詩 『蕪村の俳諧』 鈴木漠
詩
『蕪村の俳諧』
鈴木 漠
蓮の香や水をはなるる茎二寸 蕪村
蕪村七部集の一「此(この)ほとり一夜四歌仙」
秋雨の一日 篤い病に臥せる門人嵐山の元へ
蕪村、樗良、几菫の三人が見舞いに携える詩箋
病人にせがまれ枕頭での歌仙行は幽界と紙一重
同時進行の連句四巻こそは文字通り
嵐山今生の名残となる 無常の喩え
夜半三更までに満尾した四巻八枚の折
ただちに版元橘仙堂で板行にかかった
嵐山は上梓を待たずに身罷るア・ポステリオリ
白菊に梅雨置き得たり とは嵐山の発句だった
俳諧は言語遊戯というより命懸けの方程式
必死の文芸だったと知り感銘が深かった
明治期に蕪村俳諧を称揚したのは正岡子規
蕪村の号は陶淵明「帰去来兮辞」がポイント
帰りなんいざ田園将に蕪(あ)れんとす を意識
然るに 蕪村とは天王寺蕪(かぶら)の村の意ならんと
これは子規の珍解釈 蕪村は陶淵明に傾倒済み
菜の花や月は東に日は西に の蕪村発句も何と
陶淵明「雑詩」の 白日は西の阿(おか)に淪(しず)み
素月は東嶺に出づ の捩りらしい
東嶺を東山に見立てる文人画の青墨(あおずみ)
晩婚の蕪村はひとり娘が無性に愛おしい
にも拘らず足繁く伏見の茶屋通い
若い芸妓いとに入れ揚げたとは悩ましい
見兼ねた年嵩の門人道立(どうりゅう)に諌められた心迷い
今日限り青楼の件は断念 その代わり
妹(いも)が垣根三味線草の花咲きぬ の佳吟に余意
泥中で玉(ぎょく)を拾うたる心地に候(そろ) と断り
自画自賛した蕪村書簡の熱いセンテンス
芭蕉に帰れと蕉風を慕った蕪村のこだわり
その理念はいうなれば俳諧の文芸復興(ルネッサンス)
不惑に至る愛弟子几董に呼び掛けたプロパガンダ
推敲重ねた「俳諧もゝすもゝ」は師弟の交感(コレスポンダンス)
芭蕉の不易流行説を敷衍した連句作品だ
〈詩誌『びーぐる』2号からの転載〉
* 自由律によるテルツァ・リーマ(三韻詩)。
* テルツァ・リーマは中世イタリアに起源を持つ脚韻定型詩。
三の倍数行プラス一行で構成される。
十四世紀初頭の壮大な叙事詩、ダンテの『神曲』はその代表。
『地獄篇』『煉獄篇』『天堂篇』の全百曲がこの形式で書かれている。
形式はaba/bcb/cdc/ded/efe/fgf/ghg/hih/iji/jkj/klk/l
引用は、『連句誌 OTAKSA』 XX (20号)終刊号
2009.7.31
おたくさの会 NHK神戸文化センター
かささぎの旗、ひめのの感想
鈴木漠先生、おたくさ、毎号お送りくださって、まことに有難うございました。
号を重ねるごとに、誌面から迸るものが段々熱くなっていきました。
日本にうまれたことの至福をしみじみと実感する次第です。
さまざまな韻のかたちを駆使した実験的な連句作品の数々。
わたしが最初に連句の毒にやられたのが、窪田薫師による尻取りや頭韻冠字などの言語遊戯における「偶然性」だったこともあり、鈴木漠ほどのおかたが、なぜ今またこんな遊びにより戻ったのか。といぶかしむ気には全くならず、ひたすら、芭蕉へ帰るための遊び、かみさまにお委ねスタイルに戻られたのだな、と思ってみておりました。マンネリを打破する力をもっていると思います、こういう試みは。
最初のころの号で、先生が取り上げておられた九鬼周造の『偶然性の問題』は私も読みました、すごい本でした。人との出会いもですが、連句をやっておりますと、常に選択を強いられる場に立たされる、常に岐路に立つ羽目になります。そうすると、自然とおもうことではあります、いつもおもっています、ぐうぜんというもののおおきさを。
『遊びといのち』という対談集を書いたのは、山本健吉でした。
真剣に遊ぶ。
いのちをかけてあそぶ。
俳とはそむくことである。
健吉は連句については何も書いてはいませんが、「俳とはそむくことである」といった時点で、俳句にそれが望めそうもない今、おのずと俳諧の連歌こと連句にそれを求めるしかないのでは・・・。と思うようになりました。
とりあえず、ネット上でお礼まで。
(英語講座でちょうどのときに蕪村の句をとりあげていたこともすごい偶然でした)。
青木繁と坂本繁二郎>>終生のライバルで終生の友人と昔ドキュメンタリーで見ました。
表には出てきてない色んなエピソードがありそうですね。
お二人のご生家があいついで改築復元されてうれしいことです。
青木氏の「わだつみのいろこのみや」と「海の幸」は以前石橋美術館で見ました。すばらしかったです。。とくに、わだつみ・・☆
繁二郎さん、アトリエ公開の日に中に入りました。
内部写真も写させていただきました。
室内のイーゼルに写真家土門拳氏撮影の繁二郎さんが立てかけてあります。
ものごとの深い部分をみているような凛とした表情のとてもいい写真です。
投稿: エメ | 2009年7月15日 (水) 07時00分
うわ、それ聞いて俄然いってみたくなりました。
あたしは八女堺屋の蔵の『夢中落花文庫』の入り口においてある、山本健吉のモノクロの等身大写真がすきで、持って返りたいなといつもおもう。
投稿: かささぎ | 2009年7月15日 (水) 07時16分
天井の低い2階部分が吹き抜けの南に付いています。
上には上がれませんがのぞかせてもらいました。
ほんとに素敵なアトリエです。
青木氏も八女とは深いかかわりがあったのでしょうね☆
投稿: エメ | 2009年7月15日 (水) 07時54分
繁二郎の結論。
「結論的に言うと西洋と日本の違いは教会の鐘と寺の梵鐘の音色に象徴されます。多くの鐘がぶつかり合いジャランジャランと鳴る向こうの鐘は音は面白くてもただそれだけ。日本の鐘はごうーんと打てば余韻じょうじょう、その響きは遠く深くしみこんでいきます」
たは。鐘で結論づけてたとは。
投稿: かささぎ | 2009年7月15日 (水) 08時18分
強固はん。
坂本繁二郎の作品が八女、久留米のどちらに保存されようとも、坂本繁二郎はこのちっご地方のタカラであることには変わらないのだと思いますよ。この偉大な画家の残した足跡は、地域人の心から心へ継承されていくべきでもありましょう。と、やけに、優等生的発言のせーこはんであります。
投稿: seiko | 2009年7月15日 (水) 12時13分
濃い薄いはともかくとして、杉山先生は坂本繁二郎に師事、乙は杉山先生に師事。よって乙は坂本繁二郎の孫弟子。
mariさんは別の孫弟子の弟子の親。ひ孫の親は孫。よってmariさんも(義)孫。
かささぎさんは杉山先生と犬猿。犬の親は犬。犬の子も犬。よってかささぎさんは孫たちとも犬猿の運命?
変な三段論法でした。
投稿: 乙四郎 | 2009年7月15日 (水) 12時36分
mariさんはひ孫の親でなく孫の親?
ネットで拾った杉山先生の話題。
杉山さんは仕事の傍ら絵画をたしなみ、一九五二年から八女市に在住していた洋画家坂本繁二郎に師事。五八年に仕事を辞めた後、自宅で絵画教室を開いた。現在も約百人を教えており、これまでの教え子は千五百人以上。「技術重視の芸術家としてではなく、人間性を育てる教育者として絵を教えなさい」という坂本の言葉を心に留めて指導してきたという。
「灰皿はそこになければいけない。」
画家の故坂本繁二郎は弟子だった杉山洋氏にそう言った(『新日曜美術館』)。日常会話をしながらも坂本は灰皿の位置が許せなかったのだ。
投稿: 乙四郎 | 2009年7月15日 (水) 12時49分
はい、息子は洋先生、亜土先生両方から教えてもらいましたので、孫弟子とも、ひ孫弟子ともいえますね。Butうちにはもう一人孫弟子がおります。主人は小6まで杉山先生の家で絵を習っておりました。もしかしたら乙さんと机を並べたことがあったかもしれませんね。
投稿: mari | 2009年7月15日 (水) 16時49分
せいこさんへ。
おとひこさんが「繁二郎をくるめにとりもどす」っていわれたのをきいたとき、なんだかとっても大切なたからをとられてしまいそうなきもちになって、さみしいなあ。と初めておもった。これは縄張り意識とはちがうんだよ。
はじめて杉山おんじいのこころがわかった気がしたものね。このお方は、とっても大事にされていますからね、すべての資料を。あたしゃさいしょのころ、それでどんだけどなられたことか。することなすこと調べて書くことぜーんぶ、がががーっとどなられて。でも、それもこれもみなだいじなおもいでであります。
おつしろうにまりさんへ。
三段腹論法はただしいか?
うーん。自称がはくのでしのすぎやまひろしはかささぎはとってもにがてだけれど、坂本繁二郎を尊敬しています。中学時代、やはり画伯の弟子であったらしい杉森麟校長せんせいからたびたびお話を聞かされて育ったので、。
ということはどうなるかな。ひまなひとは考えてね。笑
投稿: かささぎ | 2009年7月15日 (水) 17時52分
上記の乙さんコメントと昨日のさくらさんコメントから、ふたつ気づいた。
繁二郎が八女にきたのが、1952(昭和27)年。
ではわが父が「坂本さんな、うちの馬小屋にきて馬ばみせてくださいち言うて、描いていかしゃったこつのあった」といっていたのは、昭和27年のことだったのか。ということが一点。
父が八女の繁二郎のアトリエのあった緒玉の隣村から八女の寺田村の伯父の家へ養子にきたのは18歳のときで、父の記憶が鮮明なのは、その養子に来る年のことだったからのようです。
それと、徴兵制度は満二十歳になったら誰にでも適用された、ということ。
ですから、父が養子に来る前この家の養子であった伯父もまた、二十歳で徴用された。
きのう仏壇の引出から出てきた支那事変軍功記念の小さな勲章。
なぜ?と思ったわたしは本当に無知で、昭和12年に二十歳の伯父はその戦役に出征していたに違いない、そこから転戦に転戦をして、最後がガダルカナル島ということだったのだろうか。昭和18年1月に26歳でなくなっている。
祖母はいろいろと語りたいこともあったろうが、全く話を聞いてこなかったことが悔やまれる。(姫野18日かく)