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2009年5月29日 (金)

行空上人の墓

行空上人の墓

星野村指定文化財
高野堂「行空上人」の墓(史跡)

 行空上人は天台宗を学び、さらに真言宗門下に修業した後、源空(法然上人)の弟子となって浄土思想・専修念仏の普及に努めた僧で、一宿上人とも称されます。
 『元享釈書』には、年九十にして鎮西に没すとは記されていますが、念仏一念義を唱えた罪により追放されて後の、行状や没年については不詳とされています。
 『郷土史物語』(江頭享)には、天福元年(1233)七月六日、星野村と黒木町を境する高牟礼峠を越して星野谷へ下る途中、縫尾久保という所で亡くなったとあります。
行空上人の旧墓塔にかく記されていたように書いてありますが、今日ではそれを確認することができないのは残念です。
 『高野山本覚院因由並ニ筑後国檀縁之由来』には、最終の行化(ぎょうげ)文永年中(1264~1273)、星野村にて年九十、口中より光明を放ち仏舎利を吐いて掩化(えんげ)せらる、とあります。
 いずれにせよ星野谷の人達は、遍歴の途中この地で亡くなったと信じて一堂を建て、遺徳をしのんできました。五十年ごとに高野山本覚院講坊から使僧が来訪して、供養が営まれてきました。現在の墓塔は、宝暦十年(1760)に改修されたもの*で、次のように刻まれています。

 高野山講坊先師行空上人

  時宝暦十天三月 日**
   講坊法印弟子
    戒浄 建之

 また玉垣には、嘉永三庚戌(1850)正月、講坊之建、とあります。
 ところで、行空上人の話は、黒木氏や待宵小侍従との関わり中で説かれます。
また高野山本覚院は、待宵小侍従によって建立された講坊(元禄年間に待宵小侍従の法号に因んで、本覚院と改称された)を起源とします。
 そのいきさつについて学び『高野山本覚院因由並ニ筑後国檀縁之由来』から引用しますと、

(前略)小侍従一子を生むに牛(うし)たり。哀(かなしみ)殺して葬る。媱逸(いんいつ。ただし黒木物語ではほういつ、原文には女偏に宝で「ほう」のルビあり※)の難縷陳(るちん)して済度(さいど)を願ふ。上人応請(おうしょう)して、宿世の因縁輪廻し現世の業報(ごうほう、極善極悪ハ中有ナキ理由)遁れ難きを説示(ときしめ)す。大蔵太夫並に侍従等大に懺悔し厚く帰依す。此(ここ)に於て業障消滅家運長久の為、資財を擲(なげう)ち上人に依願して、高野山に講坊を建立し、次いで十二坊を建てて諸(もろもろ)の修業者を供養し聴講に資するを、待宵の十二坊と云。(後略)

このような縁(えにし)によって、筑後と高野山本覚院とは深い関係を持つようになり、今日なお続いているのです。

  引用「星野村史」 星野村教育委員会編より

*その後、数度の改修が施されてきたようです。
かささぎの旗が尋ねて行ったお堂には、平成十三年の印が入っていました。
また、お堂へ登る村道ももうじき舗装されると伺っています。
**
現在の墓塔には天文年号が彫られています。
このずれがなぜなのか。ふたたび混沌としてきました。
(墓塔の側面の文字をうっかり読み損ないました。)

▼ことば抄(平成26年6月15日書き込み)

黒木物語を読み返しています。
引用を間違っていたわけではないのですが、一字が上記資料と黒木物語で異なる。
いちばん大事なところです。仏教の罪の一つ。

媱逸の難(いんいつのなん)とほう逸の難(ほういつのなん)。
ほうの字、おんなへんに宝。
外字辞典にも女偏に宝は記載なし、しかし放逸とおなじ意味とありました。

放逸(ほういつ)は仏教が教える煩悩のひとつである。

放逸とは、悪を防ぎ善を修することに対してだらしなく、精進を怠ることである。懈怠と似ているが、放逸は、懈怠およびの三不善根の上に、悪を防がず、善を修せざる状態に対して、特に指摘されるものである。

放逸は『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち大随煩悩である。

出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E9%80%B8

かささぎは、いま、ここにいます。この罪に落ちている。大随煩悩、・・

 

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コメント

三度目です。
どうしても気になり、今日、えめさん、ぼん、せいこさんとのオフ会のあとで、一人また訪ねてみてきました。墓塔の側面に彫られている文字が、上記の文中にある、
時宝暦十天三月 日
   講坊法印弟子
    戒浄 建之
でした。この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる。行空と小侍従とのかかわりを書いてある資料。「媱逸(いんいつ)の難」とは難しいことばですね。どういう意味なのだろうか。
それにしても、五木寛之の親鸞にでてくる行空は、目下、悪役で、じゅんさいといっしょにわるだくみをして、しんらんの持っている法然上人の「選択本願念仏集」をよこせ。と汚い手を使っておどし、そそのかしている。この行空がどうして最後は小侍従の帰依を得て高野山に講坊を構えたのか、その運命の流れ、その信仰の変化、そのえにしというものを深くたずねてみたいと、おもいました。

こうやんどうまでの小道は、半分、舗装がおわっていました。段々のたんぼには水がはられ、あらしろかきがあっていました。

本覚院講坊についてのサイトを名前にはりつけましたのでご覧下さい。筑後関連の物語は出ませんが、わけがあるものとおもわれます。かささぎには黒木物語のすべてが虚構であるとは考えられない。そうするにはあまりにも生々しい。
ちなみに、上記星野村教育委員会による星野村誌にある資料引用と、黒木物語にある資料引用とを見比べますと、おなじ資料でも字が微妙にちがっている。たとえばいんいつのいんですが、黒木物語のてがきでは女偏に宝がインでした、こっちは媱逸。

さて、やっと道ができたなおらいの行事があります。
師走三日。かささぎはいくつもり。

はじめまして!
私は、星野村在住で、高野堂「行空上人」の墓が
ある地域に住んでいる者です。
この度、高野山に旅をする事になりまして、
記載されている内容が分かりやすく参考に
なりました。 ひとつお願いがございます。
行空上人をあまり知らない同行者の方々へ
このページをプリントして同行者に渡したく
思っております。 どうぞご了承のほどお願い
します。

うわあ、ありがとうございます。
まだまだなぞがいっぱい、ございます。
だけど、高良山の宝物や黒木家、星野の調一族などに伝わる系図などをちょっとでも調べますと、黒木物語の世界には大きな真実が横たわっている、それは歴史の真実だという気持ちになってきます。
高野山へいかれるとのこと、なにか新しいことがわかりましたら、ここでご報告をよろしくお願いいたします。

姫野恭子様

コピー配布のご理解・ご了承有難うございます。
では、明日から高野山へ行って参ります。
天気が少々気になりますが。。

新しい発見がありましたら連絡させて頂きます!

今日はお天気あんまりよくありませんね。強い風がふいてますし、曇っています。でも雨はまだ降っていません。高野山までどうやって行かれたのでしょうね。よい旅となりますよに。どなたか存じませんが、・・

ここ数年間にいただいた縁を振り返っています。
ここを訪ねてくださった方、ありがとうございました。
久々で高野山講坊サイトを開きましたら、かなり以前とは、つまり、私が上記記事を書いたころとは違うものが出ました。
ここをご覧ください。↓

まだ高野堂「行空上人の墓」に興味がおありですか?
私はこのサイトによって行空の墓があることを知り、少し研究をおこないました。
その結果、この行空は法然の弟子としての行空ではなく、『法華験記』に出る行空であると考えます。
詳しくは論文を発表していますので、関心がおありのようでしたら、お送りいたします。

水月様、

コメントありがとうございます。

それは是非読みたいです。

おくっていただければ、さいわいです。

八女市納楚寺田、姫野恭子宛お願いできますか。

水月さん、
これが最初でした。

この墓石は宝暦十年、1760に彫られたものでした。戒浄という僧が建立したと書いてあるけど、この僧は初代の行空も二代目の行空も知っていたのだとおもえる

と書いたが、じっさい、わからんなあ

おおそうそう
室山熊野神社に宝暦13年のがありました

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