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2009年6月10日 (水)

黒木町城山(調山)哀話  下

『黒木町 猫尾城の悲しいおはなし』 後半

(六月七日からの続きです)

六 奥方たち、矢部川の流れに

うちひしがれ、日に日にしずみこんで行く奥方をまわりの人びとは、何とか元気づけようとしました。乳母(うば;小さい時から母親がわりに育ててきた人)の紅梅(こうばい)も、女房頭(にょうぼうがしら;そばにいて身のまわりの世話をする人びとの中で一番えらい女の人)の濃君(こきぎみ)やたくさんの侍女(じじょ;おつきの者)たちもたいへん心配をしました。

ある日、奥方・春日の局は勇気を出して琴をひきました。
以前に夫とよく合奏したなつかしい曲をひいてみたのです。
ところがどうしたことでしょう。琴の弦(糸)が全部切れてしまったのです。
今はもうこれまでと、春日局はたくさんのうらみの言葉や別れの言葉を書き残して、雨で水がふえ荒れくるう矢部川の流れの中に身をなげたのです。
乳母や侍女たちもつぎつぎに身を投げました。

古い記録では十三人の女の人たちが、奥方のあとを追って身を投げ、おどろいた家臣(けらい)たちの必死の努力のかいもなく、みんな激流(げきりゅう)にのまれて見えなくなったとあります。
昔の矢部川は、いつも満々と水をたたえて流れていたのでしょう。

(写真:奥方たちが身を投げた矢部川:剣が淵)

七 築地観音像(ついぢかんのんぞう)と神社

黒木西小学校の東、やく百五十メートルくらいの築地(ついぢ)という所に、小さな神社があります。まわりは大きなブナの木や、イチョウの木や竹林にかこまれている小さなかわいい森です。ここの神社を「築地御前神社」(ついぢごぜんじんじゃ)といいます。
築地の人びとはこの神社を親しみをこめて、「築地の観音さん」と呼び、自分たちの氏神(うじがみ)さまとして先祖だいだい長い間守りあがめてきました。

小さなほこら(神さまをまつったやしろ) の中に、木造の三つの古い観音像(かんのんぞう)がまつられています。中央の少し大きな本尊(ほんぞん)は奥方・春日局(かすがのつぼね)、両わきの脇侍(わきじ)は乳母の紅梅(うばのこうばい)と 女房頭の濃君(にょうぼうがしらのこききみ)の座像(ざぞう)です。

ではどうして、お城から二キロ以上もはなれたたんぼの中のこんな小さな神社に、黒木城の奥方たちがまつられているのでしょう。
もう皆さんは想像がついたと思います。

(写真:御前霊社 ついぢのかんのんさん)

八 築地(ついぢ)の人びと・そして行事

矢部川の激流にのまれたあわれなあわれな女たちは、家臣に助けあげられることもなく、あっという間に川下へと流されていきました。
そして二キロ以上もはなれた築地の瀬にうちあげられたのです。
築地の人びとはみんなでこれを抱き上げ、大きな木を切ってこれを燃やし、女たちの冷えた体を静かに温めました。しかし村人の努力のかいもなく、ついに帰らぬ人になってしまったのでした。

城主助能と村人は、ここ築地の窪(くぼ)に神社をたて、春日局・紅葉・濃君の三人の仏像をつくり、神としてまつりました。
そして八百年以上たった今もなお、築地の人びとはこの神社を大切に守りつづけているのです。

南本分(みなみほんぶん)の老人会や築地の人びとは、神社をきれいに掃除します。毎年大晦日(おおみそか)には、立花町の黒木氏の子孫が赤の手ぬぐい・おしろい箱・べに皿・赤緒の草履(ぞうり)を三人分持って神社にまいられます。十二月十八日には「生木焚き神事(なまきたきしんじ)」という行事が築地の人びとによって行なわれ、奥方たちの霊(れい)をなくさめ、氏神や水神に感謝をされるのです。

(写真:築地(ついぢ)の観音像(かんのんぞう))

九  史跡「剣が淵(つるぎがふち)」

奥方春日局(かすがのつぼね)たち13人の女官たちが矢部川に身を投げたあと、猫尾城や黒木の郷(さと)ではたくさんの不吉な出来事(できごと)が起きました。矢部川は氾濫(はんらん)し、郷(さと)はたいへん荒れ、お城のなかでも困った出来事がつぎつぎと起きたのです。

城主助能は妻の死をいたみ、女官(にょかん)たちの死をたいへん悲しく思っていました。彼は妻たちが紅緒の草履をぬぎすてて身を投げた岩の上に立ち、京で帝(みかど)にもらった刀(剣;つるぎ)を水に投げ入れました。そして妻たちの霊(れい)をなぐさめるために、心をこめて笛をかなでました。彼の吹く笛の音は水の音にもまさり、あたりにひびきわたりました。きっと城主の心が妻や女官たちの心にとどいたに違いありません。その後は川も荒れることなく、不吉なできごともおさまったと言い伝えられています。

このことから、城主助能が立ったこの矢部川の深みを「剣が淵」といいます。
グリーンピア八女に行く橋(つるぎがふちばし)のたもとの岩の上に「史跡剣が淵」という記念碑が建てられています。

(写真:記念碑「史跡 剣が淵」)

十  北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)

城主助能(すけよし)が京からつれ帰った待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)の子・黒木四郎(幼名四郎丸)は、その後どうなったでしょうか。

彼は成人して黒木四郎調宿禰(つきのすくね)藤原定善(ふじわらのさだよし)と名乗り、中務大輔(なかつかさだゆう)筑後守(ちくごのかみ)というえらい職につきました。しかしどうしたことでしょう。健康そうであった定善(さだよし)は、ふとした風邪がもとで18才の若さでこの世を去ってしまったのです。

城主、助能の悲しみは言うまでもありません。つたえ聞いた京の父・徳大寺卿(とくだいじきょう)もとても悲しみました。そしてこの不幸なわが子・四郎をあわれみ、等身大(とうしんだい;本人と同じ大きさ)の仏像をつくり、黒木に送りました。

この仏像は、今では北木屋の氏神熊野神社のすぐ近く(東方)の観音堂にまつられ、県の文化財にも指定されています。

毎年この地区では、10月の第1日曜日に1000個以上の提灯に火をともして盛大な“ちょうちん祭り”がおこなわれ、黒木名物”だんご汁(だごじゅる)”などがふるまわれ遠くからお参りする人も多いと聞きます。
夕方いっせいに灯がともされると、山手にすばらしい明かりのパノラマが広がります。

(写真:北木屋の聖観音立像(しょうかんのんりゅうぞう)

付記)八女市柳島(やなじま)の十七夜祭(あめがたまつり)

湯辺田(ゆべた)の先から国道442号を左に折れて、矢部川ぞいにさらに下り、北田形地区を過ぎると、次は柳島という地区になります。
そこの入口の右側に大きな若宮神社があります。その境内にも、黒木のこの話にかかわりのある小さなほこらがあります。

昔は行商人(ぎょうしょうにん)といって、物を売りあるく人がたくさんいました。ある朝、”あめがた”の行商人が岸に打ち上げられた女の人を見つけ、村人と一緒に火で体を温めましたが、すでになくなっていました。猫尾城の奥方と一緒に身を投げた女官の一人だったのです。その時、木製の仏像も岸に流れついていたそうです。奥方が日頃大事にしていた仏像だったといわれています。

その後村人たちはほこらを建ててこの仏像をまつり、その霊を慰めてきました。毎年一月十七日の夜に境内で火をもやし(ホッケンギョウの行事)、霊をなぐさめるためのお祭りをつづけています。
今でもその日には”あめがた”の店が出てにぎわい、”十七夜祭”とか”あめがたまつり”とか呼ばれているそうです。

(写真:八女市柳島の若宮神社)

※お詫び:写真画像をいれこむことができませんでした。

 編著者   黒木町教育委員会
        地域活動指導員 田形光義
 発行    平成14年11月1日
 一部改訂 同年12月2日

参考文献:
『郷土の文化財 改訂第一集』 黒木町教育委員会
『郷土の史話(一) 改訂黒木物語』 和田重雄著
『郷土資料 黒木城史話』 故・東 種吉 遺稿

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コメント

こんにちは。つい投稿しました。
この話は私の先祖の事ですね。少々家に伝わっている内容とは違う部分もありますが、こうして見ているのも何か懐かしい気持ちがあります。これからも機会があればお願いします。

しらべ様。ようこそいらっしゃいました。
ご先祖さまのお話なのですか。浪漫あふれる物語ですね。わたしは八女の人間なのに、それも生まれたのは黒木の笠原なのにもかかわらず、この伝説を知ったのはこのときが初めてでした。城山があるのは知っていました、それを「つきやま」と呼んでいたことも。調山、という意味だったんですね。
少々家に伝わる内容と違う、と書かれていますが、もし差し障りがなければ、教えてくださいませんか。

この話にであったのは星野黒木谷、高野堂と先祖の因縁からです。はるかな過去から呼びかけられたようなきもちになりました。少し調べただけで、もうすでにいくつかのなぞがでてきました。
行空とは?なぜお墓は天文年間のもの?
小侍従とは?歴史上たくさんの小侍従がいたろう。
ネット検索でトップに出てくる民間の熱心な小侍従研究者のサイトに黒木氏がひっかからないのは?
いつかそのうち自然にみえてきたらいいなあ。と思っていました。
無知な者ではありますが、なにとぞ、よろしくご指導おねがいいたします。


こんにちは。かささぎさん。
そうですか。ご先祖様の因縁からなのですね。
この時代の事は数少ない散らばっている古文書や記録を歴史家や郷土資料家の方々が調べてまとめています。
また昭和初期までは聞こえの良くないものは良い内容と比較して一方は相手にされなかったりもしたようです。。
当然ですが当時を見たり聞いたりしたことは誰一人いるわけでもなく残された資料を元に歴史家夫々の時代背景や主観も入らざるを得ないのでしょうね。
私が思うに、かささぎさんが存在するDNAにある真実は変わりませんので、かささぎさんが現地で感じる感性が重要で事実に結びついていくような気もします。また私が把握している内容でよろしければご連絡ください。

しらべさん、メールで返信いただきました。
ありがとうございました。
このこども向けの文章をうちこんだときに、ばくぜんと感じたことの答えがちゃんとしらべさんの返信のなかに書かれていたので、すうっと腑に落ちました。
琵琶法師の語る歌物語で伝わったものと地方の古老に残った伝説と文書に残るものと。
いろいろあるんですね。
それはそうと、久留米水天宮に祭られている高貴なお方(あぜちのつぼね)も、なぜ久留米なのか、ここらへんとつながってくるような気がします。何か隠された事情がありそう。まだしらべていないけど、つながっていそうなかんじはしている。ばくぜんと。
これ読んだ人、なんのこっちゃ。と思われるでしょうね。書いているかささぎにもよくわかっていませんから、なんのこっちゃでいいんです。笑

メール返信と行き違いましたね。
久留米水天宮とも意味があると思います。
内容はまたメールしますね。

今日やっと書きました。連句的の18「調城哀話」。
すごいもんだ。そうか!と腑に落ちるのです。
しらべさんはご存じないと思うのですが、八女平野部の農業用水をひろく利するために星野川の人柱に立たれた中島くらのすけ翁という実在の元武士(こどもむけのおはなしの中では吉田村の庄屋さんということになっています)、この元武士の家に代々伝わっている天文年間の百首和歌(継歌というものらしい、鶴崎裕雄先生の論文によりますと)もかささぎにとってはとっても興味深いものでありまして、それよりさらに時代が三百年、四百年と溯ったところにあるこの黒木物語の伝説は、なんともいえないものがあります。いろんなよみかたが可能です。
今から四百年の隔たりをとれば、中島くらのすけ翁の人柱伝説時点にたどりつきます。それはきっちりとした記録をともなった伝説。
さらにそこから四百年でこの物語の時点にまで溯れる、計算上は。

「黒木四郎」検索でここへいらしてくださったかた、ありがとうございました。
おかげで、柳原白蓮夫人と黒木とつながっていたことをしることができました。
そうだったんだ!!おどろきました。
学びの館、何度も行ったのに、そのようなところまで見てこなかった。黒木にはまだ知らないことがいっぱいです。森澄雄の句碑も、柳原白蓮の歌碑も、どこにあるのかさえ、詳しくは知りませんもの。


まだ済ませていなかった正月の親戚廻りから帰って、中世の長崎へ出向させられた井上筑後守について調べていました。というもの、母がこないだ久留米池町川近くの姉が眠っているお寺からもらってきた「いのち」という少し古い冊子を読んでいたら、あることが書かれていて、気になったからです。
これとはまったく関係ないのですが。
井上筑後守と同時代の郷土史料、寛延記にもある祭りに、八女柳島のあめがたまつり、十七夜(正月17日の夜の火祭り)、動画でみれます。動画をみれば、なーんだ、ほっけんぎょうの夜版かという思いですが。
思えば、あめがた、という言霊は、ひとがた、という言霊をつれてきますよね。
しらべさんに今度かいてもらった合宿歌仙の留書に、潜在するオンに導かれて、という見出しをつけてみました。
オンは音であり、恩、怨でもあるのかもしれません。

たまたま、すぎやまおんじいの話題とシンクロ!↓

このブログを通して皆様とお知り合いになったのも早、三年は経ちますね。。。思えばこのコメントがきっかけでした。

そこから連句合宿参加まで発展するとは当時想像もしておらず、細くではありますが皆様とのこのご縁をこれからも大事にできれば思います。
有難うございます。

この「八女柳島のあめがたまつり」は八女市柳島の観音堂とありますが、この前合宿を行った場所の近くでしょうか?

近くではありません。
同じ川を上流までさかのぼらねばなりません。
星野からの星野川と黒木方面からの矢部川とが合流するところが、そのやなじま・きといんあたりです。
祈祷院は東妙寺らんの生家あたりですが、星野川がながれています。
地図↓

柳原白蓮でこちらへみえています。
昭和29年5月藤の花のさくころ、69歳の白蓮が黒木の大藤を見るために訪れ、この伝説を知り、よめる歌。

ひとをのみし渕かやここは
上臈のみやこ恋しと
泣きにけむかも
地元のブログに写真もありました☟。
堀川バス社長の招きにおうじたものだとありますね。

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