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2009年6月 7日 (日)

天文年号誤表記の謎解明まであと一歩。

▼竹橋乙四郎のコメント

矢部の六地蔵。
天文17年申戊とあるが、天文17年は戊申。

↓(下のほう)

http://snkcda.cool.ne.jp/yabemurasi/6bunka/seiiki.html

上記のサイトから一部引用させていただきます。(かささぎの旗)

引用1

□奉造立十一面観音菩薩厨子
 意趣者仰仏日光輝転法為
 山門鎮静瑞憑三十三身変
 異得家門繁昌栄専祈者
 子孫全盛之連綿万変如意也
  □天文十二夘癸季十一月廿一日成就之
   雲護寺松林禅寺 持住 明意
  筑後州上妻郡河崎庄矢部村内
  当檀那願□栗原式部少輔源臣朝親直(花押)

引用2

六地蔵者下向七代調月宗仙居士 遺言信□
  
天文十七申戊季十一月五日逝矣(夭□)
  児孫清源(原)朝臣鑑量 造立□拝
  仏法灯前得威光
  正眼見来六塵主
  総在這裡明 
文化九申

▼ かささぎの旗がおもったこと。

天文12年は本当は癸卯ですが、上記の現物表記では「夘癸」とさかさまになっています。

天文17年は本当は申戊ですが、これもまた現物史料には「申戊」と逆になっている。

上記史料にもう一つ書かれている史料作成時の年号、文化九年「」、これは本当は壬申年です。

そして残るは、天文年間の戦国百首の年号の謎。
天文24年は本当は「乙卯」なのに、現物史料では「癸卯」と記されている。

かささぎが「希望」という歌を聴いていたとき、ひらめいたのは、「みずのと・う」は「きぼう」と音読みできますから、恣意的に「乙」を「癸」に書き換えたのではなかろうか。ということでした。それは「祈り」として、の意味です。

江戸時代末期の久留米が生んだ考古学者・矢野一貞は著『筑後将士軍談』で、この天文百首和歌を『天文歌人』の見出しをつけて紹介しています。そのときに感じた疑問に、おそらく年号の二十四年がまちがいではないだろうか。干支がただしいのではないか。と書いていたのですが、同年代のものに付された年号のうち、二つが誤表記の干支であることを思えば、年号よりは干支のほうが怪しい。と思うのがすじだろうという感じがしてきました。

これだけでは断然たりないのですが。
ほんとうに時代のあわただしさをじかに知ることができる史料だとおもった。

参照させていただいたこよみの頁 http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/kyuureki.htm

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コメント

同じサイトに、永禄三年申庚というのがあり、これもさかさま。
16世紀の年号表記に何かありそう。

しかし、よく考えて見ますと、さかさまと感じるのは、現代の目でみるからであって、十干と十二支の組み合わせは60通りしかないわけで、それをさかさまに表記しようがきちんとふつうに表記しようが、当時の人にはどちらの表記法も別段あやしいものではなかったのではなかろうか。ということは、誤記などではないのが、矢部村の史料にある干支表記。
天文歌人の夏日侍の表記はそれとは異なります。
ひっくりかえせないから。
ただ、「きぼう」に二つあることを知る。
癸卯:相生
己卯:相剋

天文24年卯月25日はそのいずれでもなく、
乙卯(いつぼう):

ところで。
さっき何かがひっかかっていたのですが、それが何だったか思い出せなかった。
今おもいだした。
矢部村の六地蔵の板碑にある、
六地蔵者下向七代調月宗仙居士

この「調」。
しらべ。
しらべという姓を天皇にいただいて帰ってきた人がいました。
ほかに小侍従と刀もいっしょにいただいて。
それは黒木の猫尾城主・黒木大蔵太夫でした。
かささぎがつい先日二回も呼ばれていった行空上人の墓にちゃんと記載されていた人ではないですか。その一族が「調」氏でした。

調氏は黒木助能(くろきすけよし)が初代。
その哀しい物語がこども向けに綴られたものがありまして、二度目の星野来訪取材でコピーさせてもらってきました。
らんちゃんと星野村教育委員会へ行ってきた日に。
それをここに引用しようかどうしようか悩むところですが、検索しても、まるでひっかからない(検索の仕方が悪いのかな)、ならば、まるごと引かねばならないか。
なにか、だれかの役にたつように感じるから。

>「みずのと・う」は「きぼう」と音読みできますから、恣意的に「乙」を「癸」に書き換えたのではなかろうか。

「希望」という言葉は、もっと後世に登場した言葉であるような気がします。古典での登場例は?

ところで、癸(みづのと)は「水の弟」の意だそうです。乙(きのと)は「木の弟」

十干=「木・火・土・金・水」(五行)×「兄(え)・弟(と)」(陰陽)

「天文癸卯」(1543年)というのは、アメリカの1492年と同じくらい重要な年でした。西洋人の「日本発見」の年。
「天文癸卯秋八月二十五丁酉、我が西村の小浦に一大船有り。何れの国より来るかを知らず、船客百余人、其の形類せず、其の語通ぜず、見る者以て奇怪となす。其の中に大明の儒生一人あり、五峰と名づくる者なり、今その姓字を詳にせず。時に西村の主宰に織部丞なる者あり、頗る文字を解す。偶五峰にあい、杖を以て沙上に書して云く、『船中の客、何れの国の人なるやを知らず、何ぞ其の形の異なるや』と。五峯即ち書して云く、『此れはこれ西南蛮種の賈胡あり、粗君臣の義を知ると雖も、未だそお礼貌の其の中に在るを知らず、これ故に其の飲するや杯飲して杯せず、其の食するや手食して箸せず、徒に嗜欲の其の情に□うを知り、文字の其の理に通うを知らざる也、所謂賈胡は一処に到りて轍つ止むとは、これ其の種なり、其の有る所を以て其の無き所に易えんのみ、怪しむべき者には非ず』」(『鉄炮記』)

 ポルトガルに行ったら、ポルトガル人の日本来航は1542年と書いてある記念碑のようなものがあって、どうやらヨーロッパでは1542年説がまかり通っているらしいけど、詳細は不明。ただ『鉄炮記』の記述が正しいかどうかという問題もあるらしいです。ちなみにこれも「げな」話だからあてになりませんが、スペインの教科書にはフランシスコ=ザビエルの「日本発見」と書いてある(あった)とか。別に「発見」されんでっちゃ、あたしたちゃ昔から住んどっとたい。
 干支(えと)というと十二支のことと思う人がほとんどだけど、正確には十干十二支のことなんですね、で、この組み合わせが60種類、だから満60歳になると生まれた時の干支になる=還暦、でも昔は数え年だったから、還暦は61歳だったのだろうか、と疑問に思う今日この頃、みなさんお元気にお過ごしでしょうか(これは昔、オールナイト・ニッポンでカメがよく言ってたギャグ)。

ここのところを読み返して、たぶん、これ、まだしらべさんを知る前にかいたものだとおもうのですが、ちゃんとしらべ姓が黒木姓とつながっていることをしらべていたんだね。へえ。偉いね、自分。

えと、の「え」は兄のえ、「と」は弟のと、これは干支を習った吉野裕子の本に書かれていた、えとの基本中のきほんです。笑
おつしろうをわらってしまった。だけど、干支ってどんなに習っても、どうしても昔の人とおなじ無意識の地平には立てない。えっこんなこともあったの。とあとからあとからぼろぼろでてきて。
いま、現代のじぶんたちのまとっている衣装、時空間の感覚と方角の感覚、すべて昔の人とことなっている。意識しないでそれが身についていた人たちとぴったり気持ちをあわせることなどできない。それが残念でざんねんでたまらない。
あれ。なにがいいたかったのかな。そーだ。
きぼう、たしかに私も同じように思いました。
でも、あとの時代にできたことばとしても、みずのとう、は、とても希望と似てる大吉のえとであって、いちばんいいってかかれていたほどですから。

鉄砲記、引用ありがとう。
黒船よりだいぶ前に一大船舶がきたのですね。
それには、異種のひとびとが「船客百余人」
もいたんだろうか?かささぎのこれまでの鉄砲伝来のイメージは、南蛮人が数人きて、鉄砲をうりつけていく。ってそんなかんじのものでした。
くつがえってしまいました。黒船をみてたまがる竜馬さんを思い出した。それよりもっともっと恐ろしかったんじゃろうねえ。
ちなみに、こうなります。整理してみました。

だいたいこんな。
黒木助能と小侍従の黒木猫尾城の築城年代は文治年間、1182〜1189。
歌人の小侍従は1121年~不明。
後鳥羽院は治承四〜延応一(1180〜1239)生きた。
天文百首和歌天文24年なら1555年。
高良山十景歌たぶん1670年代?これ、てきとうです。かささぎをしんじてはいけません。日付くらい入っていそうなのにねえ。
寂源。もと寂源は山城国上賀茂の祠官藤木敦直の男で、寛文九年(紀元二三二九年座主となって下向した人であったが元禄元年帰郷の後、京都上賀茂の西、鷹か峰に閑居し同九年十二月二十三日、六十七歳で入寂した。(高良山物語より。)とあるので、寛文九年は1669年、この年に久留米に下向したんだね。元禄元年は1688年。この年に帰った。たかが峰で没したのが1696年。とありますので、久留米にいたのは1669から1688までのえーと、19年間ぽっちですね。この間になしたことなんですね。

各務支考の名月はの句、元禄11年1698年です。

ろいりさん。
還暦でおもいだした、保健医療経営大学の英語の授業中、還暦を英語でってのがあって。しくすてぃいやあずおうるどか、しくすてぃわんかでもめました。むかしの辞書では61になっていたちゃんと。佐藤先生が、その辞書の奥付をごらんになって、おおこの編者の人はわたしの師だとつぶやかれました。
そこだけちゃんと覚えていて、かんじんの何がもんだいだったのかはきれいに忘れていますが。とほほ。

「天地明察」という映画を見ました。
古来からの暦を使っている誤差が積もり積もっているので改暦が必要、ということで候補となる暦のどれが一番優れているか、日食予想で決着をつける物語でした。全体構成はフィクションとのことですが、個々のエピソードは史実に基づいているのだとか。

岡田准一主演のですね。
西日本新聞でインタビューよんだ。
監督がおくりびとの人。
ところで、わたしは付け句をたのみませんでしたか。
そうそう。せんそうのふねがみをひくくにざかひ。のあとでした。
  みそしるの実はいつも○○
みたいな句でいいですから、ぜひおねがいします。

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