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2009年8月14日 (金)

中山宙虫・第41回九州俳句賞受賞作品

第41回九州俳句賞(応募総数24)

包み

 中山宙虫(なかやま・そらん)

末黒野にあるという鬼の本籍地
ゆすらうめ咲いて小さな事故がある
うららかやみんなが落ちる街の穴
やわらかな風は田螺を眠くする
さえずりの山頂やがてくる沸点
あめんぼを散らして森の水を汲む
店の名はQではじまる驟雨かな
人間が呼び合うことのない水田
手をかざし邑の終わりを見る七月
炎昼の裏から街の循環バス
風尽きて村につぎつぎオクラ咲く
とうきびが刈られて青い封書くる
柿赫くひとは小さくなってゆく
栗売らる地下には地下の風溜まり
源流のそのまた源流木の実落つ
秋風や歩いて埋まる人類史
ラジオから罪状聞こえている冬田
少年の影がこぎだす冬のブランコ
風花の僕に都合のよい記憶
冬眠のものたち雨を聞いている

中山宙虫
略歴:1955年生まれ
1999年より俳句に関わる
俳句誌「麦」「霏霏」同人
現代俳句協会会員

【受賞のことば】  

        中山宙虫

 十年。俳句に出会っての月日。それまでの人生に文芸に関わることは全くなかったが、十年続けてきて、ひょんなことから「九州俳句賞」をいただくことになってしまった。
 振り返ってみれば、五里霧中とでもいうのか、何ひとつ思うように見えない日々が大半だった。光が差したかと思えば、あっという間に迷宮に。形がありながら形が見えない。
 自分の俳句の行く末に何を見たかったのか。こうしてこの場に立った自分の足跡は、趣味という整理をし、自己満足という整理をして結論づけてきたもの。この「九州俳句賞」はまさかの世界。明日からのプレッシャーだ。
 ここまで、つかみどころのない私の俳句をこつこつと指導してくださった成清先生。俳句の座の素晴らしさを与えてくださった星永先生。大分県現代俳句協会はじめ九州内の諸先輩。連句の仲間たち。インターネットで関わった方々・・・。私には礼を言わなければならないたくさんの人がいる。

  『九州俳句』誌 155号より引用
   2009・8・15発行

〔批評文〕

『中山宙虫 「包み」を読む』   西口裕美子

 涼しい。中山宙虫の俳句に触れた時の感覚である。どこかで水の音がし、どこからか風が吹いてくる。
 難しい言葉を使わず、俳句の型、正確に言えば、作者自身の俳句の型になじむ言葉を選び抜く。季語も然り。自分なりの“消化”をした上での季語を使う。つまり、自分の感情に根ざした表現を彼は自分の俳句に試みているのである。やわらかで、したたかな中山宙虫。彼の俳句の魅力をそこに見る。
 俳句は、作り手と読み手の共同作業で成り立つ。十七音の詩だからこそ、読み手をはぐらかすことは簡単である。しかし、それをしてしまえば、二者の関係は成立せず、俳句を味わうことを難しくしてしまうのだ。読者に自分の句を委ねる時には、作者は潔く“鍵”を渡さねばならない。
 中山は優しく微笑みながら、自分の鍵を我々読者に手渡してくれる。そして、私たちは彼の肉体から生まれた句を心地良く読むのだ。静かで優しいその調べは、まさに中山そのものだ。そう私たちに感じさせる。しかし、実はそれだけではない。

 
末黒野にあるという鬼の本籍地
 人間が呼び合うことのない水田
 手をかざし邑の終わりを見る七月

 これらは静かな〈不在〉を表した句だ。在るべき場所に〈不在〉なものを見詰める作者の目は笑っていない。〈今〉をじっと見詰めているだけだ。見えない、不在なものの中に今を感じ、表す。それが中山宙虫の句の真骨頂なのだ。末黒野のあの辺りに鬼の本籍地があるという。今ここに鬼がいるとは詠んでいない。水田に在るべき農民の姿。邑に在るべき人々の営み。作者はそういった〈不在の今〉を手をかざして見ている。ものとの距離感。これもまたこの作者の魅力だろう。対象にぐっと近づき、そのものを描く。そのことで自分を描く俳句。ところが、この作者は既に感じとっているのだ。ものと自分とが必ずしも一致するものではない、ということを。そこに一致を見出せない時には大概、その対象を創作のステージから下ろす。だが、中山は敢えて下ろさずに、今、目の前に在るもの、在るべきはずのものを距離を置きつつ見る。見えるまで待つ、という姿勢で。

 ゆすらうめ咲いて小さな事故がある
 風尽きて村につぎつぎオクラ咲く
 とうきびが刈られて青い封書くる

 俳句における「て」。この作者の上手さは例えばこういうところにある。激しい衝撃を避けて二つのものを柔らかくぶつけ合う。徹底して事を叙しながら、読者に情を持って読ませるように仕掛ける。小さな花をぎっしりとつけた山桜桃。その花が咲くことと小さな事故。この句の「て」はあるいは「~ので」と読ませるのかも知れない。風が凪ぐ時、次々と咲くオクラ。静かな村の時間が流れてゆく。安らぎの向こうに小さな狂気が見えるのは、「つぎつぎ」にやわらかな淡い黄の花が咲くからだろう。とうきびが刈られてから来る封書。夏が終わる頃にやって来る手紙の中にある小さな不吉。青い封書がいつか赤紙に変わる日が隠れているようで、うっすらと怖い。そうなのだ、言葉の中に小さな軋みを感じとり、そっとそれらを並べてその場から立ち去るのが、この作者だ。自分の体験をどのようにして言葉に託すか。そこに個性が出てくる。この小さな詩を、この作者はぎりぎりまで考え、作り上げてゆく。

 柿赫くひとは小さくなってゆく
 栗売らる地下には地下の水溜まり
 源流のそのまた源流木の実落つ

 

 赫く熟れた柿は実景。対照的に小さくなってゆく人はこころの目に見える内容。地下の風溜まりも心で見るもの。だから「柿赫く」「栗売らる」で切れる。そう読んでゆくと、三句目は「木の実落つ」もしくは「源流のそのまた源流」が実景。「源流のそのまた源流に木の実が落つ」とは詠んでいないのだ。源流にいて、どこかで落ちる木の実の音を感じるのか、木の実が落ちるのを見て、遠い源流の果てを想うのかのいずれであろう。みえるものを叙して見えない心を詠むというスタイルを敢えて選ばない、中山宙虫的スタイルなのだ。
 タイトルの「包み」をどう解釈するか。外からはわからないよう、見えないように包むもの。それは、例えば、「うららか」さ。「秋風」、「風花の記憶」、田螺を眠らせる「やわらかな風」、冬眠のものたちが聞く「雨」の音。見えないものを見えるまでじっと待ち続ける作者の孤独。その寂しさを癒してくれるものたちを、「包み」と呼んでいるのかもしれない。
 九州俳句大賞受賞を心からお祝いします。

俳句誌 『霏霏(ひひ)』 第六十一号 秋
2009年10月5日 星永文夫・編集発行

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コメント

そらんさん、遅くなりました。
連句の座で預かっていたものを、やっと今朝うちこみました。
あと、鑑賞文の藤本とみ子氏、山田節子氏の優れた批評文がございますが、長大になりますので、勝手ながら割愛させていただきます。なにとぞ、ご容赦くださいませ。
連句でごいっしょした皆様、どうぞ連衆の一人である熊本の俳人・中山宙虫のしごとをごらんください。

検索サイト Yahoo  検索ワード 俳句 虫


名前の虫にヒットしたのかな。

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