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2009年7月15日 (水)

坂本画伯の話をしようよ。

昔の人の謎。

坂本繁二郎は1882年久留米生まれ。
父・金三郎は坂本が4歳の時に死去。
金三郎の長男・麟太郎が京都の第三高等学校に進学したため、二男の繁二郎は進学をあきらめる。
1900年、坂本は母校の図画代用教員となった。
経済的にゆとりがあるとは思えない。

1902年、上京して小山正太郎の「不同舎」に入る。
20歳の坂本、職を捨てて上京。
生活費は?

1921年、渡仏しシャルル・ゲランに師事する。
39歳の坂本、欧州へ。
渡航費は?生活費は?

1924年、久留米に戻る。
42歳の坂本、もう遠くへは行かない。(行けない?)

1931年、高校教師梅野満雄の援助で、八女の梅野宅の隣地にアトリエを建立。
49歳の坂本、八女の田舎にアトリエを建立するのにも援助を必要としている。

大富豪の子息でもない坂本が、20歳以降、職らしい職にもつかず、どうやって欧州留学できたのだろう。
坂本の代表作は八女のアトリエで生まれているので、それ以前の作品がそんなに高く売れたかどうかも疑問。

年譜の補強。

1908年、東京パックに入社し、紙上掲載の漫画を描く。
1911年、東京パック退社。

久留米市梅満町(かな?)にある坂本繁二郎さんの生家が修復保存されて資料館っぽい扱いになるみたいですね。どことなく洋風の面影をのこす質素なちいさな家です。209号線沿いにあって、「坂本繁二郎の生家をのこそう」みたいな看板がかかってたようながする。

あそうか。じゃ荘島町は青木繁の生家跡があるんだ。(その隣にわがいとこ田中恵の夫一家はこどものころ住んでいた。)
おつしろう。
質問に答えられるとおもう。
繁二郎がいくつのとき。はたちね。1900年、ただ一人の兄がなくなって二年。
母ひとり子ひとりになっていた。(青木繁も繁二郎もともに明善中学。)
兵役を免れたのは、背がたりなかったからだそうです。基準の153センチに3ミリ足らなかった。青木繁は乱視その他でおなじく兵役を免れる。
このチャンスに上京しなければ、一生代用教員でおわってしまう。とおもった繁二郎は、一大決心をして上京するのですが、母歌子もそれを望んだそうです。一人で広い久留米の家に住むのはもったいないと、一間だけを自分用にして、ほかは間借りに出して、学費を送金してあげた。えらい母親ですよね。
兵隊にとられたとおもって、送りだすのです。
(ほかに権藤家の支援もあったかもしれない。と書かれているのは、おかねもちの親戚のこと。)その年の八月青木といっしょに上京しています。
これが第一の疑問への回答。

坂本繁二郎の洋行費用について。
当時の繁二郎は二科展で活躍、別途に版画もやっていた。その版画にふしぎと買い手がついた。素材がポピュラーな役者絵だったこともあるだろう。俳優版画、あそびごころがよかったのか売れた。
でも当時の渡欧は三年計画で三ー五千円。現在の貨幣では三~五千万円。洋画は売れなかったが、日本画が売れた。(と書いてある)。ある有力者の仲介で依頼絵がつぎつぎと予価で売れ、インド洋上でもその注文に応えるためせっせと絵筆をはしらせた、という。
それでも、一つ20円の絵をいくつ売ったところで数千円は遠く及ばず、結局は友達の山本鼎(かなえ)や森田などの奔走によって東京湾汽船社長のパトロンにあい、資金援助にめどがたったとあります。

坂本繁二郎のその洋行時のことば。

「インドではスケッチしていると人が寄ってきて金品をねだります。道端にはおびただしい人の群れがなにもせずにごろごろとねそべっています。こういう南方の国では自然のちからが強すぎて、人のこころや生活を押しつぶしているかんじがありました。ですが日本は自然と人とのバランスがよく、ともどもにそのよさを発揮できますので、じつに恵まれているとおもいます。」

このひとはパリにいっても、自然ばかりがきになっていたようです。
「夏があまりにもちからが弱くて、ほかの季節へもそれが影響をおよぼし、いま一つ四季のめりはりがない。わたしの絵の目標は自然にあり、町よりもいなかを歩き回りました。家もふるびるほど自然とマッチして美しい。しかしただ美しいだけ、日本のように自然が語りかけてくることはありませんでした。」
とさいごにはいっている。着いた当初はパリのみせかけの美しさに打たれて、日本のわるくちをいっていたのに、です。

上記はみな谷口治達のふくおか人物誌『青木繁 坂本繁二郎』西日本新聞社刊から引用。
『無冠の男』の小島直記の書いた伝記も持っているので、それからもいくつか引きたいのですが、探すちからが今日はのこっていません。
また機会があればご紹介いたしたいとおもいます。

高等学校へ行かなかった坂本。
フランス語は喋れなかったのでは。
どうやって意思疎通していたのだろうか。
言葉が通じなければ人間へ関心が向かず、自然へ関心が向かう。

 「東京パック」ちゃ、岡本一平(岡本太郎の父親)と並ぶ漫画家、北沢楽天が関係した雑誌でっしょ。後に「楽天パック」ちゅう、漫画雑誌もできて、このへんが日本の漫画雑誌第一期黄金時代~かどうかは自信がないが、へ~、坂本繁二郎はそげな漫画雑誌にも描きよったとか。いや、実は近代漫画の歴史にも興味があるとです。

たまたま今日の夕刊に画家の古賀耕児さんという久留米市の方の死亡記事が。享年78歳。
45年前、33歳の頃、渡仏されてます。
「父は画家坂本繁二郎に師事し・・・」とありました。
音楽家も画家も、なぜ、外国へ行くのだろう。

人間は49歳から住み始めた土地にふるさと意識を持つものだろうか。
坂本画伯の意識の上では、自身は久留米人と思っていたのでは。
八女はアトリエの所在地でしかなく、そのアトリエさえも久留米へ移築された昭和55年の時点で、坂本画伯は久留米へとられてしまっています。
   ↓

あ、その建物。去年みた。そばの建物で説明会があるのに行ったから。
お上に出さんといかん書類の書き方説明会。公共工事なんとかいう。

そんな早くから移転していたとは知らなかった。
さすが石橋美術館。石橋正二郎は繁二郎にこどものころ絵をならった。それが動機となって繁二郎の意をくみ、青木繁の散逸した絵も集めたし、フランス語に堪能な小島直記を伴ってフランスへも渡った。すべては絵のために。これはいくらお金もちだからってできることではない。美術への愛情と造詣と熱意がなければ。

とはいえ、八女人にとってはいまだに繁二郎は八女の画家であるのでして。
いまのこどもたちはそこまでの思いはないかもしれません。
でも、少なくとも、かささぎにとっては、坂本繁二郎は耳にたこができるくらいにどんなに偉い人だったかと聞かされてきた郷土の画家なんです。
繁二郎の絵をはじめて見出したのが俳人でもあった夏目漱石であったことも含めて、じっくりとつきあってゆきたい画家です。青春性のきらびやかな天才画家青木繁とともに。

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コメント

おはようございます
青木繁と坂本繁二郎>>終生のライバルで終生の友人と昔ドキュメンタリーで見ました。
表には出てきてない色んなエピソードがありそうですね。
お二人のご生家があいついで改築復元されてうれしいことです。
青木氏の「わだつみのいろこのみや」と「海の幸」は以前石橋美術館で見ました。すばらしかったです。。とくに、わだつみ・・☆
繁二郎さん、アトリエ公開の日に中に入りました。
内部写真も写させていただきました。
室内のイーゼルに写真家土門拳氏撮影の繁二郎さんが立てかけてあります。
ものごとの深い部分をみているような凛とした表情のとてもいい写真です。

うわ、それ聞いて俄然いってみたくなりました。
あたしは八女堺屋の蔵の『夢中落花文庫』の入り口においてある、山本健吉のモノクロの等身大写真がすきで、持って返りたいなといつもおもう。

年に数回公開日があるから是非☆
天井の低い2階部分が吹き抜けの南に付いています。
上には上がれませんがのぞかせてもらいました。
ほんとに素敵なアトリエです。
青木氏も八女とは深いかかわりがあったのでしょうね☆

繁二郎の結論。

「結論的に言うと西洋と日本の違いは教会の鐘と寺の梵鐘の音色に象徴されます。多くの鐘がぶつかり合いジャランジャランと鳴る向こうの鐘は音は面白くてもただそれだけ。日本の鐘はごうーんと打てば余韻じょうじょう、その響きは遠く深くしみこんでいきます」

たは。鐘で結論づけてたとは。

強固はん。
坂本繁二郎の作品が八女、久留米のどちらに保存されようとも、坂本繁二郎はこのちっご地方のタカラであることには変わらないのだと思いますよ。この偉大な画家の残した足跡は、地域人の心から心へ継承されていくべきでもありましょう。と、やけに、優等生的発言のせーこはんであります。

濃い薄いはともかくとして、杉山先生は坂本繁二郎に師事、乙は杉山先生に師事。よって乙は坂本繁二郎の孫弟子。
mariさんは別の孫弟子の弟子の親。ひ孫の親は孫。よってmariさんも(義)孫。
かささぎさんは杉山先生と犬猿。犬の親は犬。犬の子も犬。よってかささぎさんは孫たちとも犬猿の運命?
変な三段論法でした。

mariさんはひ孫の親でなく孫の親?

ネットで拾った杉山先生の話題。

杉山さんは仕事の傍ら絵画をたしなみ、一九五二年から八女市に在住していた洋画家坂本繁二郎に師事。五八年に仕事を辞めた後、自宅で絵画教室を開いた。現在も約百人を教えており、これまでの教え子は千五百人以上。「技術重視の芸術家としてではなく、人間性を育てる教育者として絵を教えなさい」という坂本の言葉を心に留めて指導してきたという。


「灰皿はそこになければいけない。」
画家の故坂本繁二郎は弟子だった杉山洋氏にそう言った(『新日曜美術館』)。日常会話をしながらも坂本は灰皿の位置が許せなかったのだ。

はい、息子は洋先生、亜土先生両方から教えてもらいましたので、孫弟子とも、ひ孫弟子ともいえますね。Butうちにはもう一人孫弟子がおります。主人は小6まで杉山先生の家で絵を習っておりました。もしかしたら乙さんと机を並べたことがあったかもしれませんね。

せいこさんへ。
おとひこさんが「繁二郎をくるめにとりもどす」っていわれたのをきいたとき、なんだかとっても大切なたからをとられてしまいそうなきもちになって、さみしいなあ。と初めておもった。これは縄張り意識とはちがうんだよ。
はじめて杉山おんじいのこころがわかった気がしたものね。このお方は、とっても大事にされていますからね、すべての資料を。あたしゃさいしょのころ、それでどんだけどなられたことか。することなすこと調べて書くことぜーんぶ、がががーっとどなられて。でも、それもこれもみなだいじなおもいでであります。

おつしろうにまりさんへ。
三段腹論法はただしいか?
うーん。自称がはくのでしのすぎやまひろしはかささぎはとってもにがてだけれど、坂本繁二郎を尊敬しています。中学時代、やはり画伯の弟子であったらしい杉森麟校長せんせいからたびたびお話を聞かされて育ったので、。
ということはどうなるかな。ひまなひとは考えてね。笑

そうたい。
そもそも、あの発言が許せん!なーんが取り戻すじゃ!ち思う。そげな縄張り争いみたいな、けつのあなのこまかことでしんのぶんかざいが語れるのかってね。やっぱ、くるめん職員はどいつもこいつもごーまん。なぜ、共有するという意識をもてないかまた、そのような意識を地域住民に持たせるべき無意識が働かないのか。それこそ、けつのあなのこまかけんたい。
真向かいのビルを見下ろす高層の役所のビルはごーまんである。せーこ。

苦笑。
あのう、おそれいりまするが。
けつのあながおおきいと、なにかいいことでも?
あああるかもしれない。
それはがんとかになったとき、最初の触診で、せんせいがなさることは、おしりのあなからゆびをつっこむ。とってもいたいんだって。
からだの部位で唯一、ここだけが触診でがんがちらばっているかどうかわかるところだ。って聞いた。ほんじゃ。(ひゅるりーはなからぎゅうにゅう・・・

あーら、失礼。
淑女のわたくしが「けつのあな」だなんて下品なおことばを連発してしまったわ。つい。激情にかられてしまって。ほほほっほ。

ごめん。ちょっと補足させてね。
この「けつのあながこまい」うんぬんは、別に音さん個人のことを言ってるんじゃないわよ。「行政マン」という人種全般をさして言ってるの。ま、自省的なものもこめてね。
行政って組織はとにかく縦割りで、縄張り意識がすっごく高いところであるのです。言うまでもなくご存知と思いますが。

「取り戻す」という言葉は本音であろうと思います。坂本繁二郎さんをこよなく愛しているであろうくるめしみんの多くの方々の。そして、くるめしぶんかざいほごかぜんたいの。
でも、取り戻すってことばを吐いていては、ぶんどられるほうの市民感情をさかなでするだけじゃなかと?プロなら、その辺のことばのあやには重々こころしていただくべきでありましょう。と、これは音さんにむけての発言です。笑

おお!なんか熱はいってますね。
ぶんどるのとられるのはお役人にまかせて。
ばるびぞんに似ている八女の景色を愛した。
ということはよ、ふらんすの思い出がとってもだいじだったってことではないの?それはろーじんになってもわかいころの情熱をわすれないためってことともつながってくるのだろうか。
どうもさかもとさんな、わからんとこのありますね。
お能がすきだったみたいですし。

坂本繁二郎 権藤

でひらかれていた、つられて読んで、久々に笑いました。

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