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2009年7月29日 (水)

歌集『チョコレート革命』と映画『TANNKA 短歌』とかささぎと

 DVD映画『TANNKA  短歌』(阿木燿子監督)をみた。

 原作は歌人・俵万智。
 映画のなかに効果的に散りばめられている、『チョコレート革命』の短歌作品。
 一人の女の、若い男と中年男性との色恋をえがく。
 恥ずかしながらかささぎはこの年まで成人映画をみたことがなく、女性監督作品なのに、!という場面が続くのでどぎまぎしたんですが、みているうちにだんだん監督の意図もわかってきました。以前ジュディ・オングが歌っていた『魅せられて』の詞を書いた阿木さんの「してやったり」って顔がうかんでくるような映画でした。
すきなおとこのうでのなかでも、ちがうおことのゆめをみる・・って歌詞を書いてた人ですし、おなじおんなとして、きもちはじゅうぶんわかります、かささぎも。
監督インタヴュー:http://www.hollywood-ch.com/report/interview_tannka.html

 この俵万智の歌集が話題になっていた頃、『連句誌れぎおん』に歌集評を書かせてもらっていたのをひょっこり思い出しました。(れぎおん20号、1998・1月号『俗の細道(八)』)
 れぎおんの前田圭衛子編集長には一種独特のやまっけみたいな気があり、その強力なそそのかしによってつい書かされてしまいました。
久々に読み返すと、自分のつっぱりが透けて見えるし、正直な苦悩もどこかにみえます。
妻にとっての愛人というみえざる「敵」の歌集と正面から切り結んだ、もう二度とは書けない文章であります。

かささぎのライフワーク「張形としての俳句」とまっすぐつながるテーマ。
自己嫌悪の情をこめ引用する。(私はなんとうそつきだったのだろう。)
この文章をかいたころの自分と、今の自分ではかなり意識が変わっている。
育児をしていた、家庭をまもるのに必死だったこのころの私は、自分の性をやっきになって否定しようとしていた。べつのことばでいえば、抑圧しようとしていた。いまはそれがよく見えます。映画は、そういった抑圧のいやらしさを自然に解放してくれる。ありのままでいいんだと、すべてを肯定してくれる。それはとってもやさしいことに思えてきた。
自分のこれまでの人生って、いったいなんだったのだろう。
もうすこし、女性性をだいじにしたいし、女であることに誇りを持って生きていこう。

俗の細道(8)
ー 『チョコレート革命』 優等生の幸福な不幸ー

      姫野恭子

 俵万智の『チョコレート革命』批評を試みてみたい。普通批評のためには、なにか確固とした比較の対象が必要なのであるが、そんな大層な“短歌の地平”を所有するだけの知識もない、短歌初学のミーハーであれば、思い切り過激ないちゃもんをつけるのが積の山である。初夏だったか、西日本新聞の文化欄で伊藤一彦氏の同歌集批評文を読み、全く同感であると紙面に相槌を打ったことを覚えている。それで、批評の勉強のために、千五十円支払って歌集を買い求めてきて読んでみた。

 なんと今年五月八日の初版なのに、私が八女の積文館書店で買ったものは「六月十日十八刷」である。誰が買って行くんだろ。私みたいにいちゃもん付けるために読むという心貧しい者たちは、わざわざ買ってまでは読まないだろうから、やはり万智さんのファンの方々が大勢いらして、その方々が購読されたのだろう。

 優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる

 歌集をひもといて最初の章の五首目に置かれた歌である。この「チョコレート革命」は後記によれば作者二十八歳から三十四歳までの作品を、制作年順ではなく内容によって並べ替え、編集したものとある。万智さんは連句もなさるようだから、この作業は序破急その他自然な意識の流れを考慮して編まれたものと思う。

 上記一首はなんとよくこの歌集の出自を語り得ていることか。
アイドルが脱いだ、というだけのことだ。ブリッコするのも苦しい年になった歌手とおなじね。なんていったら、あんまりだろうか。
 それにしても、抱かれた抱いたという語の頻出する恋愛歌集を読み通すのは、ツライ。つらい、かったるい、てれくさい、気が重い、よだきい、しからしか。
そ、せからしか。
三人の子持ちで恋愛やフリン等から最も遠い距離にいる主婦にとって、それが偽らざる感想である。

 抱きあわず語りあかせる夜ありてこれもやさしき情事と思う
 水仙をふるさとの花と思うとき暗き海色の花瓶を選ぶ
 骨の髄味わうためのフォークありぐっと突き刺してみたき満月
 「恋」は「孤悲」だから返事はいらないと思う夜更けのバーボンソーダ

 肉欲的なうたからは離れたものを選んでしまった。一応、この四首をだしにして、何かを語り得たらとおもう。
 まず「やさしき情事」の歌。わたしはこのうたの「これも」という語が気に食わない。「これぞ」でなければいけないと思うのだ。三十代の俵万智の考える情事が、性愛的な戯れであるとしたら、四十代の私の考えるそれは肉の交わりのない霊的交歓であり、たとえばアガサ・クリスティーがメアリ・ウエストマコット名で書いた小説「春にして君を離れ」に描かれたヒロインの夫とヒロインの友人との、おなじ痛みを分かち合うだけの関係などはとても印象深く残る「やさしき情事」である。
 二首目、水仙の歌。俵万智の故郷はどこだろう。大阪生まれ、とあるから、与謝野晶子と同じ関西人だったのだ。このうた、暗き海色の花瓶がとても効いている。蒼い海色ではなく、暗き海色の花瓶に活けられて、凛とした香気を立たせる水仙は、この歌を詠んだ日の俵万智そのひとに違いない。私はこの歌の香りを信じたいし、煩悩の穢れを無意識の裡に祓っているものとしたい。
 三首目の満月の歌。なんて痛々しい。癇癪を起こした女の自虐の歌。骨の髄を味わうフォークというのがどんなものか知らないが、歌のコワサは理解できる。満月にフォークを突き刺したいとの願望。
 ここに引きたいのは「元始女性は太陽であった」で始まる有名な平塚らいてうのことばであり、その思想への反感である。青鞜の時代には輝いていたスローガンであろうが、時代を経た今、とても使える代物ではない。なんとかこのことばの桎梏を解けないだろうか。これからの女性の理想像の提示。
 これしかない。と思えるものが、実はある。
 「nothing like the sun」である。英国の歌手、スティングのアルバムタイトルにある「太陽の比ではない」存在の月になること。女は月でいい。いやむしろ月こそ太陽もしのぐものとして輝くことができるのである。スティングは霊的なすごい力をもった詩人だ。このナッシング ライク ザ サン と言うことばは、シェイクスピアのソネット130番の冒頭にある、「わたしの恋人の目は少しも太陽のようではないし、」と始まる恋歌である。それをスティングは「シスタームーン」で月の賛辞として復活させた。もうわたしたちは太陽になんかなりたくはない。月のようににびいろのやさしさで傷ついたたましいをいやす、そんな存在の女性が今後は求められるはずだ。
 最後のバーボンの歌。恋は孤悲、という言い回しを最近私は何かで見た。
そうだ。おそらく俵万智と同世代とおぼしき歌人、松山の俊成圭の処女歌集『風を聴く耳』(青葉図書)にあったものだ。

 つれづれに歌えば孤悲は濃く淡く流れる時の空を彩る   圭

 時代の不幸とは何なのだろうか。自由が不自由な檻であることに気づかないふりをしなくちゃいけないこと。ああ、振り返れば、現在中一の長女が小4の少女だったころ、保護者参観で性教育があったときのことが忘れられない。赤ちゃんは愛し合った男女二人のセックスによって生まれてくるのだ、と先生はおしえた。これはうそである。愛情がなくても人は性交できるし、愛情があっても赤ん坊が生まれてくれないこともある。『新世紀エヴァンゲリオン』という本音むき出しの、過激な少女漫画が異常なほど娘たちのこころを捉えたのは、こんなおとなの欺瞞に虫唾が走る魂の自然な要求であった。これにでてくるヒロインヒーローたちの家庭は最初から崩壊している機能不全家族である、というのも圧倒的な共感を呼んだ理由だ。
 俵万智の不幸は、野性を認めぬ時代の代償行為のごとく、唯一残された身のうちの野性=性愛を愛情と錯覚したことだった。おっとにふりんをされたつまのがわからものをいわせてもらえば、そうだ。優等生ほどでっかいフォークで月を抉っているように思えて、不憫でならぬ。

 (連句誌れぎおん20号、1998年1月号掲載)

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