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2009年6月 7日 (日)

黒木町城山(調山)哀話  上

『黒木町 猫尾城の悲しいおはなし』

 編著者   黒木町教育委員会
        地域活動指導員 田形光義
 発行    平成14年11月1日
 一部改訂 同年12月2日

参考文献:
『郷土の文化財 改訂第一集』 黒木町教育委員会
『郷土の史話(一) 改訂黒木物語』 和田重雄著
『郷土資料 黒木城史話』 故・東 種吉 遺稿

一 初代城主 黒木助能(くろきすけよし)

“しろやま”の頂上は今では公園になっていて、昔の面影はうすれてしまっています。しかし昔(800年くらい前)は、ここに小さなかっこ良いお城があったのです。

城主のいる館(やかた・二階だてぐらいのかんたんなお城)、今の役場の仕事をする役所、さむらいがいるたてものが二つ、やぐら(見はり台)が三つ、それに大きな門と板べいや土るいがあり、まわりは堀(ほり)にかこまれた山城だったことが、調査の結果わかっています。このお城は猫尾城(ねこおじょう)と呼ばれ、初代城主黒木助能(すけよし)のお城でした。

助能はふだん、裾野(すその)の陣の内一帯に奥方(おくがた)と三人の子どもと暮らしていました。かれは笛をふくのがうまく、春日(かすが)という奥方(おくがた)の琴に合わせて演奏するのが何よりの楽しみでした。しずかな山城に、息のあった笛と琴の音が毎日のように聞こえたことでしょう。

山の頂上にのぼり耳をすますと、今もあたりの木立(こだち)の中から、笛と琴の音が風にのって聞こえてくるような気がします。

(写真:本丸あとの勤王史蹟猫尾城跡と戦没将士の霊の碑)

ニ 城主 京の都へ(みやこ、今の京都)へ

静かな黒木のお城に、とつぜん、きんちょうがはしりました。
城をあけて、三年間京都に行かなければならなくなったのです。
大番役(おおばんやく)といって、皇居(天皇のいられるところ)をお守りする役にえらばれたのです。名誉(めいよ)なことですが、とてもたいへんなことです。

800年以上も昔の話です。飛行機とか汽車とか車などは、もちろんありません。京の都に行くには馬にのるか歩いていくしか方法はありません。行くだけでもとてもたいへんなのです。
もちろん、ことわることは、ぜったいにゆるされないのです。

奥方(おくがた)春日(かすが)のつぼねは、たいへん悲しみました。3年間どころか、もう一生会えないかもしれません。
城主すけよしも、これからのことがたいへん不安でした。お城は大丈夫(だいじょうぶ)だろうか。るすの間、家族は大丈夫だろうか。自分の京都での暮らしのこともとても気にかかりました。

少しばかりの家来(けらい)をつれて、やむなくふるさと黒木をはなれたのです。

(写真:昔の石で復元された本丸の石垣)

三 京のくらしと笛のしらべ

京についた黒木助能は、帝(みかど)のおられるところをお守りする仕事に忠実にはげみました。しかしふるさと黒木や、残してきた家族のことが忘れられません。彼は大好きな笛を心をこめて吹くことで、さみしさをまぎらわせました。それだけに彼のふく笛の音は人びとの心をうつのでした。彼の仕事ぶりと笛のことは、すぐにまわりの人びとに知れわたりました。

二年目の正月、京では帝(天皇)をまねいて舞楽の催し(ぶがくのもよおし;曲や舞をみんなで楽しむ会)が開かれました。左大臣(帝の次にえらい人)から、その場で笛を吹くように頼まれました。彼ははるか遠い黒木にもとどけとばかり、心をこめて横笛を吹いたのです。

助能のふく笛の音は、きく人びとの胸をすごくうちました。
帝はたいへん喜ばれおほめのことばをかけられ、ごほうびとして、「調(しらべ)」の姓と、「待宵小侍従(まつよいのこじじゅう」という美しい女官(にょかん;帝につかえる身分の高い女の人)を彼に贈りました。

(写真:本丸あとに建てられた彦山神社)

四 つとめを終えて ふるさと黒木へ

助能(すけよし)は、その後も真面目(まじめ)に館(やかた)をお守りする仕事にはげみました。

舞楽のもよおしでの帝からのごほうびのことは黒木の城にもつたわり、人びとは城山や猫尾城のことを、「調山*」「調城(しらべじょう)」と呼びたいへんほこりに思いました。(※かささぎのひとりごと:しらべやま。つきやま。両方いいますよね。)
もう一つのごほうび「待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)」は、じつは徳大寺左中将実定卿(とくだいじさちゅうじょうさねさだきょう)という身分の高い人の恋人で、すでにおなかには三ヶ月になる子どもがいたのでした。
月みちて男の子(のちの黒木四郎)を産みましたが、助能はまるで自分の子どものように可愛がりました。
この親子は帝からのおくりものです。もちろん大切にしなければなりません。
しかし小侍従(こじじゅう)親子を自分の妻や子どものように可愛がったのは、妻や子どもを黒木に残した淋しさからだったかもしれません。

助能が京へ来てから三年が過ぎました。
大番役という大役(たいやく;とても大切なしごと)を無事に終えたのです。助能は小侍従親子をつれて、お供のものたちと喜びいさんで黒木へと旅立ちました。

(写真:三の丸あとにつくられた城山公園)

五 留守をまもった奥方(おくがた)の悲しみ

黒木の城で留守(るす)を守っていた奥方(おくがた)・春日局(かすがのつぼね)は、夫(おっと)がつとめを終えて黒木に帰って来る日を、今かいまかと待っていました。

夫助能(すけよし)が帝の前で笛を演奏し、たいへんほめられ、ほうびとして「調べ」の姓をいただいたことは聞いていました。
「名誉なことだ」と家臣ともども喜び合い、会う人ごとに誇らしげに夫の話をするほどでした。しかし、待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)という美しい女官のことやその子ども「四郎」のことなどは、奥方の耳にはとどいていませんでした。
純(じゅん)な気持ちでただひたすらに夫の帰りを待つ奥方にしらせるのが、まわりのみんなにとってはしのびがたく、またつらかったのに違いありません。

城主が黒木に向けて京をたったという報せ(しらせ)は、すぐに奥方の耳にもとどきました。涙をながして喜んだのは言うまでもありません。しかしそれだけに、待宵小侍従という美しい女官とその子どもも一緒だと聞いたときの彼女の心は悲惨(ひさん)でした。
子どもは夫の子ではなく、徳大寺というえらい人の子だと聞かされても信じることができなかったのは、当然のことだったかもしれません。彼女は一度にうちひしがれ、ショックをうけてふさぎ込んでしまったのです。

(写真:城山公園の入り口一帯)

後半は明後日に続きます。※写真画像は入れることが出来ませんでした。

▼お詫びとお願い▼

この資料は、かささぎの旗姫野が先週星野村教育委員会へ「星野黒木谷のこうやんどう」に祀られている「行空上人」についての資料をいただきにあがったとき、黒木町の資料ですが。といって見せていただいた子ども向けの小史です。
ここに丸ごと引用いたしますことを、お許しください。
この時代(13世紀)のことは謎が多いのです。
五木寛之氏の新聞連載小説『親鸞』にも「行空」が登場しますし、その行空とからむかたちで、黒木の調氏がいたことを、わたしはこれまで全く存じ上げませんでした。

郷土の埋もれた歴史を掘り起こすとは、こういう作業の積み重ねかもしれません。
一つ一つの事実はすでにもう既知であると、ひとつひとつに関係している身内の人たちには思いこまれていて、もっと知られるための努力がなされていないように思われます。
が、じっさいには、それぞれの事実が、それぞれ独立して、はなればなれに存在しているがために、有機的結合をとげられないでいるのではないでしょうか。
連句的視座ということは、そういう事実をすべて大局的に俯瞰し、結合してものごとを視る、ということです。
そういう仕事をかささぎの旗は、「地域学」と名づけてやっていきたい。
ぼちぼちとできる範囲で。

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コメント

ここは桜がほんとにきれいです。
黒木の町や矢部川が眼下に美しくひろがりますね。
中学のとき春の遠足で登りました。
汗をかいたあとにながめる景色がすばらしかったです。
今みたいに整備されてなくて自然のままでとても素敵でした。

なぜ城山をつきやまというのか。とずっと思っていました。徳川家康の悪妻、築山殿とおなじ意味のつきやまだろうと思っていた。
それが矢部村の資料にでていた調とかいてつきと読ませるのをみて、なるほどとおもいました。

VS>>中学の頃、歴史の先生から猫尾城と犬尾城の戦いの話を聞いたことがあります。
中世時代はいくつもの山城があって筑後地方の各地域には強い豪族達がいたのでしょうね。
犬尾城の場所はご存知かと思いますが八女市犬山です・・わんにゃん

猫尾城と犬尾城とは一対ですね。
鷹尾城もある。

「れぎおん」をいつもただで頂いています。
これは本当に格調高いというか、一筋縄では読めんぐらい難しい文字や言葉ばかりでいつも3分の1も読めていません。
そこへきて集中力もなくなっていて、やさしい雑誌も読めません。
そこで、よーし、何が何でも読んでみせるぞ!と奮い立ち、常にバッグに入っているのが「れぎおん」1冊です。
で、「調城哀話」は難しくなく普通に読めました。
それでも4,5回は読みました。

2月5日夜のことです。
利華さんの姪御さんの友姫胡(yuiko)さんのライブへ行きました。

その日も行きの電車の中では「調城哀話」を読みました。
yuikoさんは20代の若きタンゴ演奏家、ヴァイオリン演奏、語り、の他に歌も歌うという多才ぶり、若い澄んだ声がとても素敵でした。

アンケート紙の中にどの曲が一番好きでしたか?
私は迷うことなく「三羽の渡り鴉」と書きました。
これは古いイギリス民謡らしく、荒野の中で三羽の鴉が会話をしてる・・・・と言うような歌。
これがゆったりとした歌で叙情的で声がすばらしくて、目を瞑って聞いていたら過去のさまざまな情景が浮かんでくるようで涙が出ました。

さっきまで電車の中で読んでた「調城哀話」に、かささぎさんと言う名前と鴉(カラス)が重なって、こういうのかささぎサン的には連句的って言うんでしょうかね。

子供版黒木物語でいっそう理解できました。
調べさんのなさっていることもやっと分かりました。

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