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2009年7月14日 (火)

坂本画伯を久留米にとられそう。

坂本繁二郎画伯を久留米にもどそうという動きがある。
というのも、これまでは繁二郎といえば八女の専売特許っぽかったから。
くるめで文化財担当のしごとをなさっているやまなみ短歌会所属歌人で連句仲間*の古賀音彦さんが桜島へのみちみちおっしゃっていた。
そういえばわたしの勤める会社、繁二郎生家前で交通誘導してた。
最近、伝票の整理したので記憶がある。

「もしやそれは八女市が遺族に寄贈されていただいじな絵にカビをはやして回収されたからですか」

「いや、それはまったく関係ありません。
もう前もって去年八女にはあいさつをしている。」

ふうん。
石橋秀野のときも資料のあつかいは難儀をきわめた。
予算も時間も人員もまるでない「公」と、愛情深いファンである「民」との敷居。
思い出すのも気がめいる話で、だれが悪いわけでもないのに、おせこせする。
ああかんがえるだにほんなこてしぇからしかとです。

だけども。

資料自体にきっと明確な意思があるにちがいない。
それが、自分の納まるべき場所に導いてくれるだろうとおもっている。

* 連句を一度でもつきあって下さった人は、大事な連句仲間とみなされる。

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コメント

昔の人の謎。

坂本繁二郎は1882年久留米生まれ。
父・金三郎は坂本が4歳の時に死去。
金三郎の長男・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめる。
1900年、坂本は母校の図画代用教員となった。
経済的にゆとりがあるとは思えない。

1902年、上京して小山正太郎の「不同舎」に入る。
20歳の坂本、職を捨てて上京。
生活費は?

1921年、渡仏しシャルル・ゲランに師事する。
39歳の坂本、欧州へ。
渡航費は?生活費は?

1924年、久留米に戻る。
42歳の坂本、もう遠くへは行かない。(行けない?)

1931年、高校教師梅野満雄の援助で、八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
49歳の坂本、八女の田舎にアトリエを建立するのにも援助を必要としている。

大富豪の子息でもない坂本が、20歳以降、職らしい職にもつかず、どうやって欧州留学できたのだろう。
坂本の代表作は八女のアトリエで生まれているので、それ以前の作品がそんなに高く売れたかどうかも疑問。

年譜の補強。

1908年、東京パックに入社し、紙上掲載の漫画を描く。
1911年、東京パック退社。

久留米市梅満町(かな?)にある坂本繁二郎さんの生家が修復保存されて資料館っぽい扱いになるみたいですね。どことなく洋風の面影をのこす質素なちいさな家です。209号線沿いにあって、「坂本繁二郎の生家をのこそう」みたいな看板がかかってたようながする。

あそうか。じゃ庄島町は青木繁の生家跡があるんだ。(その隣にわがいとこ田中恵の夫一家はこどものころ住んでいた。)
おつしろう。
質問に答えられるとおもう。
繁二郎がいくつのとき。はたちね。
兵役を免れたのは、背がたりなかったからだそうです。基準の153センチに3ミリ足らなかった。青木繁は乱視その他でおなじく兵役を免れる。
このチャンスに上京しなければ、一生代用教員でおわってしまう。とおもった繁二郎は、一大決心をして上京するのですが、母歌子もそれを望んだそうです。一人で広い久留米の家に住むのはもったいないと、一間だけを自分用にして、ほかは間借りに出して、学費を送金してあげた。えらい母親ですよね。
兵隊にとられたとおもって、送りだすのです。
(ほかに権藤家の支援もあったかもしれない。と書かれているのは、おかねもちの親戚のこと。)その年の八月青木といっしょに上京しています。
これが第一の疑問への回答。

坂本繁二郎の洋行費用について。
当時の繁二郎は二科展で活躍、別途に版画もやっていた。その版画にふしぎと買い手がついた。素材がポピュラーな役者絵だったこともあるだろう。俳優版画、あそびごころがよかったのか売れた。
でも当時の渡欧は三年計画で三ー五千円。現在の貨幣では三~五千万円。洋画は売れなかったが、日本画が売れた。(と書いてある)。ある有力者の仲介で依頼絵がつぎつぎと予価で売れ、インド洋上でもその注文に応えるためせっせと絵筆をはしらせた、という。
それでも、一つ20円の絵をいくつ売ったところで数千円は遠く及ばず、結局は友達の山本鼎(かなえ)や森田などの奔走によって東京湾汽船社長のパトロンにあい、資金援助にめどがたったとあります。

坂本繁二郎のその洋行時のことば。

「インドではスケッチしていると人が寄ってきて金品をねだります。道端にはおびただしい人の群れがなにもせずにごろごろとねそべっています。こういう南方の国では自然のちからが強すぎて、人のこころや生活を押しつぶしているかんじがありました。ですが日本は自然と人とのバランスがよく、ともどもにそのよさを発揮できますので、じつに恵まれているとおもいます。」

このひとはパリにいっても、自然ばかりがきになっていたようです。
「夏があまりにもちからが弱くて、ほかの季節へもそれが影響をおよぼし、いま一つ四季のめりはりがない。わたしの絵の目標は自然にあり、町よりもいなかを歩き回りました。家もふるびるほど自然とマッチして美しい。しかしただ美しいだけ、日本のように自然が語りかけてくることはありませんでした。」
とさいごにはいっている。着いた当初はパリのみせかけの美しさに打たれて、日本のわるくちをいっていたのに、です。

上記はみな谷口治達のふくおか人物誌『青木繁 坂本繁二郎』西日本新聞社刊から引用。
『無冠の男』の小島直記の書いた伝記も持っているので、それからもいくつか引きたいのですが、探すちからが今日はのこっていません。
また機会があればご紹介いたしたいとおもいます。

高等学校へ行かなかった坂本。
フランス語は喋れなかったのでは。
どうやって意思疎通していたのだろうか。
言葉が通じなければ人間へ関心が向かず、自然へ関心が向かう。

 「東京パック」ちゃ、岡本一平(岡本太郎の父親)と並ぶ漫画家、北沢楽天が関係した雑誌でっしょ。後に「楽天パック」ちゅう、漫画雑誌もできて、このへんが日本の漫画雑誌第一期黄金時代~かどうかは自信がないが、へ~、坂本繁二郎はそげな漫画雑誌にも描きよったとか。いや、実は近代漫画の歴史にも興味があるとです。

たまたま今日の夕刊に画家の古賀耕児さんという久留米市の方の死亡記事が。享年78歳。
45年前、33歳の頃、渡仏されてます。
「父は画家坂本繁二郎に師事し・・・」とありました。
音楽家も画家も、なぜ、外国へ行くのだろう。

人間は49歳から住み始めた土地にふるさと意識を持つものだろうか。
坂本画伯の意識の上では、自身は久留米人と思っていたのでは。
八女はアトリエの所在地でしかなく、そのアトリエさえも久留米へ移築された昭和55年の時点で、坂本画伯は久留米へとられてしまっています。
   ↓

>音楽家も画家も、なぜ、外国へ行くのだろう。

私もそう思います。
そんなに昔のことなのに、ようフランスなんかに行ってあるよね・・・と思うことが多いですよね。
昔から文化芸術の国だからまず一度はという考え方があったのでしょうかね。
それとも芸術家の性格にしっくりくる何か自由な空気があるとか。

現代でもまずはおフランスへという考え方はあります。
今をときめく女性カメラマンの方たちも、夏休暇はフランスだし、センスを磨くためと称してパリ、プロヴァンス・・・へと行かれるのです。

さくらさんも行ってみえたらどうです。おふらんす。
箔がつきそうなイメージ。うすいきんぱく。

ところで、きのう夕方ともだちから電話があった。
六時の国民放送ニュースで坂本繁二郎関連があり、それに音彦さんがでるかもしれないから、恭子ちゃん見て。という。
はいはい、ちゃんとみたよ。
たしかにそのニュースはあった。でもおとひこさんは
でなかったよ。ざんねんだったね。カットされたんだね。でもそういう仕事をなさっているのですね、古賀のおとひこさんは。すごいよね。
緒玉から美術館敷地内に移されたアトリエで来月だったっけ、遺族から寄贈された繁二郎の少年時代の日本画(白鷺の絵)とかステッキとかを公開するというもの。
くそう、だんだんと久留米にとられてしまう・・という思いと、やはり石橋美術館にあるのが一番いい。という思いと、ふたつわきました。

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