ逢えぬ女鹿を、あんなに恋いこがれて啼いているよ──というのが表むきの意味だろう。
 だがほんとうは、そんな小男鹿と同じように、あの、とうとう得られなかった思い妻、心の妻のことを、今も恋しく思い出しては泣けてしまうよ──と作者は詠んでいるらしい。
 兼好法師が、名高い『徒然草』を著した人であることはまちがいない。彼が俗名を卜部兼好といったこともまちがいない。官位は従五位上左兵衛佐にまで至ったらしいから、けっして身分の低い存在ではなかった。吉田神道の家に生まれ、異腹と思われるが兄弟に比叡山の大僧正になった者もいる。五位をかりに山の五合目と下から眺めれば、まずは文字どおり雲上人にちがいない。兵隊の位でいえば堂々たる聯隊長格、麓はおろか地下の衆庶からは仰ぎ見るほどの、末流ながら貴族の一人であった。
 兼好は生涯に二度関東へ旅しているが、そうして地方へ出て来られると、彼ていどでも地元ではもてなすのに重荷だったふしが見える。
 だが、都では、ことに宮廷をめぐる貴族社会のなかでは、五位やまして六位蔵人ていどの兼好は結局は「高貴」に仕える「従者」の地位を脱け出せないさだめを負うていた。卜部兼好は年少の頃から大臣堀川(源氏)の諸大夫であった。内大臣まですすんだ堀川具守の家司であった。わかりよくいえば家来、側近の一人として官途にも推挙された末輩の一公家にすぎなかった。
 それがいつか出家をして『徒然草』を書いた。のちに和歌四天王の一人に挙げられる歌詠みとして知られ、晩年に兼好法師家集を自撰した。ただし、とくに他に業績らしいものもない。著述も伝わらない。バサラ大名高師直の人妻への横恋慕を手伝って、艶書を代筆したといった醜聞も脚色されているが、真っ赤なウソで、取るに足りない。
 『徒然草』があっての兼好──というに結局尽きている。それでまた十分、十二分なほど『徒然草』の価値は高い。
 『古事記』『万葉集』『源氏物語』『平家物語』の四冊で、ある時代までの「日本」はほぼ代弁できるだろう。『今昔物語集』や『梁塵秘抄』を加えてもいい。中世に入ると思想的に内容が拡大するので簡単にはいかないが、その中でも『徒然草』を落とすことはけっしてできぬとだけは言いたい。『徒然草』にまったく学ぶことなしに「日本」は語れない。

続きが読みたい方は、:

http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/hata-kouhei16%8C%93%8DD%82%CC%8Ev%82%A2%8D%C8.html

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コメント

「小男鹿の得ざる妻」
橋爪鑑実がこんな歌を詠んでいます。
四十三     鹿     鑑実
さをしかの妻こふ野路の朝な/\
咲ける小萩の露こぼるらん

そして、鑑実はもう一度「萩」「露」を詠み、「秋風」で受けています。
四十五     露      鑑實
をく露は萩の上葉にとヽまらで
つれなく残る秋風のこゑ

「秋風」は33番から39番までひとつ飛びに吹いていました。
三十三  泉   宗房
をのずからまたこぬ秋の初かぜや
わきていづみのゆふ暮の空
三十五  立龝    嵐竹
昨日までふくとも見えぬ秋風の
簾にさはる初秋の空
三十七    萩     覚元
ほのめかす軒端の萩を来てみれば
露うちなびく秋の初風
三十九   薄       鑑栄
花すヽき音信わたる秋風に
あだにやなびくゆふ暮の空

「萩」と「露」は、37番、41番、43番、45番と、これも奇数番で続いていました。
四十一   萩    鑑述
龝の野や千草の色にひきかへて
錦をかざす萩の白露

このように、八女天文百首には、いくつかの語彙の組み合わせの集中が見られます。
1番、2番、3番と、81番、82番、83番の6首もそうです。
一    立春      鑑述
君が代のためしにすめる千年川
かはらぬたねに春や立つらむ
二     子日        鑑教
さゝれ石の庭に小松を引き植ゑて
苔のむすまで友とこそ見め
三    霞         鑑實
朝夕に霞たなびく小松原
きみがちとせの春ぞ久しき
八十一  松   弘智
得てうへし松にならへる君が宿を
猶すみよしの神や守らぬ
八十二   竹    宗房
きみが代を久しかれとて植へをきし
たけの臺のかげ越しぞ思
八十三   苔    鑑栄
千代をかね松の下蔭苔むして
雨にいづれも色ぞまされる

「秋風」をリードした宗房という人物が気になります。
それなりの立場の人でなければ、後がこんなに続くことはないでしょう。
やんごとなき、遠来の客人ではないかと思います。
そして宗房の「秋風」を受けた「嵐竹」は随行の学識者ではないか。
四十六    槿(あさがほ)  嵐竹
あだなりと見しは残らじ槿は
世にはてしなき秋ごとの花
七十三  来不逢恋  嵐竹
とひきてもねぬときなれやくやしくて
おもひわすれじ庚申かな
他の人と違い、嵐竹は本名ではなく、ペンネームくさい。
あさがほといい、嵐(=荒木)といい、竹(=武)といい、庚申といい、守武を意識せざるを得ない。
最近亡くなった守武を偲んで臨時に命名したのではないか。
宗房も、81番の 神や「守」らむ に82番を「竹」で継いでいる。

当時、松木宗房(まつきむねふさ)という人物がいました。公卿。藤原氏。権大納言飛島井雅教の男。権中納言宗藤の嗣子。
1537年生まれなので天文24年には、まだ18歳。しかし、この方、天文13年、7歳にして従五位下の位が与えられています。
82番の「たけの台」は、京都御所の清涼殿の東庭にある呉竹の台と河竹の台の通称です。

松木宗房と一字違いの松尾宗房は一世紀後の芭蕉のこと。
松木宗房にあやかって命名した、なんてことはなかったろうか。
そして、松木宗房の近くにいた嵐竹にあやかって、蕉門の1人に嵐竹の号を与えたのではないか。
芭蕉も守武も同郷(三重県)

おつしろう、ありがとう。
なんというべきか、わからない。
こういうよみをみせられると、あたしゃなんていうか、おお神よ・・といってひざまづいて感謝したくなるよ。
夫婦仲が救いようがないことまでもがありがたくおもえるよ。どさくさにまぎれていうべきことではないが。
いつもおもっていた、古典は古典学者がよむんじゃなくて、ぜんぜん別のあたまのにんげんがよむべきだと。おつしろうの文章の素(す)を、まだよくしらないけど、国文を出ているわけではなさそうだし、百首和歌とはこういうもの、という先入観あたまでよんではいないから、みえるものがあるに違いない。とおもっていた。
自分が起こしたうたなのに、おつしろうが引用すると、まるでちがううたにおもえてくる。ふしぎだ。
とにかく、ありがとう。八女市民一同お礼をいいます。

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